第16話 後継争いの始まり
夜血の儀が告げられた翌朝、王城は静かに忙しかった。
誰も走らない。
誰も声を荒げない。
けれど、廊下の空気は明らかに変わっていた。
女官たちはいつもより早く部屋を行き来し、血術局の者たちは地下へ降り、古参の吸血鬼たちは王の間へ呼ばれていた。書庫の扉は朝から開き、記録係が古い儀式書を抱えて通り過ぎる。従者たちは互いに視線を交わし、言葉にならない情報を運んでいる。
王城は、音を立てずに動き始めていた。
後継争い。
その言葉を、誰も大声では言わない。
だが全員が理解していた。
三日後の夜血の儀は、ただの資質確認ではない。
王が王血を持つ子らを同じ場に立たせる。
それだけで、王城中の目が変わる。
アドリアンは第一王子として当然のように中央へ置かれる。
セヴランはその隣で牙を剥く。
リヴィアは王女として、正妃の血を証明するために立たされる。
そして、クラウディオ。
妾の子。
末席。
王の気まぐれ。
正妃の目障り。
かつてそう呼ばれた子どもが、同じ魔導円の上に立つ。
王城の者たちにとって、それは不快な異物だった。
クラウディオは、自室の鏡の前に立っていた。
マルタが襟を整えている。
今日はいつもより手つきが慎重だった。布を引きすぎない。髪を梳く時も痛ませない。水も温かい。顔を拭く布も柔らかい。
遅い。
何もかも。
クラウディオは鏡の中の自分を見た。
黒髪。
白い肌。
琥珀色の瞳。
まだ幼い輪郭。
だが、目だけは昨日までの子どもとは違って見えた。
夜血の儀を恐れている目ではない。
王座を遠くから眺めている目でもない。
盤面を見始めた目だった。
「本日は、午前にカルゼン先生の訓練、午後に古参血族の方々との顔合わせがございます」
マルタが言った。
声が少し硬い。
「古参血族」
「はい。ヴェルナー卿、グラナート卿、メルキオル卿、ほか数名が王城に参られています」
クラウディオはその名を頭の中で並べた。
ヴェルナー。
王城守備を担う古参吸血鬼。
グラナート。
正妃の実家筋と近い血族。
メルキオル。
王城血術局と古い契約を持つ男。
どれも、ただの客ではない。
彼らは王位継承に直接の権利を持たないが、王城の血脈、兵、資産、情報に深く関わっている。
王が誰を見るか。
正妃が誰を推すか。
古参血族が誰へ膝を折るか。
それによって、後継争いの重さは変わる。
クラウディオはマルタの手元を見た。
「その顔合わせに、俺も出るのか」
「陛下のご命令です」
「正妃殿下ではなく」
マルタの手が止まった。
「……はい」
王の命令。
つまり、正妃が望んだのではない。
クラウディオを古参血族の前に出すことは、正妃にとって不快なはずだ。
だが王が命じた。
王は、全員に見せようとしている。
妾腹の子がどの程度のものか。
古参吸血鬼たちがどう反応するか。
兄弟たちがどう動くか。
王城全体を、盤面にしている。
クラウディオは静かに言った。
「マルタ」
「はい」
「今日、俺を誰が笑うか見ておけ」
マルタの顔が強張った。
「クラウディオ様」
「誰が目を逸らすか。誰が兄上たちを見るか。誰が正妃を見るか。誰が俺を見るか。全部だ」
「それは、私に」
「できないのか」
マルタは言葉に詰まった。
クラウディオは鏡越しに彼女を見る。
以前なら、彼女は「そのようなことをおっしゃらないでください」と返しただろう。
今は違う。
ラザールが膝をついた日から、彼女はクラウディオの言葉を以前のようには流せなくなった。
命令には重さが生まれた。
血術を使わなくても。
声だけで。
マルタは頭を下げた。
「……承知いたしました」
「それから」
「はい」
「俺の名を、妙に崩して呼ぶ者がいたら覚えろ」
クラウディオ様。
殿下。
妾腹の王子。
あの子。
この子。
呼び名には、相手の考えが出る。
ロウェナだけが、彼をクラウディオと呼んだ。
その名を誰にも渡さないと決めた日から、クラウディオは呼び名への感度をさらに鋭くしていた。
名は刃になる。
ならば、刃の向きは見ておくべきだ。
血術訓練室には、カルゼンが先に来ていた。
今日は地下訓練場ではなく、北棟の部屋だった。
壁の魔導紋はいつも通り赤黒く沈み、青白い魔導灯が冷たく光っている。血術管理官は二人。正妃付きのセリアはいない。
カルゼンはクラウディオを見ると、短く言った。
「よく眠れませんでしたね」
「占い師」
「血術師です」
いつもの返しだった。
クラウディオは魔導円の中央へ立つ。
「今日は何をする」
「動かしません」
「昨日は夜血の儀へ向けて訓練を増やすと言った」
「だからです」
カルゼンは銀の針を出さなかった。
代わりに、黒い小瓶を机に置いた。
瓶の中には、濃い赤の液体が揺れている。
血だ。
クラウディオは瓶を見た。
「誰の血だ」
「古い王族の血を薄めたものです。儀式用の残滓。血術適性を見る時に使われる」
「それをどうする」
「見ます」
「見るだけか」
「ええ。触れない。動かさない。命じない。ただ見る」
クラウディオは瓶へ近づいた。
赤は濃い。
だが新鮮な血ではない。
古い匂いがした。
王城の地下に沈んでいた記憶のような匂い。
血は、ただの液体ではなかった。
そこに、かつての王族たちの欠片がある。
欲。
飢え。
命令。
誓約。
誰かを従わせ、誰かを殺し、誰かを守った血の残り。
クラウディオはそれを見つめた。
血の奥で、何かがこちらを見返しているようだった。
「気分は」
カルゼンが聞く。
「悪くない」
「惹かれますか」
「少し」
「それでよろしい」
「よろしいのか」
「王血に反応しない方が問題です。ただし、飲まれるな」
飲まれるな。
何度も聞いた言葉だった。
クラウディオは瓶を見たまま言う。
「夜血の儀で、俺は何を見られる」
「血術の反応。命令への適性。夜への耐性。飢餓の揺らぎ。他者の血へ干渉する力。そして」
カルゼンは少しだけ間を置いた。
「王になった時、どれほど危険か」
クラウディオは顔を上げた。
血術管理官の一人が、気まずそうに視線を伏せる。
カルゼンは隠さなかった。
それは彼の長所だった。
「王になれるか、ではないのか」
「王になれる者は、皆危険です」
カルゼンの声は淡々としていた。
「問題は、その危険をどこへ向けるか。夜血の儀で見るのは、才だけではない。どのように壊れるか、どのように耐えるか、どのように命じるかです」
「兄上たちも見られる」
「当然です」
「アドリアンは」
「整っているでしょう」
カルゼンは即答した。
「第一王子殿下は、血の流れも、表情も、言葉も整えるのが上手い。儀式の場では強い」
「セヴランは」
「出力はある。だが怒りで揺れやすい」
「リヴィアは」
「正妃殿下の血を濃く引く。血そのものは美しい。ただし、夜に好かれているかどうかは別です」
夜に好かれているか。
クラウディオはその言葉を胸の中で転がした。
夜は王を選ばない。
王が夜を従わせる。
王の言葉と、カルゼンの言葉は似ていて、少し違う。
「俺は」
クラウディオは聞いた。
カルゼンは彼を見た。
「あなたは、血が記憶を持ちすぎている」
血術管理官がまた視線を落とした。
「普通、子どもの血はもっと軽い。怒りも悲しみもあって当然ですが、流れはまだ浅い。あなたの血は底が早くできすぎている」
「悪いことか」
「武器にはなります」
クラウディオは、カルゼンを見た。
「悪いことかと聞いた」
「危ういことです」
「悪いことではない」
「使い方次第です」
また、それ。
火も。
血も。
記憶も。
使い方次第。
ならば、使うしかない。
クラウディオは黒い小瓶を見た。
「俺の武器は血術か」
「それだけではありません」
カルゼンは言った。
「あなたの武器は、記憶です」
クラウディオは黙った。
「誰が何を言ったか。誰が目を逸らしたか。誰が笑ったか。誰が黙ったか。あなたは覚えている。血術の才より、そちらの方が厄介です」
「厄介」
「ええ」
「褒めているのか」
「警告しています」
クラウディオはわずかに笑った。
子どもらしくない、薄い笑みだった。
「警告は聞いておく」
「従うとは言わないのですね」
「必要なら従う」
「必要でなければ」
「記録する」
カルゼンは一瞬、黙った。
それから、珍しく小さく息を吐いた。
「あなたは、本当に王城向きですね」
その言葉は褒め言葉ではなかった。
呪いに近い。
クラウディオはそう思った。
午後の顔合わせは、王城の黒薔薇の間で行われた。
黒い石柱が並び、壁には古い吸血鬼貴族たちの紋章が刻まれている。天井は高く、窓は黒硝子。燭台には青白い火が灯っていた。
そこには、王族と古参血族が集められていた。
王はまだ来ていない。
正妃エレオノーラは上座に近い席に座り、その周囲に女官たちを控えさせている。
アドリアンは彼女の少し前に立ち、古参血族たちと穏やかに言葉を交わしていた。
セヴランは腕を組み、苛立ちを隠しきれない様子で窓際にいる。
リヴィアは母のそばを離れない。
クラウディオは、最後に入室した。
それは偶然ではなかった。
呼ばれる順番。
入る位置。
誰が先にいて、誰が後から入るか。
それだけで、部屋の意味は変わる。
彼は末席の子としてではなく、遅れて追加された異物として部屋に入れられたのだ。
古参血族たちの視線が集まる。
冷たい。
値踏みする視線。
獲物を見る目ではない。
危険か、利用できるか、消すべきかを測る目だった。
マルタは背後でわずかに身を固くした。
クラウディオは一歩進む。
足音は小さい。
だが、部屋に響いた。
最初に口を開いたのは、グラナート卿だった。
痩せた長身の男で、深緑の衣に古い銀飾りをつけている。正妃の実家筋と近い血族。顔は整っているが、目が冷たい。
「こちらが、噂のクラウディオ様ですか」
噂の。
クラウディオはその言葉を胸の中で記録する。
グラナート。
噂の、と言った。
正妃の唇がほんの少し動いた。
止めない。
アドリアンは微笑んだまま見ている。
セヴランは面白くなさそうに視線を逸らす。
クラウディオは礼をした。
「クラウディオ・ルジェリウスです」
自分から名乗った。
妾の子ではなく。
噂の、でもなく。
クラウディオ・ルジェリウス。
王家の名を含めて。
部屋の空気がわずかに変わった。
グラナートの目が細くなる。
「ルジェリウスを名乗るのは当然でしたな。陛下の御子であらせられる」
丁寧な言葉。
だが、端に毒がある。
当然ではないと言いたいのだろう。
クラウディオは静かに答えた。
「はい。当然です」
毒を受け取らず、言葉だけを返す。
グラナートの笑みが少し固まる。
次に、ヴェルナー卿が口を開いた。
彼は他の古参血族より大柄だった。灰黒い髪を後ろで束ね、軍装に近い衣を着ている。王城守備を担うだけあって、立ち方に隙が少ない。
「血術師を膝まずかせたと聞いた」
直截だった。
この男は、言葉を飾らないらしい。
クラウディオは彼を見た。
「事実です」
部屋が静まる。
ヴェルナーは眉を動かした。
「否定しないのか」
「否定すれば、事実が変わりますか」
「変わらないな」
「なら、否定する理由がありません」
ヴェルナーは数秒クラウディオを見て、それから低く笑った。
嘲笑ではなかった。
興味に近い。
「なるほど」
グラナートが冷たく言う。
「ですが、子どもが一度血を荒らした程度で、王城が騒ぐのも滑稽な話です」
子ども。
また。
クラウディオは視線をグラナートへ戻した。
「その滑稽な話のために、卿はここへ来られたのですか」
グラナートの目が冷える。
正妃の指が扇の上で止まる。
アドリアンが、ほんの少しだけ笑みを深くした。
クラウディオは続けた。
「滑稽と思うなら、捨て置けばよろしい。わざわざ見に来た時点で、卿も騒ぎの一部です」
リヴィアが息を呑んだ。
セヴランがこちらを睨む。
グラナートの顔には、不快が浮かんだ。
彼は古参血族だ。
妾腹の子どもに言い返されるとは思っていなかったのだろう。
クラウディオはその不快を見た。
覚えた。
この男は、軽んじた相手が返すと苛立つ。
それは弱点だ。
メルキオル卿がそこで笑った。
小柄な老人のような吸血鬼だった。実際には、見た目よりはるかに古いはずだ。銀白の髪を短く切り、黒い杖を持っている。
「口は立つようだ」
「口だけなら、王城には多いでしょう」
クラウディオは返した。
メルキオルの笑みが濃くなる。
「その口で、夜血の儀も越えるつもりかね」
「口で越えられる儀なら、皆様がここまで集まる必要はないかと」
ヴェルナーがまた低く笑った。
グラナートは笑わない。
正妃も笑わない。
アドリアンは静かに観察している。
クラウディオは、部屋の中の視線を一つずつ拾った。
古参吸血鬼たちは、まだ彼を軽んじている。
子ども。
妾腹。
偶然血が動いた者。
王の一時的な興味。
そう見ている者が多い。
だが同時に、無視はできなくなっている。
それで十分だった。
クラウディオは、自分の武器を理解していた。
血術。
記憶。
沈黙。
言葉。
相手の癖。
恐怖。
そして、まだ見せていないものがあると思わせる余白。
すべてを出してはいけない。
ラザールに命じたことは、すでに王城中へ広がった。
なら、次に必要なのは暴力ではない。
相手に考えさせること。
この子どもはどこまで分かっているのか。
どこまで覚えているのか。
どこまで命じられるのか。
そう思わせる。
疑いは、時に血術より長く効く。
グラナートが言った。
「夜血の儀では、言葉の切れ味ではなく血が見られる。そこで恥をかかぬことですな」
クラウディオは頭を下げた。
「ご忠告、記憶しておきます」
記憶。
その言葉に、マルタの肩がわずかに揺れた。
彼女はもう知っている。
クラウディオが「覚える」と言う時、それはただの返事ではない。
記録に近い。
帳簿に近い。
いずれ取り出すための言葉だ。
グラナートはそれに気づかない。
だが、アドリアンは気づいたようだった。
彼の青い瞳が、ほんの少し細くなった。
やはり厄介だ。
クラウディオは思った。
アドリアンは、言葉の下を見る。
セヴランは怒りで動く。
グラナートは侮りで足を滑らせる。
ヴェルナーは力を見る。
メルキオルは面白がる。
リヴィアは母を見る。
正妃は盤面全体を見る。
王は、そのさらに外側から見ている。
後継争いが始まった。
だが、剣を抜いて斬り合うわけではない。
最初に交わされるのは、視線だ。
次に、呼び名。
次に、噂。
そして、血。
クラウディオは、その順番を理解し始めていた。
王が入室したのは、その少し後だった。
全員が頭を下げる。
クラウディオも礼をした。
王は上座へ向かい、古参血族たちを見渡した。
「三日後、夜血の儀を行う」
王の声が部屋に沈む。
「異論は聞かぬ」
最初から封じた。
グラナートは口を開かなかった。
正妃も微笑んだまま。
王は続ける。
「王血を持つ者は、夜の前に立つ。血が耐えられぬ者に、王城の夜は任せられぬ」
その言葉は、全員へ向けられていた。
だが、古参血族たちの視線が一瞬、クラウディオへ集まる。
妾腹の子が耐えられるのか。
そう思っている。
クラウディオは目を伏せたまま、その視線を受けた。
耐えるだけなら、もう飽きるほどしてきた。
だが、夜血の儀で必要なのは耐えることだけではない。
夜を従わせること。
王がそう言った。
クラウディオは静かに息をした。
彼の中には、甘い記憶がある。
灰の下に。
火刑台の記憶がある。
血の底に。
王城で受けた屈辱がある。
床下の帳簿に。
ラザールが膝をついた音がある。
耳の奥に。
それらはすべて、武器になる。
誰もその形を知らない。
古参吸血鬼たちは、まだ彼を軽んじる。
子どもだと。
妾腹だと。
王座の端に触れる資格もないと。
それでいい。
軽んじる者は、近づく。
近づけば、見える。
見えれば、覚えられる。
覚えたものは、いつか使える。
王の話が終わると、古参血族たちは順に礼をした。
会合は解かれた。
部屋の空気が少し緩む。
その時、ヴェルナーがクラウディオのそばへ来た。
大柄な影が落ちる。
「クラウディオ様」
彼は、きちんと名を呼んだ。
妾腹でも、この子でも、噂のでもなく。
クラウディオ様。
形だけかもしれない。
だが、他の者よりはましだった。
クラウディオは見上げる。
「何でしょう」
「夜血の儀では、恐れるな」
短い言葉だった。
慰めではない。
指示に近い。
「恐れは血を乱す」
「怒りは」
「使える者なら武器になる。使えぬ者なら足を掬う」
クラウディオはヴェルナーを見た。
この男は、カルゼンと似たことを言う。
飾らない。
踏み込みすぎない。
だが、逃げもしない。
「卿は、私を軽んじていないのですか」
クラウディオは聞いた。
ヴェルナーは少しだけ目を細めた。
「軽んじていた」
過去形。
クラウディオは黙って続きを待つ。
「今は、測っている」
「正直ですね」
「王城では、それが一番嫌われる」
「では、なぜ」
「面倒だからだ」
ヴェルナーはそれだけ言った。
クラウディオは、ほんの少しだけ興味を持った。
この男は、噂や飾りより、実際の力を見る。
味方ではない。
だが、利用できるかもしれない。
あるいは、敵に回せば厄介だ。
記録する。
ヴェルナー。
名前を正しく呼んだ。
軽んじていたと言った。
今は測っている。
恐れは血を乱す。
怒りは使えるなら武器。
面倒だから正直。
クラウディオは頭を下げた。
「覚えておきます」
ヴェルナーは一瞬、奇妙な顔をした。
その「覚えておきます」が、ただの礼ではないと感じたのかもしれない。
だが彼は何も言わず、離れていった。
部屋を出る時、アドリアンが横に並んだ。
「人気者だね」
穏やかな声。
クラウディオは前を見たまま答える。
「見世物の間違いでは」
「それを分かっているなら安心した」
「兄上は、私を心配してくださるのですか」
「まさか」
アドリアンは微笑んだ。
「お前が自分を見世物だと分からないほど愚かなら、つまらないと思っただけだ」
クラウディオはアドリアンを見た。
初めて、彼は少しだけ本音を出したようだった。
つまらない。
つまり、面白がっている。
そして、警戒している。
アドリアンにとって、クラウディオは排除対象であると同時に、盤面を変える駒でもあるのだろう。
クラウディオは言った。
「兄上は、私をどうしたいのです」
「どう、とは」
「潰すのか。利用するのか。見逃すのか」
アドリアンの笑みが、ほんの少し深くなる。
「その三つだけ?」
「他にも?」
「育てる、という選択もある」
クラウディオは足を止めた。
アドリアンも止まる。
廊下の青白い火が、二人の影を床へ伸ばしている。
「兄上が、私を」
「利用するためにね」
アドリアンは綺麗に笑った。
「優しい兄の言葉を期待した?」
「いいえ」
クラウディオは即答した。
その早さに、アドリアンが少しだけ目を細める。
「ならいい」
「兄上」
「何?」
「私は、誰かに育てられるつもりはありません」
声は静かだった。
「利用されるつもりも」
アドリアンは彼を見た。
「言うようになった」
「覚えただけです」
「誰に?」
その問いに、クラウディオは答えなかった。
ロウェナの名は出さない。
火刑台のことも。
甘い記憶が灰の下にあることも。
アドリアンには渡さない。
沈黙が落ちる。
アドリアンは、その沈黙をしばらく見ていた。
「そこに、お前の核があるんだね」
クラウディオは動かなかった。
アドリアンは微笑んだまま続ける。
「いいよ。今は聞かない」
「今は」
「いつか聞く」
「答えるとは限りません」
「答えさせる方法を探すさ」
アドリアンはそう言って、先に歩いていった。
クラウディオはその背を見送った。
アドリアン。
育てる、利用する。
核があると気づいた。
いつか聞くと言った。
危険。
最も危険。
セヴランよりも。
グラナートよりも。
ラザールよりも。
アドリアンは、クラウディオの血ではなく、その奥の記憶に触れようとしている。
絶対に触れさせない。
部屋へ戻ると、マルタが待っていた。
彼女は緊張した顔で言った。
「いかがでしたか」
クラウディオは外套を脱ぎながら答えた。
「始まった」
「何が」
「後継争い」
マルタの顔から血の気が引く。
その言葉を、子どもの口から聞くのが恐ろしかったのだろう。
クラウディオは机へ向かった。
「資料は」
「古い儀式記録をいくつか。ですが、王族専用の封印記録は私では」
「誰なら開ける」
「血術局、または王の許可が」
「カルゼンに聞く」
「カルゼン先生が応じるでしょうか」
「必要なら応じさせる」
マルタは黙った。
以前なら、そんなことはできませんと言っただろう。
今は言わない。
クラウディオはそれを見た。
自分の武器は、血術だけではない。
相手が自分をどう見るか。
それも武器になる。
恐怖。
警戒。
興味。
罪悪感。
軽蔑。
どれも使える。
ロウェナは、それを使わなかった。
だから燃やされた。
いや。
違う。
クラウディオは胸の中で、その思考を止めた。
ロウェナが悪いのではない。
優しさは罪ではない。
使わなかったから悪いのではない。
使わなくても生きられる世界であるべきだった。
だが、この世界はそうではなかった。
だから自分は使う。
優しさを否定するためではない。
奪われた優しさを、二度と同じ形で踏ませないために。
……そう言えば綺麗に聞こえる。
本当は、憎しみもある。
怒りもある。
裁きたい気持ちもある。
全部だ。
全部持ったまま進むしかない。
夜、クラウディオは机の奥の紙を広げた。
ロウェナの記録の隣に、新しい紙を置く。
後継争いの始まり。
そう書いた。
そして続ける。
古参血族は、まだ俺を軽んじる。
グラナート。噂の、と呼んだ。滑稽と言った。軽んじた相手が返すと怒る。
ヴェルナー。名を正しく呼んだ。軽んじていた、今は測っていると言った。恐れは血を乱す。怒りは使える者なら武器。
メルキオル。面白がる。危険かは不明。
アドリアン。育てる、利用すると言った。核を探っている。最も危険。
セヴラン。怒りで動く。拳を止めた。状況を見る程度の理性はある。
リヴィア。母を見る。単独では動けない。
エレオノーラ。盤面を見る。俺を消したいが、王の前では動けない。
ヴァレンティヌス。全員を盤面に乗せた。
俺の武器。
血術。
記憶。
沈黙。
言葉。
相手の癖。
恐怖。
余白。
そして、ロウェナの名を誰にも渡さないこと。
最後の一行を書いた時、クラウディオはペンを止めた。
ロウェナの名を誰にも渡さないこと。
それも武器なのか。
少し考える。
武器だった。
彼の核を、誰にも触れさせないための武器。
アドリアンが探ろうとしても。
正妃が調べさせても。
カルゼンが血から読もうとしても。
誰にも渡さない。
灰の下にある甘い記憶は、彼だけのものだ。
それがあるから、彼は完全には王城の冷たさだけにならない。
それがあるから、同時に冷たくなれる。
矛盾している。
だが、矛盾ごと血が覚えている。
クラウディオは紙をしまった。
黒硝子の前に立つ。
夜は見えない。
だが、そこにある。
三日後、その夜の前に立つ。
兄弟たちと。
古参吸血鬼たちの視線の中で。
王と正妃の前で。
そこで、後継争いはさらに形を持つ。
クラウディオは瞼を閉じた。
胸の奥で血が静かに動く。
吸血衝動ではない。
飢えでもない。
力の予兆。
瞼を開けると、黒硝子に映る瞳の奥に、ほんのわずかに赤が滲んでいた。
禍々しい赤。
まだ薄い。
まだ沈んでいる。
だが確かにある。
クラウディオは、その赤を見た。
古参血族たちは、まだ彼を軽んじる。
兄弟たちは、まだ彼を下に見ようとする。
正妃は、まだ彼を盤面の邪魔な染みだと思っている。
王は、まだ彼を観察対象として見ている。
それでいい。
彼らがそう見ている間に、クラウディオは見る。
覚える。
沈める。
そして、必要な時に取り出す。
後継争いは始まった。
だが、クラウディオはもう怯えていなかった。
自分の武器を知っている者は、裸ではない。
たとえそれが、血と記憶と傷で作られた、ひどく冷たい武器だったとしても。
彼は黒硝子に映る自分へ、静かに告げた。
軽んじていろ。
その方が、よく見える。




