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『美しき吸血鬼王は、灰銀のハンターに檻へ落とされる』  作者: なつめ


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第15話 夜は王を選ばない


 王城は、噂を嫌うふりをして、噂で呼吸していた。


 誰が何を言ったか。


 誰がどこで足を止めたか。


 誰が誰に礼を深くしたか。


 誰が王の前で名を呼ばれたか。


 そのすべてが、壁の中を血のように巡っていく。


 クラウディオがラザール・ヴェルクを膝まずかせた話は、一晩もかからず王城中に広まった。


 もちろん、正確には伝わらない。


 正確である必要など、王城ではあまりない。


 事実は骨で、噂は肉だった。


 誰かが肉をつけ、誰かが色を塗り、誰かが声色を変える。


 そして翌朝には、まるで最初からそういう怪物だったかのように廊下を歩き回る。


 妾腹の王子が、上位血術師を血で縛った。


 ラザールが床に這いつくばった。


 クラウディオが笑いながら命じた。


 王血が暴走した。


 いや、暴走ではない。あれは制御されていた。


 正妃側の血術師が屈辱を受けた。


 陛下はどう見る。


 王太子候補はどう動く。


 あの子は本当にただの妾の子なのか。


 廊下を歩けば、そんな声が見えない煙のように漂っている。


 クラウディオは、それを聞いていた。


 聞こえないふりをしながら。


 王城の者たちは、彼が聞いているとは思わないらしい。


 あるいは、聞こえてもどうにもできないと思っている。


 それは半分だけ正しかった。


 今のクラウディオには、まだ王城すべてを黙らせる力はない。


 だが、彼はもう何もできない子どもではなかった。


 それを彼らは、ようやく理解し始めた。


 遅い。


 相変わらず、すべてが遅かった。


 朝餐の間へ入ると、空気はいつもより硬かった。


 上座には王ヴァレンティヌス。


 深紅と黒の衣をまとい、血石の指輪をした手で杯を持っている。赤みを帯びた金の瞳は、今日も感情を読み取らせない。


 その隣に正妃エレオノーラ。


 白金の髪を美しく結い、喉元には真珠。微笑みはいつも通りだったが、目だけが冷えている。


 アドリアンは穏やかだった。


 その穏やかさの奥に、以前より深い警戒がある。


 セヴランは杯を回していない。


 それだけで、彼が苛立っていることが分かった。


 リヴィアは今日は砂糖菓子を砕いていなかった。


 母の顔ばかり見ている。


 クラウディオは末席に座った。


 足はまだ床に届ききらない。


 その事実は変わらない。


 だが、食卓の者たちの視線は変わっていた。


 小さいから笑う視線ではない。


 小さいのに何をするか分からないものを見る視線。


 それは、以前よりずっと静かだった。


 王が口を開いた。


「ラザールが退いた」


 その一言で、食卓の空気がさらに沈む。


 クラウディオは顔を上げた。


「退いた、とは」


「血術局の指導役から外れると申し出た」


 王の声は平坦だった。


 ラザールが退いた。


 膝をつかされた屈辱に耐えられなかったのだろう。


 あるいは正妃側が、これ以上あの男を表に置くと不利になると判断したか。


 どちらでも同じだった。


 クラウディオは静かに答えた。


「そうですか」


 セヴランが低く言う。


「他人事のように言うんだな」


 クラウディオはセヴランを見た。


「兄上には、私がどう言えばよろしかったでしょう」


「お前がやったことだろう」


「許可より深く私の血へ干渉したのは、ラザールです」


「だから膝をつかせたと?」


「結果として」


 セヴランの指がぴくりと動いた。


 杯を回したいのを堪えている。


 クラウディオはそれを見た。


 分かりやすい。


 セヴランは怒りを隠せない。


 隠そうとすると、手に出る。


 アドリアンが穏やかに言った。


「結果として、というには少し強すぎる命令だったようだね」


 クラウディオはアドリアンを見た。


「強くなければ届かないこともあります」


 その言葉を口にした瞬間、ロウェナの声が胸の奥で揺れた。


 私は魔女じゃない。


 違うわ。


 お願い、信じて。


 届かなかった声。


 クラウディオは表情を変えなかった。


 アドリアンの青い目が、わずかに細くなる。


 彼は何かを察したのかもしれない。


 だが、それを問う資格はない。


 問われても答えない。


 ロウェナの名は、誰にも渡さない。


 正妃が静かに言った。


「血術の才は尊いものです。ですが、制御されぬ才は王城に災いを呼びます」


 災い。


 クラウディオはその言葉を胸の中で転がした。


 ロウェナを燃やした教会の火は、災いとは呼ばれなかった。


 街の者たちの集団断罪も、災いとは呼ばれなかった。


 妾の子を長く踏みつけてきた王城の冷たさも、災いとは呼ばれなかった。


 だが、クラウディオの血が命令になった途端、それは災いになる。


 便利な言葉だ。


 クラウディオは頭を下げた。


「制御を学びます」


 正妃の目が少しだけ動く。


「学ぶだけで済めばよろしいのですが」


 その声は、柔らかかった。


 柔らかく、冷たかった。


 王が血杯を置いた。


 小さな音がした。


 それだけで、全員が黙る。


 王はクラウディオを見た。


「お前は王座を欲するか」


 食卓が凍った。


 問いはあまりに直接だった。


 誰もがその可能性を考えている。


 だが、誰も口にはしない。


 王座。


 継承。


 王血。


 正妃の子。


 妾腹。


 兄弟。


 血術。


 それらは、王城の空気の中で常に漂っている。


 だが、言葉にすれば刃になる。


 王はその刃を、何の前触れもなくクラウディオの前へ置いた。


 リヴィアの顔が青くなる。


 セヴランは目を見開いた。


 アドリアンの微笑みは消えなかった。


 正妃だけが、王を見た。


 その横顔に、ほんのわずかな怒りがある。


 クラウディオは王を見た。


 父ではない。


 陛下。


 上座に座る男。


 血石の指輪を持つ者。


 この王城で、誰の言葉を重くし、誰の言葉を軽くするかを決める側にいる者。


 王座を欲するか。


 クラウディオは、その問いの中に罠を見た。


 欲すると言えば、野心。


 欲しないと言えば、弱さ。


 分からないと言えば、愚か。


 黙れば、不遜。


 だが、もう以前のように逃げ道を探すだけの子どもではなかった。


 彼は答えた。


「与えられるものなら、欲しません」


 王の目が細くなる。


 正妃の指が止まった。


 アドリアンがクラウディオを見る。


 セヴランが唇を開きかける。


 クラウディオは続けた。


「与えられる王座は、与えた者の手にあるものです」


 食卓の空気が、音を失った。


「そのようなものを欲しいとは思いません」


 王はしばらく黙っていた。


 それから、低く笑った。


 初めて聞くような笑いだった。


 愉快そうではない。


 感心でもない。


 ただ、盤面に置いた駒が思ったより鋭く動いた時の笑いだった。


「では、奪うか」


 クラウディオは答えなかった。


 答えれば、まだ早い。


 答えなくても、意味は届いている。


 王は血杯を持ち上げた。


「よい」


 何がよいのか、誰も聞けなかった。


 正妃の微笑みは戻っていた。


 だが、その目の奥は冷たい。


 セヴランは怒りを隠せていない。


 リヴィアは状況が分かりきらず、母と兄たちの顔を交互に見ている。


 アドリアンだけが、静かに笑っていた。


 その笑みの中に、警戒だけでなく、ほんの少しの興味が混ざっている。


 クラウディオは、それを見た。


 アドリアンは、敵になる。


 おそらく最初から。


 だが、ただの兄弟ではない。


 王座の盤面で動く者。


 セヴランよりずっと厄介だ。


 それも覚えた。


 朝餐が終わると、王は立ち上がった。


 そのまま退室するかと思われたが、扉の前で足を止める。


「三日後、夜血の儀を行う」


 正妃の表情が初めてはっきり動いた。


「陛下」


 王は彼女を見なかった。


「王血を持つ子らの血術と資質を見る」


 王血を持つ子ら。


 アドリアン。


 セヴラン。


 リヴィア。


 そして、クラウディオ。


 リヴィアの顔から血の気が引いた。


 セヴランは目に怒りを宿した。


 アドリアンは静かに頭を下げた。


 正妃は一瞬だけ唇を結び、それから美しく微笑んだ。


「陛下の御心のままに」


 声は従順だった。


 だが、瞳は従っていなかった。


 王は最後にクラウディオを見た。


「夜は王を選ばない」


 低い声だった。


「王が、夜を従わせる」


 その言葉を残し、王は出ていった。


 扉が閉まる。


 食卓の空気はしばらく戻らなかった。


 夜血の儀。


 クラウディオはその名を知っていた。


 王族の血術資質を測る古い儀式。


 ただの訓練ではない。


 魔導円、王城の地下礼拝堂、王血の器、古い誓約。


 血の強度、命令適性、夜への耐性、飢えへの抵抗、他者の血への干渉能力。


 それらを測る。


 継承権を決める儀式ではない。


 表向きは。


 だが、王族の資質が可視化される場である以上、後継争いに関わらないはずがなかった。


 アドリアンが静かに言った。


「ずいぶん急だね」


 セヴランが低く返す。


「父上の気まぐれだ」


「そうかな」


 アドリアンは微笑んだ。


 その目はクラウディオへ向いていた。


「きっかけは、はっきりしていると思うけれど」


 セヴランがクラウディオを睨む。


 リヴィアは母の袖を握った。


 正妃は、誰も見ずに言った。


「準備をしなさい」


 その声は、リヴィアへ向けたもののようで、全員へ向けられていた。


「王族として恥のないように」


 王族として。


 その言葉が、クラウディオの前にも置かれる。


 妾の子。


 王族として。


 どちらも都合よく使われる。


 クラウディオは黙って立ち上がった。


 部屋へ戻る途中、セヴランが追いついてきた。


「お前のせいだ」


 低い声。


 怒りを隠さない声。


 クラウディオは足を止めた。


「何がです」


「夜血の儀だ。父上はお前の血術を見て、急に儀を決めた」


「それが私のせいだとして、兄上に不都合がありますか」


 セヴランの目が怒りに燃える。


「妾の子が、俺たちと同じ場に立つことが不都合だと言っている」


 クラウディオは彼を見た。


 セヴランの目は赤くなっていない。


 吸血衝動でも、血術でもない。


 ただの怒り。


 まだ子どもの怒り。


 クラウディオは静かに言った。


「同じ場に立つ前から怯えるのですか」


 セヴランの手が上がりかけた。


 だが、途中で止まった。


 殴れない。


 今は。


 王が夜血の儀を告げた直後だ。


 ここでセヴランがクラウディオを傷つければ、恐れていると示すことになる。


 クラウディオは、その計算を見ていた。


 セヴランの拳は震えている。


 だが下ろされた。


「覚えていろ」


 セヴランは吐き捨てた。


 クラウディオは、かすかに首を傾けた。


「皆、そればかりですね」


「何?」


「覚えていろ、と」


 クラウディオは一歩近づいた。


 セヴランより小さい。


 見上げる形になる。


 それでも、視線は下がらなかった。


「私は、言われるまでもなく覚えています」


 セヴランの喉が動いた。


 クラウディオはそれ以上言わず、歩き出した。


 背中に怒りの視線が刺さる。


 だが、もう怖くない。


 セヴランは分かりやすい。


 怒る。


 睨む。


 言葉で刺す。


 拳を上げかける。


 だが、状況を壊す勇気はない。


 アドリアンの方が厄介だ。


 正妃はもっと厄介だ。


 王は、さらに遠い。


 後継争い。


 その言葉が、初めて現実のものとしてクラウディオの中へ入ってきた。


 今までは遠い場所の話だった。


 王座は、上座にあるもの。


 正妃の子たちが争うもの。


 妾腹のクラウディオには、関係がないもの。


 そう思わされていた。


 だが違う。


 王座は、与えられるものではない。


 正妃の子だから自動的に手に入るものでもない。


 誰かが正しいから与えられるものでもない。


 王座は奪うものだ。


 奪わなければ、永遠に他人の手の中にある。


 ロウェナは信じてと叫んだ。


 誰も信じなかった。


 クラウディオはラザールに命じた。


 膝をつかせた。


 その差が、王座へ続いている。


 力のある声だけが、世界の形を変える。


 ならば、力を持つしかない。


 部屋へ戻ると、マルタが待っていた。


 彼女はすでに夜血の儀の知らせを聞いたのだろう。顔色が悪かった。


「クラウディオ様」


「聞いたのか」


「はい」


「なら支度を」


 マルタは一瞬、言葉を失った。


「恐ろしくは、ないのですか」


 クラウディオは彼女を見た。


 珍しい問いだった。


 心配に近い。


 いや、恐怖に近い。


 マルタはクラウディオを心配しているのではなく、クラウディオが何になるのかを恐れている。


 それでも、その問いは今までより少しだけ人間らしかった。


 クラウディオは答えた。


「恐れて、何か変わるのか」


「それは」


「変わらないなら、要らない」


 マルタは黙った。


 クラウディオは外套を脱ぎ、椅子へ置いた。


「夜血の儀について、資料を集めろ。古い記録。失敗例。王族の血術反応。飢餓反応。夜への耐性。全部」


「私に扱える資料では」


「扱える者を探せ」


 マルタは目を見開いた。


 命令だった。


 いつもの子どもの頼みではない。


 王族の命令。


 まだ幼い声だ。


 だが、逆らえば自分の立場が危ういと分かる程度には、重かった。


「……かしこまりました」


 マルタは頭を下げた。


 クラウディオはそれを見ていた。


 人は、命じれば動く。


 正しくなくても。


 優しくなくても。


 ただ、命令に重さがあれば。


 それはやはり、気持ちのいい事実ではなかった。


 だが、有用だった。


 マルタが出ていくと、クラウディオは机へ向かった。


 床下を開ける前に、机の奥の引き出しを開けた。


 ロウェナの紙片。


 また来てね、クラウディオ。


 魔女ではない。


 火を同じにしない。


 裁かれる側にはならない。


 血を覚える。


 最初の命令。


 甘い記憶は灰の下。


 そこへ、新しい紙を加える。


 夜は王を選ばない。


 クラウディオは、王の言葉を書いた。


 そして、その下へ続ける。


 王座は与えられるものではない。


 与えられる王座は、与えた者の手にある。


 王座は奪うもの。


 夜血の儀。


 三日後。


 アドリアンは警戒している。


 セヴランは怒っている。


 リヴィアは母を見る。


 エレオノーラは冷えている。


 ヴァレンティヌスは見ている。


 俺は、もう末席に座るだけの子どもではいない。


 ペン先が止まる。


 彼は最後の一行を見つめた。


 もう末席に座るだけの子どもではいない。


 その言葉は、強がりではなかった。


 事実にしなければならないものだった。


 クラウディオは紙を乾かし、引き出しの奥へしまった。


 それから床下を開けた。


 罪の記録を見る。


 名前が並んでいる。


 ミルゴ。


 ベルニエ。


 オルガン。


 リヴィア。


 セヴラン。


 アドリアン。


 エレオノーラ。


 ヴァレンティヌス。


 司祭。


 背の低い男。


 群衆。


 ラザール。


 そこへ新しく書き加える。


 夜血の儀。


 後継争い、開始。


 短く。


 冷たく。


 そう書いた。


 その瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった気がした。


 後継争い。


 言葉にすれば、形を持つ。


 形を持てば、動き始める。


 クラウディオは床板を戻した。


 夜になっても、王城は静かではなかった。


 廊下の遠くで、足音が多い。


 女官たちが正妃の部屋へ向かう。


 血術局の者たちが地下へ降りる。


 アドリアンの従者が書庫へ走る。


 セヴランの部屋では、何かが割れる音がした。


 リヴィアの侍女が泣きそうな声で何かを宥めている。


 王城全体が、夜血の儀へ向けて動き始めていた。


 クラウディオは黒硝子の前に立った。


 外は見えない。


 だが、夜はそこにある。


 王城の外にも。


 教会区の広場にも。


 閉ざされた菓子屋の前にも。


 夜は誰の味方でもない。


 ロウェナを選ばなかった。


 クラウディオを救わなかった。


 王城の子らを平等にも扱わない。


 夜は王を選ばない。


 王が夜を従わせる。


 王の言葉が、胸の底で響く。


 その時、クラウディオの瞳の奥に、かすかに赤が滲んだ。


 吸血衝動ではない。


 飢餓でもない。


 まだ暴走でもない。


 血術の気配だった。


 血の奥から、禍々しい赤が薄く灯る。


 幼い顔の中で、その赤だけが子どものものではなかった。


 クラウディオは黒硝子に映る自分を見た。


 琥珀色に戻りきらない瞳。


 小さな身体。


 細い手。


 けれど、その目はもう、ただの子どもの目ではなかった。


 救われる側ではいられない。


 裁かれる側にはならない。


 命じる側へ進む。


 そして、いずれ奪う。


 王座を。


 夜を。


 自分の声を。


 誰にも歪めさせない場所を。


 クラウディオは、静かに瞬きをした。


 赤はゆっくり沈んだ。


 だが消えたわけではない。


 血の底へ戻っただけだった。


 三日後、夜血の儀が始まる。


 その先にあるのは、兄弟の稽古ではない。


 家族の戯れでもない。


 王城がようやく認めた、後継争いの入口だった。


 クラウディオは、黒硝子に映る自分へ音もなく告げた。


 与えられるのを待つな。


 夜は、待つ者を選ばない。


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