第14話 甘い記憶は灰の下
クラウディオは、ロウェナ・ミルの名を誰にも語らなかった。
王城の誰にも。
血術教師カルゼンにも。
侍女のマルタにも。
第一王子アドリアンにも、第二王子セヴランにも、第三王女リヴィアにも。
王にも、正妃にも。
誰にも言わなかった。
坂道の菓子屋のこと。
白い手のこと。
温かい水のこと。
月の欠片という名の焼き菓子のこと。
生きてる間くらい、温かいものを食べてもいいと言った声のこと。
火刑台の上で、最後に彼の名を言いかけて飲み込んだこと。
誰にも。
語れば、汚される。
王城の者たちは、名を刃にする。
クラウディオという名を、妾の子という言葉で覆ったように。
ロウェナの名も、きっと別のものに変える。
下町の女。
菓子屋。
魔女。
吸血鬼に取り入ろうとした愚かな人間。
火刑にされた者。
そう呼ぶだろう。
だから、言わない。
クラウディオの中でだけ、彼女はロウェナ・ミルだった。
魔女ではない。
その日、王城の食卓には焼き菓子が出た。
薄く焼いた生地の上に、焦がし砂糖を流したものだった。表面は琥珀色に艶めき、銀皿の上で宝石のように並んでいる。王城の菓子職人が作るものは、いつも形が整いすぎていた。
欠けもない。
歪みもない。
焼き色のむらもない。
まるで、火が何も傷つけなかったような顔をしている。
クラウディオは末席に座り、その菓子を見た。
皿が近づく前から、匂いが届いていた。
焦げた砂糖。
蜂蜜に似た甘さ。
焼けた小麦。
火。
鼻の奥が、きしりと鳴るような気がした。
ロウェナの店の窯。
月の欠片。
焼きすぎた丸菓子。
半分こにしよう、と笑った声。
そして、火刑台。
薪。
祈祷蝋。
煙。
私は魔女じゃない、と泣き叫ぶ声。
クラウディオは、血杯を持つ指を止めなかった。
止めれば、見られる。
食卓では、すべてが見られる。
だから彼は、いつも通り血杯を持ち上げ、冷たい血を一口飲んだ。
リヴィアが甘い菓子を一つつまんだ。
「今日の菓子、綺麗ね」
そう言って、口に入れる。
ぱり、と薄い砂糖が割れる音がした。
クラウディオの喉の奥に、煙が戻った。
セヴランが退屈そうに言う。
「お前は何でも綺麗ならいいんだな」
「綺麗な方がいいでしょう」
「燃えたものでも?」
リヴィアが顔をしかめる。
「またそういうことを言う」
セヴランは笑った。
軽い笑いだった。
王城の食卓では、火刑も菓子も冗談の端に乗る。
クラウディオは、その笑いを見なかった。
見なくても覚えた。
セヴラン。
燃えたものでも、と言った。
焦がし砂糖の匂いの日。
記録するには十分だった。
アドリアンがクラウディオを見た。
「食べないのか」
柔らかな声だった。
クラウディオは銀皿へ視線を落とした。
「後ほど」
「珍しい。以前は焦がし砂糖を残さなかっただろう」
見ていたのか。
あの時も。
クラウディオは顔を上げた。
アドリアンの青い目は穏やかだった。だがその穏やかさの奥で、何かを探っている。
彼はクラウディオの反応を見ている。
菓子への。
火への。
匂いへの。
そこに何かあると気づいているのかもしれない。
クラウディオは短く答えた。
「甘いものは、朝餐には重いので」
「そう」
アドリアンは微笑んだ。
「お前にも、重いものがあるんだな」
クラウディオは血杯を置いた。
音は立てなかった。
「兄上にもおありでしょう」
「何が?」
「重いものが」
食卓の空気が少しだけ張る。
アドリアンは笑みを崩さない。
「どうだろうね」
「ないなら、羨ましい限りです」
リヴィアがこちらを見た。
セヴランも顔を上げた。
正妃エレオノーラの指が、果実を切るナイフの柄で止まる。
王ヴァレンティヌスは、無言で血杯を見ている。
クラウディオは頭を下げた。
「失礼いたしました」
形だけの謝罪。
最近、それを使うことが増えた。
相手が反応するぎりぎりの線を踏み、礼法の形で戻る。
礼法教師オルガンの稽古は役に立っている。
皮肉なことに。
アドリアンは小さく笑った。
「本当に可愛くない」
その言葉も、もう深くは刺さらなかった。
クラウディオは知っている。
可愛くないことは、死罪ではない。
魔女ではないと泣き叫んでも、死ぬ時は死ぬ。
なら、可愛くなくていい。
食卓が終わる頃、ベルニエがクラウディオの前へ菓子皿を差し出した。
左耳の銀輪。
以前より深い礼。
以前より丁寧な手つき。
クラウディオは菓子を一つ見た。
薄い琥珀色。
焦がし砂糖。
美しい。
だからこそ、不快だった。
「下げろ」
彼は言った。
声は大きくなかった。
だが、食卓の端から中央まで届いた。
ベルニエの手が止まる。
「は……?」
クラウディオは、ベルニエを見上げた。
「聞こえなかったのか」
ベルニエの喉が動いた。
以前なら、彼は曖昧に笑ったかもしれない。
厨房の手違いでございます、と言ったかもしれない。
だが今は違う。
血術師ラザールが膝をついた話は、もう王城中に広がっている。
ベルニエは逆らわなかった。
「失礼いたしました」
彼は菓子皿を下げた。
リヴィアが不満そうに言う。
「食べないなら、私にちょうだい」
クラウディオは答えなかった。
セヴランが笑う。
「焦げたものが好きだったはずなのにな」
クラウディオは、ゆっくりセヴランを見た。
その目を見た瞬間、セヴランの笑みが少しだけ薄くなる。
「飽きました」
クラウディオは言った。
「焦げたものにも、兄上方の冗談にも」
広間が静まった。
リヴィアの目が丸くなる。
セヴランの顔に怒りが走る。
アドリアンはわずかに眉を動かした。
正妃の視線が冷える。
王は、何も言わない。
クラウディオはまた頭を下げた。
「失礼いたしました」
だが、今度の謝罪は少し遅かった。
わざとだった。
沈黙を一拍置いた。
全員に、自分の言葉を飲み込ませるために。
食卓を離れたあと、セヴランに呼び止められるかと思った。
だが、彼は来なかった。
来られなかったのだろう。
王の前で一度、言葉を返された。
血術の件もある。
軽く扱えば、自分が軽くなる。
王城の者たちは、力の気配に敏感だった。
クラウディオは廊下を歩きながら、自分の手を見た。
小さい手。
まだ誰かを救えなかった手。
けれど、皿を下げさせることはできるようになった。
ラザールを膝まずかせることもできた。
食卓で言葉を返すこともできる。
遅い。
何もかも遅い。
それでも、力は少しずつ増えている。
その日の血術訓練は、地下ではなく北棟の訓練室に戻った。
カルゼンはいつものように黒い長衣で待っていた。
血術管理官は二人。
マルタはいない。
彼女の代わりに、正妃付きの女官セリアが壁際に立っている。
見届け役。
監視役。
噂の種を拾う役。
クラウディオは魔導円の中央に立った。
カルゼンは彼の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「今日は火の匂いがします」
クラウディオの指が止まった。
カルゼンは続ける。
「実際の火ではない。記憶の方です」
「占い師か」
「血術師です」
「似たようなものだ」
「まったく違います」
カルゼンは銀の針を取り出した。
「ですが、あなたは火に反応する」
クラウディオは答えなかった。
カルゼンは問い詰めない。
それが彼の賢いところだった。
王城の者たちは、踏み込めば何かが得られると思っている。
カルゼンは、踏み込みすぎれば血が暴れると知っている。
彼はクラウディオの指先に針を刺した。
血が一滴、浮かぶ。
「今日は形を作らない。保つだけです」
クラウディオは血を見た。
赤い一滴。
そこに火の記憶が沈んでいる。
焦がし砂糖の匂いが、また鼻の奥で動いた。
血が揺れる。
カルゼンがすぐに言った。
「呼吸」
クラウディオは息を吐いた。
「火に飲まれない」
「飲まれていない」
「では、なぜ血が刃を作ろうとする」
指先の血を見る。
丸いはずの一滴が、少し尖っていた。
赤い雫の端が、細い針のように伸びかけている。
クラウディオは目を細めた。
命じていない。
呼んでもいない。
ただ匂いを思い出しただけだ。
血が勝手に反応した。
カルゼンが低く言った。
「その記憶は、まだ灰の下にあります」
灰。
クラウディオは血から目を離さなかった。
「燃え尽きたように見えても、下で熱を持つ。踏めば火傷する。掘れば火が戻る。今のあなたの血はそれです」
「消せと言うのか」
「いいえ」
カルゼンは静かに言った。
「消せないものを消そうとすれば、血は嘘を覚えます。灰の下にあるなら、灰の下にあると知っておくことです」
クラウディオは黙った。
灰の下。
ロウェナの記憶は、灰の下にある。
甘い匂いも。
白い手も。
優しい声も。
全部、火刑台の灰の下に埋まっている。
消えたわけではない。
汚れたわけでもない。
ただ、灰を被っている。
だから火の匂いがすると、血が反応する。
その説明は、ひどく正確だった。
正確すぎて腹立たしかった。
「火の気配に反応するのは、弱点か」
クラウディオは聞いた。
カルゼンは少し考えた。
「今は」
「今は?」
「いずれ、使えるようになります」
使える。
傷を。
匂いを。
火の記憶を。
クラウディオは指先の血を見た。
尖りかけた血が、少しずつ丸みを取り戻していく。
「どう使う」
「まず、飲まれないことです」
「その次は」
「火を見るたびに刃を作るのではなく、刃を作る火を選ぶ」
カルゼンの言葉は冷たかった。
だが、逃げていなかった。
同情ではない。
慰めでもない。
使い方の話をしている。
クラウディオには、その方が楽だった。
ロウェナの話を聞かれるより。
可哀想にと言われるより。
忘れなさいと言われるより。
ずっと。
「火を選ぶ」
クラウディオは小さく繰り返した。
カルゼンは頷く。
「あなたが火に選ばれるのではなく」
その日の訓練では、血は一度も刃になりきらなかった。
尖る。
戻す。
揺れる。
鎮める。
それを何度も繰り返した。
単純で、地味な訓練だった。
だが、終わる頃には身体の奥がひどく疲れていた。
セリアは途中から、顔色を悪くしていた。
血術管理官たちは、細かく記録を取っている。
火への反応。
記憶による血形変化。
制御可能。
不安定。
危険。
おそらく、そう書いている。
好きに書けばいい。
クラウディオは思った。
彼らがどんな言葉で記録しても、彼の中にあるものの本当の名は知らない。
ロウェナ・ミル。
魔女ではない。
その名を知らない。
知ることもない。
訓練室を出る時、セリアが声をかけた。
「クラウディオ様」
彼は足を止めた。
セリアは正妃付きの女官だ。
真珠の耳飾り。
左袖の糸のほつれは、今日は直されている。
だが、指先が少し震えていた。
「先ほどの血の変化について、妃殿下へご報告が必要です」
「好きにしろ」
クラウディオは言った。
セリアの顔が強張る。
「ただ」
彼は続けた。
「余計な物語をつけるな」
セリアが息を呑む。
クラウディオは彼女を見た。
「血が火に反応した。それだけだ」
「……はい」
「俺が怯えたとも、乱れたとも、危険思想を示したとも書くな」
セリアは完全に顔色を変えた。
図星だったのだろう。
クラウディオは淡々と言った。
「もし書くなら、俺の前で読め」
セリアは答えられなかった。
カルゼンが背後で何も言わずに見ている。
血術管理官たちは視線を落とした。
クラウディオはセリアの返事を待った。
待つことを覚えた。
相手に沈黙を押しつけることも。
やがて、セリアは頭を下げた。
「……事実のみ、ご報告いたします」
「そうしろ」
短い命令だった。
血術は使っていない。
だが、セリアは従った。
血を使わずとも、声だけで人が下がることがある。
ラザールを膝まずかせたあの日から、そういう場面が増えていた。
クラウディオはそれを喜ばなかった。
ただ記録した。
部屋へ戻ると、マルタが手を洗う水を用意していた。
温かい。
柔らかい布。
いつもより丁寧な沈黙。
クラウディオは自分で手を洗った。
水面に指先の血が少しだけ広がる。
赤が薄まり、消える。
ロウェナの店で、蜂蜜を洗った時とは違う。
あの水は甘い匂いがした。
この水は何も匂わない。
マルタが言った。
「お菓子をお持ちしましょうか」
唐突だった。
クラウディオは手を止めた。
マルタはすぐに続ける。
「朝餐であまり召し上がらなかったようですので」
気遣いか。
恐怖か。
機嫌取りか。
おそらく全部だ。
クラウディオは水面を見たまま言った。
「いらない」
「蜂蜜のものなら」
水面が、わずかに揺れた。
クラウディオは顔を上げた。
マルタは、そこで自分が踏んだものに気づいたようだった。
だが遅い。
「二度言わせるな」
声は低かった。
マルタはすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました」
「菓子を持ってくるな」
「はい」
「火を強くするな」
マルタが顔を上げかける。
クラウディオは続けた。
「暖炉にも、燭台にも、余計な火を使うな」
「……かしこまりました」
なぜ、と聞かない。
聞けない。
それでよかった。
クラウディオはロウェナのことを語らない。
語らないまま、火だけを遠ざける。
甘い匂いだけを拒む。
王城の者たちは、その理由を知らない。
知らないから、勝手に恐れる。
血術の不安定。
火への異常反応。
妾の子の気難しさ。
王血の危険な兆候。
好きに呼べばいい。
ロウェナの名さえ出さなければ。
クラウディオは机へ向かった。
引き出しを開ける。
ロウェナの紙片。
また来てね、クラウディオ。
ロウェナ・ミル。魔女ではない。
焦がし砂糖の匂い。火を同じにしない。
裁かれる側にはならない。
血を覚える。
最初の命令。
その隣に、新しい紙を置いた。
甘い記憶は灰の下。
そう書いた。
そして続ける。
誰にも語らない。
語れば汚される。
焼き菓子の匂いで血が反応する。
火の気配で刃になりかける。
これは弱点。
だが、いずれ使う。
ロウェナの記憶は消えたのではない。
灰の下にある。
火刑台の灰の下。
王城の焦がし砂糖の下。
俺の血の下。
同じにしない。
消さない。
奪わせない。
クラウディオはペンを置いた。
紙の上の文字は、まだ幼い。
だが、その奥にあるものはもう幼くなかった。
夜、王城は静まり返った。
暖炉には火を入れさせなかった。
燭台の火も少なくした。
部屋はいつも以上に暗かった。
青白い魔導灯だけが、細く壁を照らしている。
クラウディオは寝台に座り、目を閉じた。
暗闇の中で、匂いを思い出す。
蜂蜜。
小麦。
温かい水。
煙。
焦げた砂糖。
火刑台。
ひとつずつ、分ける。
ロウェナの火。
教会の火。
王城の菓子。
広場の煙。
違う。
違う。
違う。
何度も。
記憶の灰を指で掻き分けるように。
その奥に、まだ小さな甘さが残っている。
完全に消えてはいない。
灰を被っているだけだ。
クラウディオは、その甘さを見つけた。
焼きすぎたから、半分こにする?
大きい方を渡された。
子どもは大きい方。
その声が、ほんの少しだけ戻る。
胸の奥が痛んだ。
だが、今日はその痛みから逃げなかった。
痛むなら、痛むまま底へ沈める。
カルゼンの言葉を思い出す。
灰の下にあるなら、灰の下にあると知っておくことです。
クラウディオは、暗い部屋で静かに息を吐いた。
彼は冷酷になり始めていた。
皿を下げろと言える。
火を使うなと命じる。
報告に余計な物語をつけるなと女官を黙らせる。
年上の吸血鬼を膝まずかせたこともある。
王城の者たちは、その冷たさを恐れ始めている。
だが、その奥に何があるかは知らない。
焼き菓子の匂いで呼吸が止まりかけること。
火の気配で血が刃になること。
焦げた砂糖の甘さに、火刑台の煙が混じること。
そして、それでもまだ、ロウェナの菓子を忘れたくないこと。
誰も知らない。
知らなくていい。
クラウディオは、灰の下の甘い記憶を、誰にも渡さない。
それは傷だった。
同時に、刃の根でもあった。
夜の底で、彼は自分の血の音を聞いた。
静かに。
冷たく。
けれど確かに、灰の下で火を残したまま。




