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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第16話 後継争いの始まり


 夜血の儀が告げられた翌朝、王城は静かに忙しかった。


 誰も走らない。


 誰も声を荒げない。


 けれど、廊下の空気は明らかに変わっていた。


 女官たちはいつもより早く部屋を行き来し、血術局の者たちは地下へ降り、古参の吸血鬼たちは王の間へ呼ばれていた。書庫の扉は朝から開き、記録係が古い儀式書を抱えて通り過ぎる。従者たちは互いに視線を交わし、言葉にならない情報を運んでいる。


 王城は、音を立てずに動き始めていた。


 後継争い。


 その言葉を、誰も大声では言わない。


 だが全員が理解していた。


 三日後の夜血の儀は、ただの資質確認ではない。


 王が王血を持つ子らを同じ場に立たせる。


 それだけで、王城中の目が変わる。


 アドリアンは第一王子として当然のように中央へ置かれる。


 セヴランはその隣で牙を剥く。


 リヴィアは王女として、正妃の血を証明するために立たされる。


 そして、クラウディオ。


 妾の子。


 末席。


 王の気まぐれ。


 正妃の目障り。


 かつてそう呼ばれた子どもが、同じ魔導円の上に立つ。


 王城の者たちにとって、それは不快な異物だった。


 クラウディオは、自室の鏡の前に立っていた。


 マルタが襟を整えている。


 今日はいつもより手つきが慎重だった。布を引きすぎない。髪を梳く時も痛ませない。水も温かい。顔を拭く布も柔らかい。


 遅い。


 何もかも。


 クラウディオは鏡の中の自分を見た。


 黒髪。


 白い肌。


 琥珀色の瞳。


 まだ幼い輪郭。


 だが、目だけは昨日までの子どもとは違って見えた。


 夜血の儀を恐れている目ではない。


 王座を遠くから眺めている目でもない。


 盤面を見始めた目だった。


「本日は、午前にカルゼン先生の訓練、午後に古参血族の方々との顔合わせがございます」


 マルタが言った。


 声が少し硬い。


「古参血族」


「はい。ヴェルナー卿、グラナート卿、メルキオル卿、ほか数名が王城に参られています」


 クラウディオはその名を頭の中で並べた。


 ヴェルナー。


 王城守備を担う古参吸血鬼。


 グラナート。


 正妃の実家筋と近い血族。


 メルキオル。


 王城血術局と古い契約を持つ男。


 どれも、ただの客ではない。


 彼らは王位継承に直接の権利を持たないが、王城の血脈、兵、資産、情報に深く関わっている。


 王が誰を見るか。


 正妃が誰を推すか。


 古参血族が誰へ膝を折るか。


 それによって、後継争いの重さは変わる。


 クラウディオはマルタの手元を見た。


「その顔合わせに、俺も出るのか」


「陛下のご命令です」


「正妃殿下ではなく」


 マルタの手が止まった。


「……はい」


 王の命令。


 つまり、正妃が望んだのではない。


 クラウディオを古参血族の前に出すことは、正妃にとって不快なはずだ。


 だが王が命じた。


 王は、全員に見せようとしている。


 妾腹の子がどの程度のものか。


 古参吸血鬼たちがどう反応するか。


 兄弟たちがどう動くか。


 王城全体を、盤面にしている。


 クラウディオは静かに言った。


「マルタ」


「はい」


「今日、俺を誰が笑うか見ておけ」


 マルタの顔が強張った。


「クラウディオ様」


「誰が目を逸らすか。誰が兄上たちを見るか。誰が正妃を見るか。誰が俺を見るか。全部だ」


「それは、私に」


「できないのか」


 マルタは言葉に詰まった。


 クラウディオは鏡越しに彼女を見る。


 以前なら、彼女は「そのようなことをおっしゃらないでください」と返しただろう。


 今は違う。


 ラザールが膝をついた日から、彼女はクラウディオの言葉を以前のようには流せなくなった。


 命令には重さが生まれた。


 血術を使わなくても。


 声だけで。


 マルタは頭を下げた。


「……承知いたしました」


「それから」


「はい」


「俺の名を、妙に崩して呼ぶ者がいたら覚えろ」


 クラウディオ様。


 殿下。


 妾腹の王子。


 あの子。


 この子。


 呼び名には、相手の考えが出る。


 ロウェナだけが、彼をクラウディオと呼んだ。


 その名を誰にも渡さないと決めた日から、クラウディオは呼び名への感度をさらに鋭くしていた。


 名は刃になる。


 ならば、刃の向きは見ておくべきだ。


 血術訓練室には、カルゼンが先に来ていた。


 今日は地下訓練場ではなく、北棟の部屋だった。


 壁の魔導紋はいつも通り赤黒く沈み、青白い魔導灯が冷たく光っている。血術管理官は二人。正妃付きのセリアはいない。


 カルゼンはクラウディオを見ると、短く言った。


「よく眠れませんでしたね」


「占い師」


「血術師です」


 いつもの返しだった。


 クラウディオは魔導円の中央へ立つ。


「今日は何をする」


「動かしません」


「昨日は夜血の儀へ向けて訓練を増やすと言った」


「だからです」


 カルゼンは銀の針を出さなかった。


 代わりに、黒い小瓶を机に置いた。


 瓶の中には、濃い赤の液体が揺れている。


 血だ。


 クラウディオは瓶を見た。


「誰の血だ」


「古い王族の血を薄めたものです。儀式用の残滓。血術適性を見る時に使われる」


「それをどうする」


「見ます」


「見るだけか」


「ええ。触れない。動かさない。命じない。ただ見る」


 クラウディオは瓶へ近づいた。


 赤は濃い。


 だが新鮮な血ではない。


 古い匂いがした。


 王城の地下に沈んでいた記憶のような匂い。


 血は、ただの液体ではなかった。


 そこに、かつての王族たちの欠片がある。


 欲。


 飢え。


 命令。


 誓約。


 誰かを従わせ、誰かを殺し、誰かを守った血の残り。


 クラウディオはそれを見つめた。


 血の奥で、何かがこちらを見返しているようだった。


「気分は」


 カルゼンが聞く。


「悪くない」


「惹かれますか」


「少し」


「それでよろしい」


「よろしいのか」


「王血に反応しない方が問題です。ただし、飲まれるな」


 飲まれるな。


 何度も聞いた言葉だった。


 クラウディオは瓶を見たまま言う。


「夜血の儀で、俺は何を見られる」


「血術の反応。命令への適性。夜への耐性。飢餓の揺らぎ。他者の血へ干渉する力。そして」


 カルゼンは少しだけ間を置いた。


「王になった時、どれほど危険か」


 クラウディオは顔を上げた。


 血術管理官の一人が、気まずそうに視線を伏せる。


 カルゼンは隠さなかった。


 それは彼の長所だった。


「王になれるか、ではないのか」


「王になれる者は、皆危険です」


 カルゼンの声は淡々としていた。


「問題は、その危険をどこへ向けるか。夜血の儀で見るのは、才だけではない。どのように壊れるか、どのように耐えるか、どのように命じるかです」


「兄上たちも見られる」


「当然です」


「アドリアンは」


「整っているでしょう」


 カルゼンは即答した。


「第一王子殿下は、血の流れも、表情も、言葉も整えるのが上手い。儀式の場では強い」


「セヴランは」


「出力はある。だが怒りで揺れやすい」


「リヴィアは」


「正妃殿下の血を濃く引く。血そのものは美しい。ただし、夜に好かれているかどうかは別です」


 夜に好かれているか。


 クラウディオはその言葉を胸の中で転がした。


 夜は王を選ばない。


 王が夜を従わせる。


 王の言葉と、カルゼンの言葉は似ていて、少し違う。


「俺は」


 クラウディオは聞いた。


 カルゼンは彼を見た。


「あなたは、血が記憶を持ちすぎている」


 血術管理官がまた視線を落とした。


「普通、子どもの血はもっと軽い。怒りも悲しみもあって当然ですが、流れはまだ浅い。あなたの血は底が早くできすぎている」


「悪いことか」


「武器にはなります」


 クラウディオは、カルゼンを見た。


「悪いことかと聞いた」


「危ういことです」


「悪いことではない」


「使い方次第です」


 また、それ。


 火も。


 血も。


 記憶も。


 使い方次第。


 ならば、使うしかない。


 クラウディオは黒い小瓶を見た。


「俺の武器は血術か」


「それだけではありません」


 カルゼンは言った。


「あなたの武器は、記憶です」


 クラウディオは黙った。


「誰が何を言ったか。誰が目を逸らしたか。誰が笑ったか。誰が黙ったか。あなたは覚えている。血術の才より、そちらの方が厄介です」


「厄介」


「ええ」


「褒めているのか」


「警告しています」


 クラウディオはわずかに笑った。


 子どもらしくない、薄い笑みだった。


「警告は聞いておく」


「従うとは言わないのですね」


「必要なら従う」


「必要でなければ」


「記録する」


 カルゼンは一瞬、黙った。


 それから、珍しく小さく息を吐いた。


「あなたは、本当に王城向きですね」


 その言葉は褒め言葉ではなかった。


 呪いに近い。


 クラウディオはそう思った。


 午後の顔合わせは、王城の黒薔薇の間で行われた。


 黒い石柱が並び、壁には古い吸血鬼貴族たちの紋章が刻まれている。天井は高く、窓は黒硝子。燭台には青白い火が灯っていた。


 そこには、王族と古参血族が集められていた。


 王はまだ来ていない。


 正妃エレオノーラは上座に近い席に座り、その周囲に女官たちを控えさせている。


 アドリアンは彼女の少し前に立ち、古参血族たちと穏やかに言葉を交わしていた。


 セヴランは腕を組み、苛立ちを隠しきれない様子で窓際にいる。


 リヴィアは母のそばを離れない。


 クラウディオは、最後に入室した。


 それは偶然ではなかった。


 呼ばれる順番。


 入る位置。


 誰が先にいて、誰が後から入るか。


 それだけで、部屋の意味は変わる。


 彼は末席の子としてではなく、遅れて追加された異物として部屋に入れられたのだ。


 古参血族たちの視線が集まる。


 冷たい。


 値踏みする視線。


 獲物を見る目ではない。


 危険か、利用できるか、消すべきかを測る目だった。


 マルタは背後でわずかに身を固くした。


 クラウディオは一歩進む。


 足音は小さい。


 だが、部屋に響いた。


 最初に口を開いたのは、グラナート卿だった。


 痩せた長身の男で、深緑の衣に古い銀飾りをつけている。正妃の実家筋と近い血族。顔は整っているが、目が冷たい。


「こちらが、噂のクラウディオ様ですか」


 噂の。


 クラウディオはその言葉を胸の中で記録する。


 グラナート。


 噂の、と言った。


 正妃の唇がほんの少し動いた。


 止めない。


 アドリアンは微笑んだまま見ている。


 セヴランは面白くなさそうに視線を逸らす。


 クラウディオは礼をした。


「クラウディオ・ルジェリウスです」


 自分から名乗った。


 妾の子ではなく。


 噂の、でもなく。


 クラウディオ・ルジェリウス。


 王家の名を含めて。


 部屋の空気がわずかに変わった。


 グラナートの目が細くなる。


「ルジェリウスを名乗るのは当然でしたな。陛下の御子であらせられる」


 丁寧な言葉。


 だが、端に毒がある。


 当然ではないと言いたいのだろう。


 クラウディオは静かに答えた。


「はい。当然です」


 毒を受け取らず、言葉だけを返す。


 グラナートの笑みが少し固まる。


 次に、ヴェルナー卿が口を開いた。


 彼は他の古参血族より大柄だった。灰黒い髪を後ろで束ね、軍装に近い衣を着ている。王城守備を担うだけあって、立ち方に隙が少ない。


「血術師を膝まずかせたと聞いた」


 直截だった。


 この男は、言葉を飾らないらしい。


 クラウディオは彼を見た。


「事実です」


 部屋が静まる。


 ヴェルナーは眉を動かした。


「否定しないのか」


「否定すれば、事実が変わりますか」


「変わらないな」


「なら、否定する理由がありません」


 ヴェルナーは数秒クラウディオを見て、それから低く笑った。


 嘲笑ではなかった。


 興味に近い。


「なるほど」


 グラナートが冷たく言う。


「ですが、子どもが一度血を荒らした程度で、王城が騒ぐのも滑稽な話です」


 子ども。


 また。


 クラウディオは視線をグラナートへ戻した。


「その滑稽な話のために、卿はここへ来られたのですか」


 グラナートの目が冷える。


 正妃の指が扇の上で止まる。


 アドリアンが、ほんの少しだけ笑みを深くした。


 クラウディオは続けた。


「滑稽と思うなら、捨て置けばよろしい。わざわざ見に来た時点で、卿も騒ぎの一部です」


 リヴィアが息を呑んだ。


 セヴランがこちらを睨む。


 グラナートの顔には、不快が浮かんだ。


 彼は古参血族だ。


 妾腹の子どもに言い返されるとは思っていなかったのだろう。


 クラウディオはその不快を見た。


 覚えた。


 この男は、軽んじた相手が返すと苛立つ。


 それは弱点だ。


 メルキオル卿がそこで笑った。


 小柄な老人のような吸血鬼だった。実際には、見た目よりはるかに古いはずだ。銀白の髪を短く切り、黒い杖を持っている。


「口は立つようだ」


「口だけなら、王城には多いでしょう」


 クラウディオは返した。


 メルキオルの笑みが濃くなる。


「その口で、夜血の儀も越えるつもりかね」


「口で越えられる儀なら、皆様がここまで集まる必要はないかと」


 ヴェルナーがまた低く笑った。


 グラナートは笑わない。


 正妃も笑わない。


 アドリアンは静かに観察している。


 クラウディオは、部屋の中の視線を一つずつ拾った。


 古参吸血鬼たちは、まだ彼を軽んじている。


 子ども。


 妾腹。


 偶然血が動いた者。


 王の一時的な興味。


 そう見ている者が多い。


 だが同時に、無視はできなくなっている。


 それで十分だった。


 クラウディオは、自分の武器を理解していた。


 血術。


 記憶。


 沈黙。


 言葉。


 相手の癖。


 恐怖。


 そして、まだ見せていないものがあると思わせる余白。


 すべてを出してはいけない。


 ラザールに命じたことは、すでに王城中へ広がった。


 なら、次に必要なのは暴力ではない。


 相手に考えさせること。


 この子どもはどこまで分かっているのか。


 どこまで覚えているのか。


 どこまで命じられるのか。


 そう思わせる。


 疑いは、時に血術より長く効く。


 グラナートが言った。


「夜血の儀では、言葉の切れ味ではなく血が見られる。そこで恥をかかぬことですな」


 クラウディオは頭を下げた。


「ご忠告、記憶しておきます」


 記憶。


 その言葉に、マルタの肩がわずかに揺れた。


 彼女はもう知っている。


 クラウディオが「覚える」と言う時、それはただの返事ではない。


 記録に近い。


 帳簿に近い。


 いずれ取り出すための言葉だ。


 グラナートはそれに気づかない。


 だが、アドリアンは気づいたようだった。


 彼の青い瞳が、ほんの少し細くなった。


 やはり厄介だ。


 クラウディオは思った。


 アドリアンは、言葉の下を見る。


 セヴランは怒りで動く。


 グラナートは侮りで足を滑らせる。


 ヴェルナーは力を見る。


 メルキオルは面白がる。


 リヴィアは母を見る。


 正妃は盤面全体を見る。


 王は、そのさらに外側から見ている。


 後継争いが始まった。


 だが、剣を抜いて斬り合うわけではない。


 最初に交わされるのは、視線だ。


 次に、呼び名。


 次に、噂。


 そして、血。


 クラウディオは、その順番を理解し始めていた。


 王が入室したのは、その少し後だった。


 全員が頭を下げる。


 クラウディオも礼をした。


 王は上座へ向かい、古参血族たちを見渡した。


「三日後、夜血の儀を行う」


 王の声が部屋に沈む。


「異論は聞かぬ」


 最初から封じた。


 グラナートは口を開かなかった。


 正妃も微笑んだまま。


 王は続ける。


「王血を持つ者は、夜の前に立つ。血が耐えられぬ者に、王城の夜は任せられぬ」


 その言葉は、全員へ向けられていた。


 だが、古参血族たちの視線が一瞬、クラウディオへ集まる。


 妾腹の子が耐えられるのか。


 そう思っている。


 クラウディオは目を伏せたまま、その視線を受けた。


 耐えるだけなら、もう飽きるほどしてきた。


 だが、夜血の儀で必要なのは耐えることだけではない。


 夜を従わせること。


 王がそう言った。


 クラウディオは静かに息をした。


 彼の中には、甘い記憶がある。


 灰の下に。


 火刑台の記憶がある。


 血の底に。


 王城で受けた屈辱がある。


 床下の帳簿に。


 ラザールが膝をついた音がある。


 耳の奥に。


 それらはすべて、武器になる。


 誰もその形を知らない。


 古参吸血鬼たちは、まだ彼を軽んじる。


 子どもだと。


 妾腹だと。


 王座の端に触れる資格もないと。


 それでいい。


 軽んじる者は、近づく。


 近づけば、見える。


 見えれば、覚えられる。


 覚えたものは、いつか使える。


 王の話が終わると、古参血族たちは順に礼をした。


 会合は解かれた。


 部屋の空気が少し緩む。


 その時、ヴェルナーがクラウディオのそばへ来た。


 大柄な影が落ちる。


「クラウディオ様」


 彼は、きちんと名を呼んだ。


 妾腹でも、この子でも、噂のでもなく。


 クラウディオ様。


 形だけかもしれない。


 だが、他の者よりはましだった。


 クラウディオは見上げる。


「何でしょう」


「夜血の儀では、恐れるな」


 短い言葉だった。


 慰めではない。


 指示に近い。


「恐れは血を乱す」


「怒りは」


「使える者なら武器になる。使えぬ者なら足を掬う」


 クラウディオはヴェルナーを見た。


 この男は、カルゼンと似たことを言う。


 飾らない。


 踏み込みすぎない。


 だが、逃げもしない。


「卿は、私を軽んじていないのですか」


 クラウディオは聞いた。


 ヴェルナーは少しだけ目を細めた。


「軽んじていた」


 過去形。


 クラウディオは黙って続きを待つ。


「今は、測っている」


「正直ですね」


「王城では、それが一番嫌われる」


「では、なぜ」


「面倒だからだ」


 ヴェルナーはそれだけ言った。


 クラウディオは、ほんの少しだけ興味を持った。


 この男は、噂や飾りより、実際の力を見る。


 味方ではない。


 だが、利用できるかもしれない。


 あるいは、敵に回せば厄介だ。


 記録する。


 ヴェルナー。


 名前を正しく呼んだ。


 軽んじていたと言った。


 今は測っている。


 恐れは血を乱す。


 怒りは使えるなら武器。


 面倒だから正直。


 クラウディオは頭を下げた。


「覚えておきます」


 ヴェルナーは一瞬、奇妙な顔をした。


 その「覚えておきます」が、ただの礼ではないと感じたのかもしれない。


 だが彼は何も言わず、離れていった。


 部屋を出る時、アドリアンが横に並んだ。


「人気者だね」


 穏やかな声。


 クラウディオは前を見たまま答える。


「見世物の間違いでは」


「それを分かっているなら安心した」


「兄上は、私を心配してくださるのですか」


「まさか」


 アドリアンは微笑んだ。


「お前が自分を見世物だと分からないほど愚かなら、つまらないと思っただけだ」


 クラウディオはアドリアンを見た。


 初めて、彼は少しだけ本音を出したようだった。


 つまらない。


 つまり、面白がっている。


 そして、警戒している。


 アドリアンにとって、クラウディオは排除対象であると同時に、盤面を変える駒でもあるのだろう。


 クラウディオは言った。


「兄上は、私をどうしたいのです」


「どう、とは」


「潰すのか。利用するのか。見逃すのか」


 アドリアンの笑みが、ほんの少し深くなる。


「その三つだけ?」


「他にも?」


「育てる、という選択もある」


 クラウディオは足を止めた。


 アドリアンも止まる。


 廊下の青白い火が、二人の影を床へ伸ばしている。


「兄上が、私を」


「利用するためにね」


 アドリアンは綺麗に笑った。


「優しい兄の言葉を期待した?」


「いいえ」


 クラウディオは即答した。


 その早さに、アドリアンが少しだけ目を細める。


「ならいい」


「兄上」


「何?」


「私は、誰かに育てられるつもりはありません」


 声は静かだった。


「利用されるつもりも」


 アドリアンは彼を見た。


「言うようになった」


「覚えただけです」


「誰に?」


 その問いに、クラウディオは答えなかった。


 ロウェナの名は出さない。


 火刑台のことも。


 甘い記憶が灰の下にあることも。


 アドリアンには渡さない。


 沈黙が落ちる。


 アドリアンは、その沈黙をしばらく見ていた。


「そこに、お前の核があるんだね」


 クラウディオは動かなかった。


 アドリアンは微笑んだまま続ける。


「いいよ。今は聞かない」


「今は」


「いつか聞く」


「答えるとは限りません」


「答えさせる方法を探すさ」


 アドリアンはそう言って、先に歩いていった。


 クラウディオはその背を見送った。


 アドリアン。


 育てる、利用する。


 核があると気づいた。


 いつか聞くと言った。


 危険。


 最も危険。


 セヴランよりも。


 グラナートよりも。


 ラザールよりも。


 アドリアンは、クラウディオの血ではなく、その奥の記憶に触れようとしている。


 絶対に触れさせない。


 部屋へ戻ると、マルタが待っていた。


 彼女は緊張した顔で言った。


「いかがでしたか」


 クラウディオは外套を脱ぎながら答えた。


「始まった」


「何が」


「後継争い」


 マルタの顔から血の気が引く。


 その言葉を、子どもの口から聞くのが恐ろしかったのだろう。


 クラウディオは机へ向かった。


「資料は」


「古い儀式記録をいくつか。ですが、王族専用の封印記録は私では」


「誰なら開ける」


「血術局、または王の許可が」


「カルゼンに聞く」


「カルゼン先生が応じるでしょうか」


「必要なら応じさせる」


 マルタは黙った。


 以前なら、そんなことはできませんと言っただろう。


 今は言わない。


 クラウディオはそれを見た。


 自分の武器は、血術だけではない。


 相手が自分をどう見るか。


 それも武器になる。


 恐怖。


 警戒。


 興味。


 罪悪感。


 軽蔑。


 どれも使える。


 ロウェナは、それを使わなかった。


 だから燃やされた。


 いや。


 違う。


 クラウディオは胸の中で、その思考を止めた。


 ロウェナが悪いのではない。


 優しさは罪ではない。


 使わなかったから悪いのではない。


 使わなくても生きられる世界であるべきだった。


 だが、この世界はそうではなかった。


 だから自分は使う。


 優しさを否定するためではない。


 奪われた優しさを、二度と同じ形で踏ませないために。


 ……そう言えば綺麗に聞こえる。


 本当は、憎しみもある。


 怒りもある。


 裁きたい気持ちもある。


 全部だ。


 全部持ったまま進むしかない。


 夜、クラウディオは机の奥の紙を広げた。


 ロウェナの記録の隣に、新しい紙を置く。


 後継争いの始まり。


 そう書いた。


 そして続ける。


 古参血族は、まだ俺を軽んじる。


 グラナート。噂の、と呼んだ。滑稽と言った。軽んじた相手が返すと怒る。


 ヴェルナー。名を正しく呼んだ。軽んじていた、今は測っていると言った。恐れは血を乱す。怒りは使える者なら武器。


 メルキオル。面白がる。危険かは不明。


 アドリアン。育てる、利用すると言った。核を探っている。最も危険。


 セヴラン。怒りで動く。拳を止めた。状況を見る程度の理性はある。


 リヴィア。母を見る。単独では動けない。


 エレオノーラ。盤面を見る。俺を消したいが、王の前では動けない。


 ヴァレンティヌス。全員を盤面に乗せた。


 俺の武器。


 血術。


 記憶。


 沈黙。


 言葉。


 相手の癖。


 恐怖。


 余白。


 そして、ロウェナの名を誰にも渡さないこと。


 最後の一行を書いた時、クラウディオはペンを止めた。


 ロウェナの名を誰にも渡さないこと。


 それも武器なのか。


 少し考える。


 武器だった。


 彼の核を、誰にも触れさせないための武器。


 アドリアンが探ろうとしても。


 正妃が調べさせても。


 カルゼンが血から読もうとしても。


 誰にも渡さない。


 灰の下にある甘い記憶は、彼だけのものだ。


 それがあるから、彼は完全には王城の冷たさだけにならない。


 それがあるから、同時に冷たくなれる。


 矛盾している。


 だが、矛盾ごと血が覚えている。


 クラウディオは紙をしまった。


 黒硝子の前に立つ。


 夜は見えない。


 だが、そこにある。


 三日後、その夜の前に立つ。


 兄弟たちと。


 古参吸血鬼たちの視線の中で。


 王と正妃の前で。


 そこで、後継争いはさらに形を持つ。


 クラウディオは瞼を閉じた。


 胸の奥で血が静かに動く。


 吸血衝動ではない。


 飢えでもない。


 力の予兆。


 瞼を開けると、黒硝子に映る瞳の奥に、ほんのわずかに赤が滲んでいた。


 禍々しい赤。


 まだ薄い。


 まだ沈んでいる。


 だが確かにある。


 クラウディオは、その赤を見た。


 古参血族たちは、まだ彼を軽んじる。


 兄弟たちは、まだ彼を下に見ようとする。


 正妃は、まだ彼を盤面の邪魔な染みだと思っている。


 王は、まだ彼を観察対象として見ている。


 それでいい。


 彼らがそう見ている間に、クラウディオは見る。


 覚える。


 沈める。


 そして、必要な時に取り出す。


 後継争いは始まった。


 だが、クラウディオはもう怯えていなかった。


 自分の武器を知っている者は、裸ではない。


 たとえそれが、血と記憶と傷で作られた、ひどく冷たい武器だったとしても。


 彼は黒硝子に映る自分へ、静かに告げた。


 軽んじていろ。


 その方が、よく見える。


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