④関門
「いやぁー、このお店で映画研究会のメンバーと飲むのは懐かしすぎるわ。」
田島さんがしみじみと話した。そのお店は映画研究会が節目の飲み会ごとに利用していたバルだった。
結婚式に参加していた面々は、それぞれの集まりごとに、二次会としてお店を予約していた。主役の新郎新婦は、各会場に顔を出すため、このお店に来られるのは、しばらくしてからだろうとのことだった。
「では、乾杯!」
その合図で、二次会が始まった、2つのテーブルに分かれて座り、タテは隣のテーブルで、私の席からから1番離れたところに座っていた。
テーブルごとに盛り上がっていると、向かいに座っていた橋本さんの酔いが回ってきたようで、真っ赤に充血した目を向けて、唐突に切り出してきた。
「もうさ、ぶっ込んじゃうけど、瑞稀ちゃんとタテは、混ぜるな禁止ではないの?」
触れられないと逆に、みんなが気まずいかもしれないと覚悟していた私は、持っていたハイボールを一口飲んだ。
「私とタテが別れたのなんて7年も前の話ですよ、ほら、私はこの通り結婚していますし、可愛い子供もいます。いまさら過去の話でぐだぐだ言ったりしたりしませんよ。」
左手の薬指の指輪を見せながら答えた。
「ほら、タテ!良かったな!瑞稀ちゃん大丈夫だってさ!」橋本さんが、トイレから戻ってきたタテに声をかけた。そのとき、明確に彼と目が合った。相変わらず気だるげな目をしていた。
「橋本さん、酔いすぎですよ。」
タテはそう言って苦笑いすると、店員に水を注文した。
「瑞稀、久しぶり、元気だった?」
再会の言葉を話す彼の頭が薄くなっているのを見て、そういえば、父親がハゲてるから、自分もいつかハゲると思う。と、かつて彼が笑いながら、言っていたことを私は思い出した。
2人きりのときはタテに触れることに抵抗が少なくなった私は、家にいるときによく彼の背中にもたれかかっていた。
「瑞稀、俺の背中好きすぎじゃない?」タテが笑いながら言うと、
「なんか大きくて安心する。家の冷蔵庫みたい。」そう答えた。
「冷蔵庫ってなに?冷蔵庫にもたれかかってるの?」
「冷蔵庫にもたれかかったことはないけれど、前におとぼけ課長の漫画で、課長が自分のお父さんの背中のぬくもりが恋しくて、冷蔵庫にもたれかかっていた回があったなと思って。」
「…おとぼけ課長ってなに?」
「知らないの?!コボちゃんとか描いてる植田まさし先生の名作漫画を!」
「知らない。」
「面白いのに。」
「それよりもさ。」タテはもたれかかっている私に身体の正面を向けて、
「俺は、もたれかかられるより、抱き合う方が良いんだけど。」
そう言って両手を広げてきた。
「…。抱き合うだけなら良いけど、それだけで止まらないこと多いじゃん。」
身に覚えがあるのか、タテは両手を下ろし、がっくりと顔を下に向けた。
「だって腕の中に、瑞稀がいたら、勝手に身体が動いてしまうというか、反応してしまうというか…。」
「私の身体のことも考えて。君は運動部だから無限に体力があるけど、こっちは帰宅部からの映画研究会よ?体力が持たない。」
もちろん、私が嫌と言えばやめてくれたが、あからさまにしょんぼりしているとこちらも申し訳なくなるため、なるべく応えるようにしていた。しかし、このやりとりでまたタテはしょんぼりし出した。なんだかかわいそうに思えてきた。
「…。ちょっとだけね。」
私はそう言って、両手を広げると、ものすごい勢いで抱きしめられた。
「力加減考えてよ、苦しいんですが。」
「つい、嬉しくて。」
まるで犬みたいだなと思い、タテの頭を撫でていると、スイッチを入れてしまったようで服の中に手が伸びてきた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。」
「待たない。無理。」
これは止まらないなと思い、窓の外を見ると、まだまだ日は高く、真っ昼間から始めようとするとは、いかにも大学生らしいなと思う冷静な自分もいた。
タテと私の日々は大きな波乱もなく穏やかに過ぎて行ったが、一つ大きな問題が出てきた。
タテは勉強ができなかったのだ。
1年生の教養科目は難易度も高くなかったので、無事進級できたが、2年生で専門科目の講義が始まったとたん、タテはほぼ全ての試験を落とすようになった。一方私は全ての試験を本試で通過していた。
試験前は別々に勉強をしていたので、お互いがどんな勉強方法をしていたのか分からなかったが、あまりにも結果が悪いので、
「どんな勉強のやり方をしたらここまで試験を落とすの?」
生化学Ⅰの試験に落ち、追試が4個目になったタテに聞いた。
「俺、ノートに書かないと覚えられないから、教科書をひと通りノートに写してる。」
生化学Ⅰの教科書は200ページ以上ある。全てのページを書き写していたら、とてもじゃないけど時間が掛かりすぎる。
「…生化学Ⅰの勉強は、試験の何日前から始めたの?」
「バスケ部の先輩にいつから試験勉強をすれば受かったか聞いたら、その先輩は3日間勉強すれば受かったって言ってたので、俺も3日前から始めた。」
その答えを聞いて、私は頭を抱えた。
「ちょっと待って。タテのやり方なら、時間がいくら合っても足りないの分かる?あと、先輩が3日間で試験範囲を勉強できたとしても、タテが同じ時間で同じ量のものを覚えられるとは限らないじゃん。人それぞれどれくらい時間をかければ暗記できるかは違うわけだし。そもそも3日間って相当短いよ。よっぽど短期間で覚えられる人の勉強時間を、ノートに書き写さないと覚えられない人間が真似しちゃダメでしょ。」
勉強ができる人間とは、そもそも短期間で大量のものを覚えられる地頭が良いタイプと、短期間で覚えられないけれど、自分がどれくらいの時間をかければ、どれくらいのものを覚えられるか把握しており、計画を立てて勉強できるタイプの2通りだと私は思う。私は後者だが、医学部に現役合格するようなタイプは前者が多い。タテは明らかに後者のように時間をかけないと覚えられないタイプなのに、前者のタイプの人の勉強方法を真似していた。これではとてもじゃないが、試験勉強は上手くいかない。彼は勉強のやり方がとても下手なのだと分かった。
「ちょっとこのままじゃ本当にまずいよ。留年するじゃん。」
「まあでも、追試で受かれば良いわけだし…。」
「甘い。甘すぎる。本試験期間より、追試験期間の方が短いんだよ。つまり勉強できる期間は今より短くなる。とにかくこれ以上追試が増えないように、残りの本試期間は一緒に勉強しよう。私は君の追試のサポートに専念するために、本試験で落ちないように頑張るから。とにかく今日から死ぬ気で勉強しよう。」
そう言って、その日から一緒に勉強したものの、時間は全く足りず、結局タテは、ほぼ全ての科目の試験を落とした。私は全て本試験で受かっていたので、追試期間はタテにつきっきりで勉強を見守った。
「勉強しんどすぎる…。」
タテは弱音を吐いてペンを置いて、その手をこちらに伸ばそうとしたので、私は払いのけ、
「ダメ、まだ半分も終わってない。追試を2科目落としたら留年決定なんだから、根性出して。」
「うー。じゃあせめて残りの勉強が終わったら、瑞稀に触りたい。」
「分かった。勉強が終わったらね。でも時間がないので触って良いのは3分までとします。」
「厳しすぎる…。」
なんとか、タテに勉強をさせて、追試期間は終了した。結果的にタテは1科目を落としており、その科目は来年も同じ試験を受けなければいけないことになったが、ぎりぎりで3年生に進級できた。
「進級できて良かった…。そして疲れた…。」
一緒に学校の廊下に貼られている追試結果を見に行った帰り道、私は安堵してつぶやいた。
「本当に良かったわ。瑞稀ありがとうね。」
自分の進級がかかっていたのに、タテはどこか他人事のようだった。
「最後まで危機感なかったよね。私の方が必死になっていた気がする。留年嫌じゃないの?」
「うーん。そりゃしないに越したことはないけど、部活でも留年している先輩わりといるし、1学年下の奴らとも仲良いから、最悪、留年しても精神衛生上は問題ないかなとも思う。」
ヘラヘラして言う彼に腹が立ってこう言った。
「彼氏が留年するとか本当に嫌。するべき努力を怠っているとしか思えない。情けない。」
私が冷たく言い放つと、
「それは、申し訳ない。」
タテは頭を下げた。だが、彼が本気で受け止めているように、みえなかった。
「もし、留年したら、私、別れるから。」
私が一段低い声で言うと、タテは驚いてこちらを見た。
「それだけは絶対に嫌。瑞稀と別れるのはマジで無理だ。」
「じゃあ、次からは本試験で受かるように、真剣に勉強して。ヘラヘラしないで。」
タテは明らかに落ち込んだ様子になったが、
「その代わり、本試験期間から私と一緒に勉強しよう。今回の試験で君が時間をかけて勉強しないと試験に受からないタイプであることはよく分かったから。私も同じように時間をかけないと勉強できない人間なので、同じ時間かけてやれば受かるはず。」
私はタテをまっすぐに見つめた。
「私はタテと一緒に卒業したいよ。」
そう言うと、タテもこちらを見て、
「分かった。頑張るよ。」
と言った。今度は真剣そうに見えた。
3年生からは試験前に一緒に勉強することになったが、ほぼ毎日部活があったタテはそもそも勉強に費やせる時間が少なかった。それに加えて、私よりも時間をかけて勉強しないと覚えられない人だった。そして、私自身も試験に落ちないためには、タテのために時間を割くより、自分の勉強の時間を優先にしなければならないことも多く、結局、タテは、3年生の試験も大体落としてしまった。
途方もない量の追試のために勉強する彼に付き合いながら私は思わずこぼした。
「...君はよく、医学部合格できたね...。」
「俺、補欠合格だし、合格の電話が来たときは、真剣に何かの間違いかと思ったもん。」タテは答えた。
彼は、家で勉強すると集中できないとタイプだったので、タテの部活が終わったあとに24時間営業の駅前のガストに行き、徹夜して勉強した。追試期間になると、ほぼ付き添いで行っていた私はボックス席のソファーで寝てしまうことも多かった。いつも、空が白んでくる頃に、歩いて私の家に帰宅した。
「あー、眠い。早く終わって欲しい、本当に。」
タテはアクビをしながら言った。
「早く終わらせよう。一緒に4年生になろう。3年生の試験が1番難しいって言われてるし、ここを乗り切れば、卒業まではいけるはずだよ。」
彼に向かって言うと、タテは私の手を握ってきた。
「瑞稀にここまで付き合ってもらったからには、なんとかするよ。」
人目が気になるので、外で手を繋ぐのを私はいつも嫌がっていたが、早朝なら誰も見ている人はいないだろうし、何より、タテを応援した気持ちが大きかったので、そのまま手を繋いで歩いた。
1番近くでタテの姿を見ていた私からすると、彼はできる限り頑張っていたと思う。しかし、残酷だけれども、人にはできることとできないことがある。私も全力でサポートしたつもりだったが、結局、2つの試験を落とし、彼は3年生で留年が決まってしまった。
私は留年したら別れると言っていた。この現実を前に、当時まだ20歳そこそこの私なりに、今後のことを一生懸命考えた。タテは全力で頑張っていた。しかし、ただ、ただ、ストレートに進級できるだけの勉強の上手さを持ち合わせてなかったのだ。
留年を告げる廊下の掲示物を見たあと、私の家に帰り、彼はうなだれていた。
「瑞稀、ごめん。あんなに付き合わせたのに、こんな結果になって...。」
今まで見てきた中で1番落ち込んでいる彼を見て、私は意を決して言った。
「タテが頑張ってたの、近くで見て、分かってたよ。君は不器用で勉強が下手なんだって思った。努力ができてない訳じゃなかったと思う。だから、私も色々と考えた...。留年したら別れるって言ってたけど、それは撤回する。」
タテは顔を上げてこちらを見た。
「それは別れないってこと?」
「うん、別れない」
私が応えると、タテはほっとしたようだった。その顔を見て、私は意を決して言った。
「でも、留年しても付き合うってことは、将来のこともきちんと考えて付き合う覚悟だって分かって欲しい。」
「それは...つまり、結婚ってこと?」
タテは驚いた様子で言った。
医師は、学生時代からの付き合いでそのまま結婚するケースがとても多い。女医の場合は、学生時代に彼氏を見つけておかないと、出会いがなくなるとも言われていた。そして、なにより私は、タテのことが本当に好きだったのだ。
「そのつもりです。」
タテを見つめて、私は宣言した。タテはしばらく考えてから、こう言った。
「分かった。俺も瑞稀のこと好きだし、別れたくない。その方向でお願いします。」と頭を下げた。
今考えれば、なんて世間知らずで、なんて純粋だったのだろうと思う。結婚にまつわる色々な懸念点をすっ飛ばして、私は、ただ、ただ、彼とずっと一緒にいたいと思ったのだ。
「じゃあそういうことでよろしくお願いします。」そう言って、私は彼の肩にもたれかかった。
2度目の3年生をやることになった春から、タテは住んでいた下宿を引き払って、私の家に住むようになり、今まで以上に、一緒の時間を過ごしていた。私は、毎日幸せで楽しかった。




