魔獣
黒い獣は唸りながら近づいてくる。
形こそ犬に似ているが、明らかに違った。
体毛の隙間からは黒い靄のようなものが漂い、赤く濁った瞳は正面を見つめている。
少女は湖に触れたまま、つぶやいた。
「浄化が足りなかった」
「……あれは何だ?」
「魔獣」
あまりにも簡潔な答えだった。
魔獣は地面を蹴る。
次の瞬間、脇目も振らず少女に一直線に飛びかかった。
危機的状況だというのに少女は顔色一つ変えない。
朔は少女の無防備さに、なぜか苛立ちを覚えた。
考えるより先に体が動いていた。
地面に落ちていた石を掴み、魔獣の顔に叩きつける。
鈍い音がし、魔獣の体勢が崩れた。
その隙に朔は魔獣の背後へまわり、首元に腕を回した。
骨の位置、呼吸。
どこを潰せば動かなくなるか、体が覚えている。
魔獣が暴れる。
爪が彼の腕を裂いた。
熱い痛みが走る。
だが、力を弱めることはない。
やがて嫌な音と共に魔獣の体から力が抜けた。
あたりには森の中を駆け抜ける風の音だけが響く。
体を纏っていた黒い靄は、徐々に空気に溶けていき森の奥に消えていった。
朔は荒い息を吐きながら、死骸を見下ろした。
先ほどまで異形だったそれは、ただの犬の姿に戻っていた。
「やっぱり、慣れてる……」
背後から少女の声が聞こえた。
「何がだ」
朔は荒い息を整えながら答える。
「命を奪うこと」
少女は彼の背中をまっすぐ見つめていた。
その瞳には、恐怖も嫌悪もない。
ただ、観察するような静けさだけがあった。
「お前は死ぬのが怖くなさそうだな。さっきも襲われているのに体勢一つ変えなかった」
「人はいつか死ぬ。」
淡々と答える彼女の方に目をやる。
「お前、普通じゃないな」
「あなたに言われたくない」
しばらく沈黙が落ちた後、朔は小さく笑った。
「そうだな、俺も普通じゃない」
「何で笑うの?」
少女は不思議そうな顔で、朔の方を見ている。
「さあな、俺にも分からない」
そう言い、朔は少女の隣に腰掛ける。
黒い湖は先ほどよりも、僅かに澄んで見えた。




