第17話 王にふさわしくない子
王城で最もよく研がれている刃は、剣ではなかった。
言葉だった。
血筋。
正統。
格式。
母の名。
王家の品位。
古い契約。
夜に選ばれた血。
そういう美しい響きを持つ言葉ほど、王城ではよく人を刺した。
刃のように振るわれても、血は出ない。
血が出なければ罪にならない。
だから、王城の者たちは好んでそれを使う。
クラウディオは、もうそれを知っていた。
王にふさわしくない子。
その言葉も、何度か聞いた。
正面から言われることは少ない。
堂々と口にすれば、王の血を否定することにもなるからだ。
だから彼らは、少し遠回りをする。
正妃の血を引く者こそ。
正統な教育を受けた者こそ。
王城の夜を知る者こそ。
古き血族に認められる者こそ。
王座には、ふさわしい血が必要だ。
そう言ってから、クラウディオを見る。
最後の一言だけ、飲み込む。
お前ではない、と。
その朝、黒薔薇の間には、古参吸血鬼と王族の子らが集められていた。
夜血の儀を前にした、形式上の顔合わせ。
だが形式だけの場など、王城には存在しない。
表向きは挨拶。
内側は選別。
誰が誰に頭を下げるか。
誰が誰を名で呼ぶか。
誰が誰を見ないか。
誰がどの言葉で線を引くか。
すべてが記録される。
クラウディオは、黒い礼服を着ていた。
昨日よりも濃い黒だった。袖口には細い銀糸。襟は高く、喉元を隠す。まだ小さな身体には少し重い衣だったが、彼は背筋を伸ばしていた。
足は床に届く。
この部屋に置かれた椅子は、子ども用ではない。
だが今日は座らない。
立っている方がいい。
立つ位置は選べる。
座らされる位置は、他人が決める。
クラウディオはそれも学んでいた。
上座に近い場所には正妃エレオノーラがいる。
白金の髪を結い、黒真珠の首飾りをつけていた。表情は穏やかだが、目は一度も緩まない。
アドリアンは正妃の斜め前に立っている。
自然に人が集まる位置だった。
第一王子。
正妃の長子。
王座に最も近いと見なされてきた者。
彼は微笑みながら、古参血族たちと言葉を交わしている。
セヴランは少し離れた場所にいた。
腕を組み、苛立ちを隠しきれていない。彼の周りには若い血族が数人いるが、皆、彼の機嫌を測るように笑っていた。
リヴィアは母の隣を離れない。
美しい小鳥のように飾られているが、その目は不安げに周囲を見ている。
そして、クラウディオ。
彼は部屋の中央からやや外れた位置に立っていた。
誰の傍にも寄らない。
誰の後ろにも立たない。
それだけで、何人かの古参吸血鬼が不快そうに眉を動かした。
妾腹の子どもが、後ろへ控えない。
末席に沈まない。
自分の足で立つ。
それが、彼らには気に入らないらしい。
最初に近づいてきたのは、グラナート卿だった。
深緑の衣。
細い銀飾り。
冷たい目。
正妃の実家筋と近い古参血族。
昨日、クラウディオを「噂の」と呼んだ男だ。
今日はその後ろに、二人の血族を連れている。
一人は赤褐色の髪の男。
名をフェルディナン・オルグという。グラナート家の分家筋で、王城の財務に関わっていると聞いた。
もう一人は、頬のこけた女だった。
黒い扇を持ち、首元に古い血族章をつけている。イザベラ・ヴェイン。正妃派の茶会に出入りする女吸血鬼。
クラウディオは、三人の立ち位置を見た。
グラナートが中央。
フェルディナンは一歩後ろ。
イザベラは扇で口元を隠しながら、こちらを観察している。
声を出すのはグラナート。
補足するのはフェルディナン。
毒を柔らかくするのはイザベラ。
役割が分かれている。
くだらない。
だが、使える。
グラナートは優雅に礼をした。
「クラウディオ様。本日もご機嫌麗しく」
「グラナート卿」
クラウディオも礼を返す。
浅すぎず、深すぎず。
王族として相手を受ける程度の礼。
グラナートの目がわずかに動いた。
彼はもっと深い礼を期待していたのだろう。
妾腹の子が、古参血族に敬意を払う形を。
クラウディオはそれを与えなかった。
グラナートは微笑む。
「夜血の儀を前に、さぞ緊張されていることでしょう」
「必要な緊張はあります」
「必要な、ですか」
「ええ。不要な怯えは、血を濁らせますので」
カルゼンの言葉を借りた。
グラナートは一瞬だけ目を細める。
「血術教師の受け売りでしょうか」
「学んだことを使うのは、悪いことでしょうか」
「いいえ。ただ、血術は言葉で学びきれるものではありません。やはり、古き血の流れと、正統な育ちがものを言う」
来た。
クラウディオは、表情を変えなかった。
フェルディナンが後ろから口を挟む。
「王城の夜は、ただ王の血を引くだけでは越えられません。母君の家格、幼い頃からの教育、正統な血族との交わり。そうした積み重ねが必要です」
母君。
家格。
正統。
クラウディオはフェルディナンを見た。
赤褐色の髪。
右手の指輪が大きい。
左肩がわずかに下がっている。
喋る時、グラナートの顔を確認する。
自分の言葉ではなく、主の言葉を補強する男だ。
イザベラが扇の奥で笑った。
「お若いクラウディオ様には、少し酷なお話かもしれませんわね」
クラウディオは首を傾けた。
「酷?」
「ええ。血というものは、努力だけではどうにもならないことがございますもの」
「そうですね」
素直に肯定した。
三人の顔に、わずかな満足が走る。
クラウディオは続けた。
「ですから、王の血も努力では得られません」
空気が少し止まった。
グラナートの笑みが薄くなる。
クラウディオは静かに言った。
「私の中にあるものは、陛下の血です。これは努力では得られない」
「それは、もちろん」
グラナートが慎重に答える。
「ですが、王座には王の血だけではなく」
「正妃の血も必要だと?」
クラウディオは、まっすぐ聞いた。
グラナートが口を閉じた。
周囲の視線が集まり始める。
アドリアンが遠くで会話を止めた。
正妃は扇を動かしていない。
セヴランもこちらを見た。
クラウディオは、逃げ道を与えなかった。
「卿は、王座には陛下の血だけでは足りないとお考えですか」
グラナートの顔から、余裕が一枚剥がれた。
ここで「はい」と言えば、王の血だけでは不十分と言うことになる。
それは王そのものへの侮辱に近い。
では「いいえ」と言えば、クラウディオにも王座へ立つ資格の一部があると認めることになる。
グラナートは微笑みを保とうとした。
「言葉を極端に受け取られるのは、まだお若い証ですな」
「では、卿のお言葉を正確に伺いたい」
クラウディオは穏やかに言った。
声は静かだった。
だが、部屋の中でよく通った。
「王座には、陛下の血だけでは足りないのですか」
沈黙。
美しい黒薔薇の間に、重い沈黙が落ちる。
グラナートは答えられない。
フェルディナンが慌てて口を開いた。
「クラウディオ様、卿はそのような意味で申されたのでは」
「では、どのような意味ですか」
クラウディオの視線がフェルディナンへ向く。
フェルディナンは言葉に詰まった。
イザベラが扇の影から助け舟を出す。
「ただ、王にふさわしい子には、王城に認められるだけの品格が必要ということでしょう」
「品格」
クラウディオはその言葉を繰り返した。
「ええ」
「その品格は、血筋で決まるのですか」
「血筋も、大きな要素ですわ」
「では、王の血は品格に含まれない?」
イザベラの扇が止まった。
クラウディオは静かに続ける。
「私の母を低く見たいなら、そう言えばいい。ですがその場合、卿らは私を通じて陛下の血まで軽んじることになる」
声は荒くない。
むしろ優雅ですらあった。
「どちらを選びますか」
誰も答えない。
クラウディオはグラナートを見る。
「私を侮るために陛下の血を貶めるか。陛下の血を認めるために、私の血を完全には否定しないか」
グラナートの目に怒りが浮かんだ。
だが、言葉は出ない。
罠に落ちた。
血筋を盾にした者が、血筋の理屈で逃げ道を失う。
クラウディオは心の中で記録した。
グラナート。
陛下の血だけでは足りないと言えなかった。
フェルディナン。
補足に失敗。
イザベラ。
品格の言葉を出したが、王の血を否定できず沈黙。
部屋の端で、ヴェルナーが低く笑った。
その音が、さらに場を重くした。
グラナートは表情を整え直した。
「……クラウディオ様は、たいへん弁がお立ちになる」
「卿らが教えてくださったのです」
「我々が?」
「王城では、言葉も血筋も武器になると」
グラナートは、それ以上何も言わなかった。
彼は礼をして下がった。
優雅な礼だった。
だが、その背中はわずかに硬い。
最初の罠は終わった。
けれど、これだけでは足りない。
王城の駆け引きは、一つ勝てば終わるものではない。
一つ勝てば、次の手が来る。
それもすぐに。
しばらくして、給仕が血杯を運んできた。
顔合わせの場では、古い慣習として、王血を持つ子らへ薄めた儀礼血が配られる。
儀式前の軽い清め。
表向きはそうだ。
クラウディオは、銀杯が配られる順番を見ていた。
アドリアン。
セヴラン。
リヴィア。
そしてクラウディオ。
給仕をしたのは、見覚えのない若い従者だった。
黒髪。
左目の下に小さな傷。
歩く時、右足を少し庇う。
杯を置く手に緊張がある。
ただの緊張ではない。
何かを知っている者の緊張だった。
クラウディオは銀杯を見た。
血の色は薄い。
儀礼用にかなり薄められている。
だが、匂いがおかしい。
ほんのわずか。
聖別銀。
いや、銀そのものではない。
銀に触れた器を通した血の匂い。
さらに、苦い薬草。
吸血鬼の血を乱すほどではない。
だが、幼い王血にとっては反応を濁らせるかもしれない程度のもの。
夜血の儀前に、クラウディオの血を不安定に見せたい。
その程度の小細工。
稚拙。
だが、稚拙だからこそ、仕掛けた者は自信があるのだろう。
妾腹の子どもなら気づかないと思っている。
クラウディオは杯を持たなかった。
給仕が少しだけ焦る。
「クラウディオ様?」
クラウディオは杯を見たまま言った。
「これは誰の管理だ」
給仕の顔色が変わった。
「ぎ、儀礼血でございます」
「誰の管理だと聞いた」
声はまだ静かだった。
だが、周囲の者たちが気づき始めた。
アドリアンが自分の杯を見た。
セヴランも手を止める。
リヴィアは不安げに母を見る。
グラナートは顔を動かさない。
だが、フェルディナンの指が震えた。
見えた。
クラウディオはそちらへ視線を向ける。
フェルディナンはすぐに目を逸らした。
分かりやすい。
「儀礼血は、財務と血糧管理の共同手配だったはずです」
クラウディオは言った。
「フェルディナン卿」
名を呼ばれたフェルディナンの肩が跳ねた。
「卿の管理下では?」
フェルディナンは笑おうとした。
「え、ええ。確かに手配には関わりましたが」
「では、先にお飲みください」
空気が凍った。
フェルディナンの顔色が完全に変わる。
「私が?」
「ええ。卿の管理した血です。問題がないことを示すには、卿が飲むのが早い」
「これは王血を持つ方々への」
「薄めた儀礼血でしょう。古参血族が口にして毒になるものではないはずです」
フェルディナンは答えられない。
グラナートの顔が硬くなる。
イザベラが扇を閉じた。
アドリアンは杯を口へ運ばず、見ている。
正妃は微笑んだままだった。
だが、その瞳は冷たい。
クラウディオは給仕へ視線を戻した。
「この杯を、フェルディナン卿へ」
給仕は動けない。
クラウディオは低く言った。
「二度言わせるな」
その瞬間、給仕の目に恐怖が走った。
ラザールが膝をついた話を知っているのだ。
彼は震える手で銀杯を取り、フェルディナンへ運んだ。
フェルディナンは杯を受け取らない。
受け取れない。
受け取れば飲まなければならない。
飲めないなら、何かあると示すことになる。
クラウディオは、静かに見ていた。
長い沈黙の後、ヴェルナーが前へ出た。
「私が見る」
彼は杯を取り、匂いを確かめた。
すぐに顔をしかめる。
「銀に触れている。薬草も混じっているな」
ざわめきが広がった。
リヴィアが小さく悲鳴を飲み込む。
セヴランが怒りの目でフェルディナンを見る。
アドリアンの顔から笑みが消えた。
正妃は動かない。
グラナートは青ざめたフェルディナンを一瞥した。
切り捨てる目だった。
クラウディオはそれを見た。
グラナートは、手駒が失敗するとすぐに切る。
覚えた。
ヴェルナーは杯を給仕へ返した。
「誰の指示だ」
給仕は震えている。
「わ、私は、渡されただけで」
「誰から」
給仕はフェルディナンを見た。
それだけで十分だった。
フェルディナンは叫びかけた。
「違う! 私はただ、血糧庫から」
クラウディオは言った。
「違う、と叫ぶのですか」
フェルディナンの声が止まる。
広場。
火刑台。
私は魔女じゃない。
誰も信じなかった。
その声が、クラウディオの内側で冷たく響く。
彼はフェルディナンを見た。
「なら、証明なさい」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で灰が揺れた。
自分は今、群衆と同じ言葉を使っている。
証明しろ。
違うなら困らないだろう。
その言葉が、かつてロウェナを追い詰めた。
一瞬だけ、息が詰まる。
だが、クラウディオは顔に出さなかった。
違う。
これは同じではない。
ロウェナは無実だった。
フェルディナンは仕掛けた。
少なくとも、関与した。
同じ言葉でも、向ける相手と根拠が違う。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、胸の奥の灰は少し熱を持ったままだった。
フェルディナンは唇を震わせる。
何も証明できない。
クラウディオは追撃しなかった。
ここで潰しすぎれば、ただの癇癪に見える。
必要なのは、周囲に見せること。
この子どもは気づく。
この子どもは騒がずに差し出す。
この子どもへ小細工を仕掛けると、自分の手元に戻される。
そう見せること。
クラウディオは王へ向けて礼をした。
王はいつの間にか入室していた。
気配を薄くして、場の端から見ていたのだろう。
クラウディオは言った。
「陛下。儀礼血に不審がございます。夜血の儀前の清めとしては、再手配が必要かと」
告発ではない。
報告。
王へ処分を求めるのでもない。
自分の血が乱される危険を、事実として提示する。
王はフェルディナンを見た。
その視線だけで、フェルディナンの顔が白くなる。
「調べろ」
短い命令だった。
血術局の者たちがすぐに動く。
フェルディナンは連れていかれることになった。
グラナートは何も言わなかった。
助けない。
庇わない。
ロウェナの時に誰も庇わなかった広場とは、また違う沈黙。
だが、根は似ていた。
失敗した者を切り捨てる沈黙。
クラウディオは、その沈黙も覚えた。
王がクラウディオを見た。
「よく気づいた」
「血の匂いが違いました」
「恐れたか」
「いいえ」
「怒ったか」
「少し」
正直に答えた。
王の口元がわずかに動く。
「少しで済ませたか」
「済ませるべき場でしたので」
王は低く笑った。
「そうか」
それだけだった。
だが、その一言で古参吸血鬼たちの視線がまた変わる。
王が褒めた。
はっきりではない。
だが、認めた。
妾腹の子どもが、古参血族の小細工を暴き、王の前で騒がず処理した。
その事実は、血術の才とは別の意味を持つ。
後継争いで必要なのは、力だけではない。
誰が罠を見抜き、誰が罠を返すか。
それも資質だ。
クラウディオは、周囲の顔を見た。
グラナートは不快。
イザベラは警戒。
ヴェルナーは興味。
メルキオルは笑っている。
アドリアンは静かに見ている。
セヴランは怒っているが、少し焦っている。
リヴィアは怯えている。
正妃は微笑んでいる。
王は、盤面を楽しんでいる。
全員、見た。
全員、覚えた。
その夜、クラウディオは自室で記録を書いた。
フェルディナン・オルグ。
儀礼血へ銀に触れた匂いと薬草を混ぜた疑い。
給仕の視線で露見。
飲めと言うと拒絶。
違うと叫びかけた。
証明しろと言った。
グラナートは庇わなかった。
ヴェルナーが血を確認。
王が調査を命じた。
王にふさわしくない子と見る者たちが、血筋の言葉と血の杯で罠をかけた。
どちらも返した。
クラウディオはペンを止めた。
王にふさわしくない子。
その言葉を、紙に書いた。
そして、しばらく見つめる。
ふさわしいとは何か。
正妃の子であることか。
古参血族に笑われないことか。
誰かに与えられることか。
王城の食卓で品よく肉を切ることか。
火刑台で誰かが泣き叫んでも、処理が終わったと言えることか。
クラウディオは、ゆっくり次の行を書いた。
彼らの言う「ふさわしさ」は、彼らに都合のいい鎖だ。
鎖なら、切る。
この一行は、ロウェナの記録の隣ではなく、床下の帳簿へ入れた。
これは甘い記憶ではない。
王城の刃の記録だ。
その後、机の奥の引き出しを開ける。
ロウェナの紙片がある。
また来てね、クラウディオ。
魔女ではない。
火を同じにしない。
裁かれる側にはならない。
血を覚える。
最初の命令。
甘い記憶は灰の下。
夜は王を選ばない。
後継争いの始まり。
そこへ新しい紙を置く。
王にふさわしくない子。
クラウディオは、その題の下に書いた。
血筋で見下す者は、血筋で縛れる。
杯で試す者は、杯を返せる。
言葉で刺す者は、言葉で逃げ道を塞げる。
優雅に笑う者ほど、沈黙した時に弱い。
俺の武器は、血術だけではない。
覚えていること。
黙っていること。
相手に喋らせること。
相手の言葉を、相手の首に戻すこと。
ロウェナの名を誰にも渡さないこと。
クラウディオは最後の一行を書いて、ペンを置いた。
部屋の中は暗い。
暖炉に火はない。
燭台の火も少ない。
青白い魔導灯だけが、彼の手元を照らしている。
火を避けている。
菓子の匂いも避けている。
それなのに、今日、彼はまた火のそばへ近づいた気がした。
罠に落とす。
逃げ道を塞ぐ。
違うなら証明しろ、と言う。
それは、かつてロウェナを追い詰めた世界の言葉に近い。
クラウディオは、それを分かっていた。
分かっていて、使った。
だからこそ、胸の奥の灰が少しだけ熱を持つ。
ロウェナなら何と言うだろう。
違うよ、クラウディオ。
そう言うかもしれない。
あるいは、そんな顔をしないで、と言うかもしれない。
けれどロウェナはもういない。
彼女の優しさは、彼を止める手ではなく、灰の下の火になった。
その火が、彼の冷たさを照らしている。
クラウディオは目を閉じた。
今日、彼は罠を返した。
表面は優雅に。
礼を崩さず。
声を荒げず。
血術すら使わず。
相手を自分の言葉と杯で沈めた。
内側は冷たかった。
ひどく冷たかった。
だが、その冷たさの奥に、焦げた砂糖の匂いがまだ残っている。
だから、完全には腐らない。
そう思いたかった。
黒硝子に映る自分の目を見る。
瞳の奥に、かすかな赤が滲んでいた。
能力を使ったわけではない。
吸血衝動でもない。
だが血が興奮している。
罠が返ったこと。
相手が沈黙したこと。
王が見ていたこと。
後継争いが、本格的に動き始めたこと。
そのすべてに血が反応している。
クラウディオは瞬きをした。
赤は沈む。
だが消えない。
彼は黒硝子の中の自分へ、声に出さず告げた。
王にふさわしくない子。
その言葉を、好きなだけ吐けばいい。
吐いた言葉は、いずれ全部、喉へ戻してやる。
王城の夜は、静かだった。
だが、その静けさの奥で、罠に落ちた者たちの名前が、ひとつずつ血の底へ沈んでいった。




