【166】新しい乳母
オラシオとイシドロという二人の冒険者が屋敷に滞在を始めたのもあり、俄かに賑わいを見せるフリートホーフ辺境伯邸だったが、賑わいが増している理由がもう一つあった。
冬場、辺境伯一家は慣例として北部のベルンシュタイン城砦に入る。
つまり、冬場は屋敷の維持管理以外、あまり人手を必要としない。強いて言うのであれば、白銀故に畏れられるアルバンの不在により泥棒が入るリスクがやや上昇するため、警備や戸締りに気を付けねばならないくらいである。
故に、辺境伯邸で新しく使用人を雇うのは、決まって春。
この春に関しても、新たにやって来た新人メイドや執事候補の新人小間使いや雑用係などが数名入ってきていた。
その中には、新たに生まれた辺境伯家の令息令嬢、オーギュストとアマーリアのため、乳母の増員も含まれていた。これまでの乳母は三人。ペトラ、リタ、ローザ。それに加えて新たに新人乳母が三人。引き継ぎのためにペトラはひと月ほど留まっていたのだが、それも済んだので、同僚であったリタとローザはペトラとの別れを惜しみつつも、心機一転、先輩乳母として頑張らねばと気合を入れていた。
これまで、乳母のリーダー的な存在であったペトラが抜けて、リタとローザは少し心細かったが、そうも言っていられない。
新しい三人とも仲良くやっていきましょうね、と張り切っていたのだが……しかし、静かに問題は起きつつあった。
初めに「あれ?」と思ったのはローザだった。
ローザは辺境伯邸に乳母として雇われたその日のうちに、暴力を奮う夫との離婚を成立させていた。雇い主であるアルバンによって、暴力夫の元にも騎士をやって釘を刺してくれたというのもあって、ローザは辺境伯一家に対する忠誠心が強い。
そして、今回、後輩としてやってきた新人乳母のうち、一人がローザに近い境遇だった。夫から暴力を受けている、妊娠中も蹴られたと聞いたので、ローザは自分と同じだと思い、そのことを話したのである。
その新人乳母の名前はメラニー。
庶民にしては濃い緑色の髪の持ち主であり、どことなく元気がないというか、家庭内で虐められている人間特有の暗さがあったので、ローザはその話を疑わなかった。
「はぁ……産婆は分かってそういう人間を斡旋してるな。まあいいや。お前を離婚させてやろう。夫のところには騎士をやって警告はしておく」
乳母たちの雇用主であるアルバンはなんだかんだ慈悲深い主人であったので、ローザの時と全く同じ対応をした。まんまと老獪な産婆たちの思惑に乗せられるのは良くはないけど、放置するほどでもないし、といった感じだった。
そもそも、アルバンにはこれ以上、愛する妻であるツェツィーリアに子供を産ませる気がなかった。
なので、訳ありの乳母を救済して欲しいという企みをもって人を紹介してくるヴァンダと、その伝手でメラニーを推薦した街の産婆に異議申し立てをする程ではあるまい、と考えたのである。これが最後だから、と。
その時は、メラニーも恐縮し切った様子で「ありがとうございます」と言っていた。緊張しているのか辿々しい喋り方であったが、雲の上の人に慈悲を掛けられたならそうなるのも無理はない。アルバンが去ってからローザは「良かったですね」と話し掛けたのだが……メラニーはごく小さい声で「ええ」と言うだけで、なんだか上の空だった。
なんとなく、勘でしかないか、ローザはその時に、言葉にし難い違和感を微かに覚えた。
けれど、なんで気になるのか自分でも分からなかったので、同期のリタとの話題にすらしなかった。
「アルビレオ、オーギュスト、アマーリア、おはよう。お父さんだよ〜〜!」
この屋敷の旦那様であるアルバンの子煩悩は既に使用人たちには遍く知れ渡っているし、子供部屋ではアルバンもそれを隠そうともしなくなっていたために、入室して早々、愛しい我が子たちに向かって親馬鹿全開で話し掛けていた。
慣れたもので、ナースメイドや先輩乳母たちは「アルビレオ様は今朝、離乳食を完食されたんですよ」とか「オーギュスト様は本当に大人しくて」とか「アマーリア様の背中にブツブツがあったので薬を塗りました」とか、辺境伯家の高貴なる子供達の体調に関しての報告をした。
「えぇっ、アマーリア、背中にブツブツが出来てるの? あっ、ちょうどオムツかな? 交換するついでにちょっと見せてね」
愛娘に話し掛けつつ、アルバンはテキパキとおしめを交換し、背中のブツブツの様子を見て、それから、薬を塗ったお陰でか、そのブツブツが治りつつある様子を見て、そっとベビー服を着せた。
「良かった。治ってきているみたいだね。僕の可愛い、大事なアマーリア。早く良くなるといいね。肌が荒れやすいの、ちょっと僕に似ちゃったのかな? ごめんね」
愛娘を宝物のように抱いて、ゆるくゆすってあやして、それからそっとベビーベッドに寝かせてから、アルバンは言った。
「……ふと思ったのだが、父親が娘のおむつ替えをするのはやはり、倫理的に良くないのだろうか?」
物凄く真剣な面持ちで、ナースメイドやローザに相談したので、みんな笑ってしまった。
「難しいですね。あくまでも子育てのためですから、問題はないと思いますが……そもそも、男性で子供のおしめを交換する人は庶民でもほとんど居ませんから。まして、旦那様もアマーリア様も高貴な方々ですし、適当かどうかは我々には分かりかねます」
「だろうな……特に疑問も持たずやってしまっていたが、アマーリアは令嬢だし、嬰児の頃とはいえ、父親に肌を見られた、というのは良くないかも知れない。これからは、アマーリアの服の脱ぎ着に関しては、全てメイドと乳母で行うように。僕が間違ってやろうとしたらすぐ指摘して構わない」
「かしこまりました」
「旦那様、奥様がアルビレオ様やオーギュスト様のお世話をしようとなされた場合はいかがしましょう?」
「うん……貴族女性でも、我が子の育児をする貴婦人は稀に居る。そちらは問題ないだろう。ツェツィーリアの意向に沿う形で構わない」
「かしこまりました」
指示を出して、それから、三人の我が子それぞれの頬にキスをして、アルバンは退室していった。
ポカンとしている新人乳母たちに対して「驚いたでしょう?」「旦那様は本当に子煩悩で」とナースメイドのゾフィーとレベッカの二人が説明するが、それでも尚、しばらくメラニーだけは固まっていた。無表情で。呆然としていた。
「メラニー?」
いつまで経っても動かず硬直しているので、ローザが声を掛けたが、メラニーは二度目の声掛けでやっと気が付いた。
「び、びっくり、して……。」
「ええ。驚きますよね」
「あんな、あんな男の人が、居るんですね……あんな人が……。」
育児に積極的な貴族男性に驚いたのだろうけれど、しかし、そんなにショックを受けることかしら、とローザは思ったのだが、ひょっとすると、婚家で夫から物凄く虐められていたのかも知れない。ローザは今でこそ、普通に生活出来てはいるが……この屋敷に雇われて、離婚した直後しばらく経つまでは、男性が怖かった。身が竦む思いには覚えがあったし、それは今となっても、軽い苦手意識として残ってはいる。
特に、旦那様は大柄な方で、威圧感があるし……メラニーは体がそんなに大きくない。身構えてしまうのかも、と考えて気にしないようにした。
だけれど、ローザが感じた違和感は、日が経つごとに強くなっていった。
「ねぇ、ローザ。メラニーのことなんだけど、なんだか、あの人ちょっと、変じゃない?」
寝る前、私室でそう切り出されて、ローザは驚いた。
元々、ペトラを含めた最初の乳母三人は同室だった。二段ベッドを二つ入れた使用人用の部屋で暮らしていて、ペトラが辞めたあとも先輩であるから、と部屋替えはなく、ローザはリタと二人部屋になっていた。
しかし、元々乳母の勤務はアルバンの取り決めにより三交代制。しっかり睡眠を取れるようにとの意図からそうなっていたし、今は新人が増えて、勝手が分かっている乳母が二人しか居ないため、主にローザは昼勤、リタは夜勤として勤めて、後輩乳母たちの指導にあたっていた。
なので、ローザとリタは同室ではあるものの擦れ違いの生活を送っていたし、落ち着いて話す機会が少なくなっていたのだが、新人乳母のうち一人が、妊娠中に昼夜が逆転してしまいまだ戻らないらしく、夜勤専門になりたいと志願した。その新人に関しては子供も二人目とあって、経験者なのもあり、仕事の習得が早かったので……しばらく夜勤が続いていたリタが変動性シフトに戻って来たのだった。
久しぶりに同じ時間のシフトになって、朝から午後にかけてローザとリタ、メラニーの三人で仕事に当たっていたのだが、その後、入浴を済ませて寝支度をする中でリタがそう切り出したのである。
「やっぱり、変、ですよね。どこがどうおかしいとは言えないのだけど」
「奥様に近寄ろうとしないの、ちょっと変よ。確かにその、黒髪なのと、頭からヴェールを被っているから、最初は……分かるわ。でも、周りの様子でお優しい方なのは分かるじゃない。奥様あっての乳母なのに、態度が余り良くないと思うわ」
「そうね。明日、指摘します」
「でも、何より……メラニーって、自分の子供が泣いていても無視するのよね。確かに、今日はアマーリア様の癇癪が凄かったけど、あそこまで自分の子供を投げ出してって、なんだか……。」
「確かに……そもそも自分の子供を、あんまり見ようとしていない気がします」
メラニーは、自分の子供に対する関心が薄かった。
当然、乳母として雇われているのだから、雇い主の子供であり、貴族でもある三人の白銀の子供たちを優先するのは義務だ。
しかし、ローザもリタも、あのペトラだって、白銀の子供たちと自分の子が同時に泣いていたら、どうしたって自分の子に視線は向けてしまう。大体の場合は察したナースメイドがサッとフォローしてはくれるが、二人同時にお乳はあげられない。
体が空かない時には我が子を待たせることになるし、ナースメイドにあやされつつも泣いている自分の子供をチラチラ見て気にしてしまうのは普通のことだ、とローザもリタも考えていた。
だが、メラニーの優先順位は白銀の三人の子供たち、次にローザやリタなど他の乳母たちの子供、そして最後に自分の子供のようで……それが少し、なんだか不気味に思えたのだ。
「でも、子供を産みたくないのに産んだ人で、たまにそういう人も居ますし、アルビレオ様たちのお世話をきちんとしているなら、問題はないような気もします」
「でも、何を考えているかよくわからないし……とりあえず、ゾフィーとレベッカにも相談しましょ」
と、そこで、先輩乳母二人はこのなんとも言えない違和感と不安に関して、年下ではあるものの、お屋敷勤務の先輩である優秀なるナースメイドコンビに相談した。無論、件の新人メラニーが居ない時間帯で。
「ああ、メラニーに関しては……ちょっと聞いてます」
「私たちに対しては普通なんですが、夜勤に当たると、ヘルプに来てくれた他のメイドに対して態度が悪いって、噂になってます」
なんでも、以前から子供部屋を職場としているナースメイドのレベッカとゾフィー、それにローザとリタ、同期の乳母たちに対しては普通なのだが、夜勤で人手が足りない時、ヘルプで来てくれた他部署のメイドに対して上から目線で口を利くらしい。
「一応、もう家令のルーカスさんには報告していて、これ以上酷くなるようなら注意して頂くようにお願いしてあります」
仕事の出来る有能ナースメイドコンビから、もう手は打っていますし報連相もバッチリです、と言われて、ローザとリタはホッと胸を撫で下ろした。
それから、三日ぐらいメラニーは大人しかった。
きっと家令のルーカスさんから注意されて、改めたのね、とローザたちは思っていたのだが……後日、ギョッとする話が耳に入ってきた。
「聞いて! ローザ! あの新人……信じられない!」
部屋に戻るなり、物凄い剣幕でリタが叫ぶのを見て、ローザはベッドから転げ落ちそうになった。
シフトが別で、ローザは寝ている所だったのだが……普段はそう言う時には気を遣ってそっと移動するリタが、全てかなぐり捨ててバン! と派手に扉を開けて入ってくるなりそう言ったのだから、相当だ。
「し、新人って」
「メラニーよメラニー! 今日、奥様が来て、しばらく子供部屋で過ごされたの。それで、メラニーが奥様に話し掛けたの。真珠の髪飾りをされていたから、凄いですねって」
「それがどうかしたの?」
「言い方よ言い方! 感じ悪くって。奥様は気が付いていなかったのが不幸中の幸いね。旦那様が作って下さったんです、って返されて。それで、ニーナも一緒だったから、次はピンクのを作るって言ったの。そしたら……!」
目に浮かぶようだ。
ニーナは女騎士であり、同時にこの屋敷に於いてはツェツィーリア専属のウェイティングメイドでもある。加えて、女の人限定で親切かつ人懐こいので、先輩風を吹かせるところはあるものの、馴染めていない人にも親切で話し掛けたのだろう。分かりにくくはあるが、ニーナのことだから「辺境伯家は裕福だしアルバンもツェツィーリアさまも気前が良いから安心して働ける」と伝えたかったのであろう。
「奥様とニーナが退室されてから“よくばり”って言ったのよ!」
「ええっ!?」
「よくばり、ですって! 信じられない! あれが旦那様の耳に入ったりでもしたら……!」
寝ぼけてまだボンヤリしていたローザだったが、一気に目が覚めて飛び起きた。
徹底した愛妻家であるアルバンは妻の悪口を絶対に許さない。それならむしろ、アルバン自身の陰口を叩く方がまだマシだ。
「メラニー、きっと解雇でしょうね」
「メラニーはもうどうでもいいわ。旦那様がどうなさるかよ!」
「リタ、誰かに報告はした?」
「してない。でも、ちょうどゾフィーもその場に居たから、もう動いていると思うわ」
「今、メラニーはどこに居るの?」
「もう上がって部屋に戻ってる筈だけど」
「メラニーの部屋に行くわ。話をしないと」
「私も行く」
と、ローザとリタは、揃ってメラニーの居る部屋に向かったのだが……なぜなのか、当のメラニーは居なかった。
メラニーと同室の乳母は居たが「まだ戻っていないんです」との回答。使用人用の風呂場や、使用人用の食堂にも居なかった。
この段階で、ローザもリタも嫌な予感がし始めていた。
「忘れ物をしたのかも」
「子供部屋……? 私物なんて持ち込まないのに?」
疑問に思いつつも、邸内で居るとしたらもう残りはそこしかない。ローザとリタは揃って、職場でもある子供部屋に向かったが……結論から言うと、そこにメラニーは居た。
「オーギュスト様は今日は沢山お乳を飲みました」
しかも、最悪なことに、夕方、食事前に子供の顔を見に来たらしいアルバンに、何故か勤務時間外である筈のメラニーが報告をしている。
ちょうど、アマーリアが眠ったところだったらしく、レベッカがやや緊張した面持ちでアマーリアを抱きつつ、様子を伺っているらしかった。アルビレオと、それからリタの息子とローザの娘は、サモエドのカヌレに寄り添って、もう一人の新人乳母と共に遊んでいた。
アルバンはメラニーからの報告を、頷きながら聞いていた。
が、距離が近い。余りにも近い。
確かに、ローザたち乳母がアルバンに近寄る場面はある。あるが、それはご子息ご令嬢の受け渡しに限定される。ナースメイドたちでさえ、子供の受け渡しはサッと済ませて、それ以外は1メートル以上の距離をあけている。
ゾフィーとレベッカが最初からそう振る舞っていたし、庶民は貴族に対してそうするものだと、ローザもリタも自然と理解していたが……メラニーは今、アルバンの真横に居るのだ。
しかも愛想良く喋っている。笑顔で。
ーーそうか、メラニーはいつも、旦那様に対してだけは愛想が良いんだ。
気付いた時にはもう遅かった。
「あの……閣下は子供好き、なんですよね」
「誰だって我が子は可愛いものだ」
「わ、私が、私が、辺境伯夫人になるっていうのはどうですか!?」
メラニーの口から放たれた言葉に、ローザも、リタも、レベッカも、それから新人乳母も、更にはアルバンも硬直した。
「私は風属性の魔法が使えます! 平民にしては髪の色も濃い方です! 閣下の子供ならみんな白銀になるのでしょう? あんな黒髪よりもずっと魔力が多いですし、もっと優秀な子供が産めます! 五人でも六人でも、何人でもーー!」
とうとうメラニーがアルバンの服の、袖を掴んだ。
上気した頬で、見上げている。
それを見て、アルバンは小さく「うん」と呟き、メラニーの手を振り払うように腕を組んで、頷いて、それから、感情の読み取れない平坦な表情のまま、硬質な声を出した。
「レベッカ」
「はい」
「厩舎まで行け」
「……かしこまりました」
レベッカが静かに立ち上がり、そっと抱いていたアマーリアをベビーベッドに寝かせてから、素早く部屋を出て行った。
ほぼ同時に、ゾフィーに連れられてか、家令のルーカスを先頭に執事長とメイド長が到着した。
「私はそんなに贅沢もしません! 銀細工とか、宝石とか……確かに欲しいですけど、ひとつあれば充分です。あんなによくばりじゃありません」
「よくばり、ね……。」
怒りが表出しないのが怖い。
アルバンがローザとリタに視線を向ける。言外に、ベビーベッドに居るオーギュストを移動させろと伝えているのを察知して、ローザは息を止めながら、素早くメラニーの反対側に回って、オーギュストを回収した。
「アルビレオ様も、オーギュスト様も、アマーリア様も白銀です。これって、閣下が凄い人で、だから子供も白銀なんですよね? ドラゴンスレイヤーで神の子で特別だから。顔の傷は気にしません。エリクサーがあればきっと良くなりますから! 閣下の子供はあんな魔力無しの黒髪から生まれたのに白銀なんです。私ならもっとずっと優秀に産めますよね!?」
ヒ、とローザは自分の喉から変な音が鳴るのを聞いた。一度ならず二度までも。
ツェツィーリアを「あんな黒髪なんか」と言った。
これには、駆け付けた家令たち上級使用人も血相を変えた。寧ろ、普段は枯れ木のように気配が薄く穏やかなルーカスに至っては、憤怒に顔を赤くしている程だ。
「それで? お前は自分が辺境伯夫人に、僕の妻になりたいと? それが相応しいと?」
「はい! 私は平民ですが少しは読み書きが出来ますし、魔力もある方ですから、今の奥様よりは良いと思うんです!」
「へぇ。それは面白い意見だね」
アルバンの声のトーンがどんどん低くなっている。無感情に、無機質に、変化していることにどうしてメラニーは気が付かないのか。
本当ならもう、立場も何もかなぐり捨てて、今すぐにメラニーをぶん殴って止めたいくらいだったが、既にその段階ではない。
「我が家は僕の方針で、普段はしないんだけど、まあ、しょうがないよね」
続いて、厩舎まで走ってそれからまた戻ってきたらしい、レベッカと三人の騎士が到着した。
すぐにレベッカがサッとアルバンの前に行って、低く跪き、目線を合わせぬよう頭を下げた状態で、馬用の鞭を差し出した。
二名の騎士が、やや戸惑った様子を見せつつもメラニーの肩を掴んでその場に跪かせる。
「アルビレオとオーギュスト、アマーリアを部屋の外へ」
命じられて、新たに呼ばれたらしい別なメイドたちが、指示に従って三人の令息令嬢を引き受けて、部屋から出そうとする。
「ま、待ってください! なん、なんで? 私、何か間違ったこと言ってますか!?」
事態を察知して、漸くメラニーが騒ぎ始めた。
信じられない、というような顔をしているが、ローザもリタも、レベッカもゾフィーも「信じられないのはこっちだよ」と思っていた。
「あれ、何かあったのですか?」
すると更に間の悪いことに、ニーナを連れたツェツィーリアが来てしまった。
奥様の耳にだけは入れたくなかったのに……!
ひょこっと親しみやすや満載の、実に平和な響きの声と共に現れたツェツィーリアを前に、アルバンが渋い顔をした。見られたくない場面だったのだろう。
「えっ、あの、この状況は……?」
「ツェツィーリア……。」
とうとう、アルバンが騎士に抑え付けられ、跪いたメラニーにゴミを見る目を向けた。その視線は「お前のせいで」と語っており、見ているだけでローザは胃がキリキリした。
「も、もしかして、暗殺者ですか……!?」
違う。そうじゃない。
いやでも、知らなければそう思うかも。むしろ、いっそのこと暗殺者だったなら、その方がまだ良かったかも。
「違うよ。単なる無礼者。この女、辺境伯夫人になりたいんだってさ」
「それは……夢がありますね……?」
かなり上品なパッケージに包まれた「正気か?」という感想だった。
「あっ、私に差し向けられた暗殺者ですか?」
「それだったらまだ分かるんだけどね。違うみたいだよ」
「純粋に辺境伯夫人になりたいだけの方でしたか……。」
大体のことには動じない上に温厚なツェツィーリアがとうとう混乱して、やや引いている。
が、常人のみならず、天才であるアルバンの予測の上をいくのがツェツィーリア。
「ええと、なりたいというだけなら、大半の女性はなりたいと思うものだと。願望を待つのは合法ですし、別に良いのではないでしょうか?」
ちょっと首を傾げてそう言った。
莫大な財産を持つドラゴンスレイヤーの辺境伯、しかも白銀。それを前にしたら超優良物件と結婚したいな〜と妄想するのは自由だよと考えているようだ。
「ツェツィーリア、この女はね、君のことを“あんな黒髪なんか”って言ったんだよ。それも二回も。僕と結婚して、アルビレオやオーギュストやアマーリアより優秀な子供を産むなんて、気色の悪いことを宣ったんだ!」
とうとうアルバンが怒鳴った。
元々、声が良いために怒るとビリビリと響く。
身が竦むようだが、しかし、ツェツィーリアは全く怖いと思っていないようだ。
「もしかして、鞭をくれて叩き出せ、というやつですか?」
「そうだよ」
「ええと、すみません。五分頂いても良いですか? あなた、乳母の……私に代わって、より優秀な子供を、という提案をしたというのは本当ですか?」
「ええ! そうよ! あなたみたいな黒髪なんかより、私の方がずっと魔力だってある! あなたから生まれたのに、この子達は真っ白でこんなに綺麗。だから、私ならもっと綺麗でもっと強い子を産めるわよ! 優しくて、思いやりがあって、子供をきちんと育ててくれるような夫が居るのに、毎日違う宝石をつけているような女、閣下に相応しくないわ!」
「ああ、はい。なるほど。つまり、あなたは……辺境伯夫人になりたいというよりは、アルバン様の妻になりたいんですね」
淡々と、相槌を打ちつつ、更に怒鳴ろうとする素振りを見せたアルバンの前に手を出して留めつつも、ツェツィーリアはメラニーを拘束する騎士たちに頼んで、彼女を立たせた。
「でしたら、これは私のやるべきことですね」
と、言い放つなり、ツェツィーリアは大きく腕を振りかぶって、メラニーの頬を平手でぶった。
バチン、と音がしたが、音からしてあまり上手いビンタとは言えないことは誰が聞いても分かったし、あんなものさして痛くもないだろうというのも見るだけで分かったが、しかし……アルバンも、ニーナも、騎士も、その他使用人や乳母たちも、びっくり仰天していた。
「なっ、なん、ま、魔力なしの黒髪のくせ、にっ……!」
もう一発、下手なビンタがメラニーの頬を打った。
が、メラニーの方も驚き戸惑いつつも、懲りる様子がない。髪を振り乱して暴れつつも叫び続ける。
「よくばりの意地悪女! あんたみたいな魔女、閣下に相応しくないわっ!」
「はい。私は欲張りで意地悪です」
なんてことのない雑談をする時と全く同じトーンで、ツェツィーリアは肯定した。
「……残念ながら、魔女ではないのであなたを呪ったりは出来ないですが、欲張りなのでアルバン様の妻の座は誰にも譲るつもりはありませんし、子供たちも全員、私のものです。強欲なので、アルバン様から頂いたものも、何一つ手放すつもりはありません。あと、意地悪な貴婦人なので、夫に手を出す……ええと、泥棒猫? でしたっけ? には罰を与える権利があります。この屋敷の女主人なので」
「なっ、な、なっ……!?」
「許しません。あなたを解雇します。二度とこの屋敷に近寄らないこと。もう一度、私や家族の前に姿を現すことがあれば、それなりの処置を行います」
「この、あ、悪女!」
「悪女ですっ!」
ばちん! またしても下手くそなビンタが炸裂した。
ここでやっと、ニーナが動いた。
「ツェツィーリアさま、駄目だ。手が痛くなる」
戸惑いつつも、腕を振り上げたツェツィーリアの手首を掴んで止めようとする。ふるふると首を振るが、いつもの無表情と淡々とした言葉ながらも、ニーナは死ぬほど戸惑っていた。
それを見て、アルバンもややアタフタしつつ、ツェツィーリアの隣に寄って肩を抱いた。
「ツェ、ツェツィーリア……そうだよ。君の手が痛くなっちゃう。指がそんなに細いんだから、当たり方が悪いと、折れるかも。突き指するかも知れないし」
もう屋敷の主人だとか、厳格な辺境伯だとかの仮面をポロッとどこかに取り落として、使用人や騎士の前だというのに完全に夫として父としてのプライベートな態度である。
「ぼ、僕がやるから。立てなくなるまで鞭で打って、どこか離れたところに放り出すから……。」
「嫌です。腹が立ったので私が叩きます」
「あっ、えっ、と……鞭、使う?」
「使いません。疲れたのでもういいです」
「そ、そう……!」
「すみません、その人を屋敷の外に出してきてください」
ツェツィーリアに命じられて、騎士たちが「はっ!」と返事をして、速やかにメラニーは退場していった。
そこで、メラニーの姿が見えなくなってから、ふん、とツェツィーリアは慣れない様子で鼻を鳴らして、それから。
「アルバン様、一応、念のため確認なのですが……さっきの人と私だと、まだその、私の方が良い、と、思ってくれますか……?」
「比べ物にならないよ!」
「なら良かったです。アルバン様の意思確認をしないうちにあんな真似をしてしまいましたが、私で続投なら問題ないですね」
ニコッと笑って、何事もなかったかのように通常運転に戻ったツェツィーリアを見て、アルバンは何故だか頬を赤くしながら「う、うん……!」と子供のような返事をした。
「まさか奥様があんなことをなさるなんて……。」
「でも、よくよく考えてみたら、旦那様だと力が強いし、拷問でしかないから……怒りに任せて打っていたら、メラニーは死んでいたかも」
「奥様に何回かビンタされるぐらいで済ますのが、一番平和よね」
「奥様はお優しいですから……メラニーが鞭で打たれるのをやめさせたかったのでしょう」
「そうそう。旦那様は前から、気に入らない使用人は鞭で打っても良いと奥様に言っておられましたし。でも、奥様は“それは怖いから嫌です”と仰って……鞭打ちされる人を見るのも、きっと奥様はお嫌なのでしょう」
後になって、乳母とナースメイド、育児チームたちはそんな会話をした。
その他使用人たちの間でも「奥様が身の程知らずの無礼な女に体罰を与えたらしい」と噂になったが、大半の使用人が「なんの冗談だよ」と聞いてしばらくは笑っていた程である。それぐらい、ツェツィーリアという貴婦人は癇癪とは無縁で温厚で穏やかであったので、メラニーに纏わる一連のエピソードを聞いた感想としては主に「奥様、そういうこと出来たのか……。」という意外性による驚きであった。
特に、暴漢にツェツィーリアが襲われた際に巻き込まれて大怪我を負い、その功績からエリクサーによって密かに治療された厩番の老人などは「本当に奥様がそれをなすったのか? 旦那様じゃなしに?」と三回ほど聞き返して、それでもまだ信じらないれずにいた程である。
事件の後、ローザはリタと共にアルバンとツェツィーリアに対して平身低頭謝罪したが「報告が上がっていたとは聞いている。お前たちのせいではない」との寛容なお言葉により、お咎めなし。どころか、追加で「お前たちが排除すべきと判断したらそのつもりで進言して良い」とのフォローまで付いてきた。アルバンとしても、単にメラニー個人がヤバい女だったから仕方ないよ、という認識のようであった。
「でも、どうしてメラニーはあんな真似を? 平民が貴族の奥様に、それもこんな大きな家の女主人になれる訳がないのに」
リタの疑問に、ゾフィーもジャンヌも「さぁ……?」と首を捻っていたが、ローザは少しだけ、分かるような気がした。
殴る夫かどうかは、結婚してみるまで本当にわからないのだ。ローザの元夫も、結婚する前は親切なだけの人間に見えた。義母もそれは同じで、だけれど、結婚して家に入った直後、二人は豹変した。まるで別人のように怒りっぽくなり、口汚くなり、ローザが何をしても怒鳴るようになり……そこから、拳が飛んでくるまでそう時間は掛からなかった。
結婚前はローザも、そんな家庭があるとは聞いていたし、たまに、そういった不幸な結婚をしたらしい女性の姿を見たこともあった。けれどその時には気の毒だと思いはしても、他人事だった。まさか自分の身にそれが起きるとは、結婚を考えている親切で優しげな相手がそうであるとは考えもしない。
その一方で、結婚してからも変わらないとか、むしろ結婚してからの方が良くなる場合も世間には確かにあって……どこで違いが出るのかローザには分からなかった。今でも分からない。
どうしてこんなことに、という疑問に対して、相手から与えられたのは「お前の出来が悪いからだ」という言葉だけで、日々を送るので精一杯の精神状態では、その与えられる答えを受け止めるしか出来なかった。
離婚が成立して、安全な辺境伯邸の乳母になって、気持ちが落ち着いてからは「あれはおかしかった」と理解出来たが、その一方で……子煩悩なアルバンという男性の姿を見ると、ほんの少しのザラついた気持ちが奥底にあるのも事実だった。
身分が高く、白銀で、竜を殺せるほど強く、優秀で尊い男性が、妻を尊重して子を愛して、自分の子どもの世話をする、という姿は理不尽ですらある。
単に、アルバンという個人が変わり者で、一際愛情深い性格であるせいだとは分かっていても、なぜ、どうして、という気持ちが完全に消えてはくれないのだ。
なぜ。
どうして。
私の夫だった男は、こうではなかったのか。と。
だが、そんな考えは間違っているし、口にするべきではない。単なるつまらない嫉妬でしかないし、平民がツェツィーリアほどの優れた貴婦人に対して持つのは余りにも大それたことだ。
だから、ローザはこう言った。
「分からないけれど、お金に目が眩んだんじゃないでしょうか?」
お金は誰もが欲しがるものだから、この無難な回答を前に、リタやゾフィーやジャンヌは「そうかもね」と納得して、それぞれ赤ちゃん達の世話に戻っていった。




