【159】キマイラ狩りに行こう
妊娠中で悪阻が辛いのに、わざわざ来てくれたカテリーナさんとマヌエラさんをお見送り。
アカデミー女子寮の実情、大変よくわかった。
これは我ながらナイスな人選。自画自賛だが、やはり本当のことをズバッと言ってくれるカテリーナさんと、シチュエーション込みで前提の事情から丁寧に教えてくれるモニカさんが揃うと強い。
メモも取ったし、予習はバッチリ。
ありがとうカテリーナさん!
軽めに焼き菓子のお土産渡して馬車が見えなくなるまで見送って、すぐ家の中に戻ったのだけど……何やら仕事が発生したらしく離席していたアルバンが私のところにやって来た。
なんだかちょっと不機嫌そう。
どうしたどうした?
「……実は、今日の視察なんだけど、ツェツィーリアには留守番をしていて欲しいんだ」
「えっ、それは……構いませんが、何かあったんですか?」
そうなのである。
本日のスケジュールは春になったから、またアルバンと共に領地の視察の予定であった。
カテリーナさんを見送ってから準備して、家から馬車で一時間ちょっとの場所にあるルビーとサファイアの出る鉱山の見学に行く筈だったのだけど、何かが起きているらしい。
「鉱山近くの村からそう遠くない森に、キマイラが出たらしくって」
「えっ、キマイラですか……それはまた……。」
キマイラとは、山羊の角と蛇の尾を持つ巨大な獅子に似た怪物だ。牛より一回り大きいらしい。肉食の魔獣だし、好んで人間を食べるためにもう文句なしの特定危険種。
見た目のインパクトの強さもあってかなり有名なのだが、有名で恐れられているのにはきちんと理由がある。
「キマイラはね、数少ない二重属性の魔物なんだ。属性は火と風。だから、爆炎魔法が使える。そうそう連発は出来ないけどね」
「爆炎魔法。ミルメコレオ討伐戦の時にアルバン様が使っていた魔法ですか?」
「そう。あれは僕が同じことを出来ないかなって思って真似したものなんだ。だから、オリジナルはキマイラだね。効果の範囲と威力は騎士団使ってやった方が大きくなるんだけど、キマイラは一点集中で獲物に向かって使うし、魔力操作が上手い。加えて、懐に飛び込んだとしても、肉体的にも強いから凄く厄介な魔獣だよ」
凄く厄介とアルバンが言い切るあたり、本当に危険な魔獣なんだな?
「キマイラは攻撃的だし、先手必勝で魔法を使うから、普通にグリズリーも仕留めるし」
「それは本当に恐ろしい魔獣ですね!?」
「そうそう。グリズリーもキマイラには勝てないと思う。だから、危ないしツェツィーリアには家で待っていて欲しいんだ」
とても分かりやすい基準、それはグリズリー。
強くて凶暴なグリズリーは魔法が使えないのに魔獣を仕留めることもままあるらしいが、そのグリズリーを持ってしても歯が立たないとくればこれは間違いなく危険な魔獣。最早災厄クラスと言えるだろう。
「ち、因みに、キマイラとハインリヒさんならどっちが強いんですか?」
「本当なら強いのはキマイラの筈なんだけど、毎回勝って生き残るのはハインリヒだね」
「既に何度か討伐の記録を持ってるんですね?」
「うん。二頭」
ここが怖いよフリートホーフ辺境伯領。
どうなってんだこの領地は。
グリズリーだけでも恐怖だというのに、それに飽き足らずキマイラまで出てくるとはどういうことなんだ……?
何より怖いのは、キマイラよりも更に強い人間がこの領地に住んでいるということである。少なくとも二名。アルバンとハインリヒさん。あとひょっとすると騎士団の偉い騎士の方々も怪しいので、もしかしたらもっと多いのかも知れない。なんだこの土地は。どうかしている。
「そのハインリヒさんは今どこに?」
「もう現場に向かってるって」
「……なら大丈夫じゃないですか? 予定通りに視察しましょう。住民の方々の安全確保も気になるところですし」
「え〜? まあ、確かに……現場に着いたらもう終わってる可能性も高いけど……どうしようかな?」
「ん」
ここで、私の護衛に付いてくれていたニーナが挙手。
おお、ピシッと肘を直角にしてかっこよく挙手している。
最近のニーナは戦闘能力だけじゃなく、言葉遣いや礼儀作法、立ち居振る舞いも成長しているし、色んなことを頑張っていて本当に偉いなぁ。
「キマイラ狩りに行きたい」
と、思ってたら後ろにひっくり返りそうになった。
ニーナ、あなた……単騎でグリズリーを仕留めたことに飽き足らず、キマイラの討伐実績まで欲しいというの? まだ十一歳なのに?
「ニーナは、どうしてキマイラの討伐がしたいんですか?」
「これまでちゃんと仕留めた大きな魔獣はアーヴァンクだけだから、アーヴァンク殺しのニーナ、じゃなくて、キマイラ殺しのニーナって呼ばれたい。アーヴァンクは嫌だ」
「あぁ、はい……なるほど。確かに、アーヴァンクよりはキマイラの方が良いですよね?」
ダンジョン産のアーヴァンクでも相当な手柄だけど、確かにあの個体はあらゆる意味で最悪だったし、上書きしたい気持ちはわかる。
大きな討伐実績のある騎士はナニナニ殺しのダレソレ、とかよく呼ばれたりもする。ニーナに関しては現時点では大物だと魔獣はアーヴァンクだけ。ただし、騎士の叙任の日に巨大なグリズリーを仕留めたので、それがセットになったせいでか今のところ「熊殺しのニーナ」と呼ばれる率が高い。
ニーナ自身にとっても、実父の死の原因となった熊を一人で仕留めるというのは一つの大きな壁だったようだし、本人も熊殺しと言われるのは嫌ではないようだけど、まあ、その……セクハラ青ビーバーのことを延々と掘り起こされて思い出さざるを得ないのは嫌だよね。
だったら当然、アーヴァンクよりも圧倒的にキマイラの方が良い。キマイラだったら誰でも知ってる超有名超凶悪な魔獣の代表格。キマイラ殺しの称号だったら箔が付くし、理想的ではあるだろう。
でも、流石にちょっと、十一歳の女の子にキマイラ討伐は早過ぎやしないだろうか?
いやもうニーナは騎士だし、普通の女の子と同じに扱うなと言われれば答えに窮するしかないのだけれども。
「水属性なら上手くやれば爆炎魔法に対抗出来る。ミトンが居れば氷魔法が使えるだろうし、確かに練習としては悪くないな」
「えぇ、でも……危ないんですよね?」
「うん。危ないけど、ミトンも居るし平気じゃない?」
「ミトン……こんな可愛い猫ちゃんなのに、そんなに強いんですか?」
ノリでミトンを抱っこ。
きゅるるん、というキメ顔で喉をゴロゴロ鳴らすふわふわの命。かわいい。あったかい。なんとも言えない良い匂いがする。が、重い。ずっしりくる。手首が折れそう。
「うん。ケットシーは強いよ。そもそも、そのサイズでその魔力保有量の生き物って殆ど居ないからね。その気になったら空気に溶けられるのもそうだし、体が小さい風属性の魔獣だから、回避能力が高いんだ。キマイラと戦って勝てるかどうかは分からないけど、魔力切れでも起こさない限り、殺されることはまずないだろうね」
「ミトン、あなた……そんなに強いのに、いつも全然魔力が漏れ出ていないの、凄いですね?」
ニャーン。ゴロゴロゴロゴロ……。
さあ喉を撫でろとばかりに要求してくるミトンは最高に可愛い。私は魔力無しの虚弱なので、他の生き物の魔力にも敏感なのだけれど、ミトンからチクチクした魔力は一度も感じたことがない。
「ケットシーは普通の猫のフリをして人間と共存する生き物みたいだから、完璧な魔力制御も生存戦略の一つなのかもね」
「なるほど……ミトンは撫でられるのも褒められるのも大好きですもんね?」
うふ。なんて顔をして、私の頬にすりん、と頭を擦り付けてくるあたり、あざとい。この猫ちゃん、自分が可愛いのわかってやってる。
それと……これまであんまり考えないようにしていたのだけど、ミトンこれ、どの程度かは分からないけど、人間の言葉とか会話を理解してるな?
更に怖いのだけど、ミトン、人間の身分差とか関係性とかも理解していて、狙って甘えたりなんだりしているっぽいからその、なんていうか……やっぱり魔獣なんだな……! と思ってやや怖いのだけど、でも、ゴロゴロ喉鳴らしてトロリンチョとウットリしているあたり、本気で無害だからなんか、まあいっか! という結論になってしまうぜ。
今日はほぼノーメイクだったし、ミトンの頬にキス。うーん、かわいい。ミトンはずっしり重くてもう手首が限界。身勝手な人間のキャッチアンドリリースにも動じず、尻尾を立ててご機嫌である。いつもご機嫌でいい猫である。
「とりあえず、やってみても良いんじゃないかな?」
「でも、心配です。アルバン様、いざとなったら……。」
「いいよ。確かにこの歳でキマイラ討伐はなかなか無いし、僕が監督しようか。まあ、今から行ったら、着いた頃には他の誰かが仕留めてるかも知れないけど」
「ええと、私も付いていって良いんですか?」
「良いよ。というか、思ったんだけど……キマイラってさ、結構足が速いし移動距離も長いんだよね。無いとは思うんだけど、僕やニーナ、それに他の主力の奴らが居ない状態でこの屋敷が襲われたりしたら、って思うと、ツェツィーリアにも一緒に来て貰った方が安全かなって」
「確率的安全性を考えた結果だったんですね」
「そう。過去のことを振り返ると、ツェツィーリアが危ない目に遭う時って大抵、僕がガバガバで離席してる時だったし、改善すべきかなって。ここにキマイラが来る確率は低いし、現場に行けば遭遇率は上がるけど……確定的安全性を優先するならそうなるね。僕が居れば、まず確実にキマイラは討伐可能だし」
「アルバン様なら確かにキマイラも余裕ですよね」
ちなみに、確率的安全性というのは事故に遭遇する可能性がどれくらいなのかという観点であり、確定的安全性というのは実際に事故が起きてしまった際にどれくらいの被害に抑えられるのかの見立てのことである。ザックリ言うと大体そんな感じである。戦争とかでもこの概念は使われるが、そうじゃ無い現場仕事に於いても頻出する単語。領主としてのお仕事の際にはそこそこ飛び交っている。
「というか、ツェツィーリアの生活圏内にキマイラ出没の可能性があるの、僕が嫌だからやっぱり付いてきて貰ってもいい?」
「勿論です」
「二転三転してごめんね?」
「いえいえ。でも、それなら子供たちはどうしましょう?」
かわいい我が子たちや、他の使用人の皆さんもその理屈なら心配になってくるが、良いのだろうか?
「それは平気だと思う。赤ちゃんでも命の危機が迫ったら分かるだろうから、癇癪を起こして魔力を暴発させれば本人の命は助かると思う。少なくともアルビレオとアマーリアは平気。どんな魔法になるかは分からないけど、キマイラは死ぬだろうね。まあ……うん。オーギュストには無理かも知れないけど」
「それは……どちらかというと、アルビレオやアマーリアが暴発した際に周囲が被る被害の心配をした方が良いのでは?」
「大丈夫。乳母にもナースメイドにも念書に同意して貰ってるから。“辺境伯家の子供の魔力暴発による事故で死亡した際には取り決められた慰謝料を指定先に送金することで合意する”って」
「だから乳母たちのお給料が破格なんですね!?」
「そう! だから違法性はないよ。ツェツィーリアが準備出来たら出発しようか」
なんてこった。
道理で乳母たちの肝が据わってる訳だ。つまり彼女たちは命掛けの授乳によって荒稼ぎしてやるぜと腹を括って雇われていたということだったのか。なるほど。合点がいったぜ……!
ご領主様の息子や娘、しかも三人も白銀なのに、自分たちの子供と並べてあやして遊ばせて、みんな仲良く子供部屋は毎日キャッキャウフフと賑わっているが、ナースメイドも含め、元から精神的に安定している人々しか居ないからあんな仕上がりだったのか。
アルバンに準備してきてね、と言われたので、お外で活動するのを前提にパンツルック。
いつも通り安心安定の黒。ブラウスもズボンもシンプルな形のものをチョイス。その上から、まだ寒いのでベスト。更にナポレオンジャケット。ブーツも履いて、最後に上から火竜の翼膜で作ったローブ。水を弾くので本当なら雨の日用とのことだったが、風も通さないので暖かいから使わせて頂く。
お着替えして準備を終えたらアルバンと合流。
「お待たせしました」
「待ってないよ。ああ、今日はそれ、新しく出来上がった服? ツェツィーリアはレースか、ラフな服ならフリルのイメージが強いけど、そういうシンプルでかっこいい服も似合うね」
「実はその……こんなにいきなり軍制が終わるとは思っていなかったので、アルバン様の軍服に寄せたデザインで作って貰ったものなんです」
「えっ、そ、そうなの……? 嬉しいな。かわいいし、うん、凛としている。君はその、若く見えるし、綺麗なんだけどかわいい顔立ちだから、軍服に似せたデザインでも、あんまり厳しく見えないから、とても良いね」
「ありがとうございます」
おお、好評。
本当は並んだらペア服っぽく見えて、かつ軍服とは規定上被らない感じで作って、という無茶を言ってデザイナーさんに頼んでいたものだから気に入って貰えると嬉しい。アルバンが照れてドギマギして、私のことを見てくれて満足。
お揃いになれなかったのは残念だけど、私は大好きなアルバンから可愛いとか思って貰えればそれで良い。
嘘です。
アルバンから褒め言葉、無限に浴びたい。
とはいえ、そんな明け透けなことを言ったらあんまりよろしくないし、褒められたいならまず褒めねばならぬのが世の道理。人によると言ってしまえばそれまでだが、少なくともアルバンは常に釣った魚に餌を絶え間なく与え続けるマメな人なので、お互いに「好き」をばんばか投げつけあっていきたい。ずっと。
「ニーナはまだですか?」
「いや、ミトンと一緒に先に馬で出発したんだ。キマイラの目撃情報があった森の方から狼煙が上がっているのが見えたからね。誰かが発見したって合図だから、狩られる前にって急いで行ったよ」
「そうだったんですか。なら、私たちが着く頃には終わっているかも知れませんね」
「そうだね」
いつも通りエスコートされて馬車へ。
てっきり、アルバンの馬に乗って行くのだろうと思っていたからついズボンに着替えてしまったのだけど、これならドレスのままでも良かったかも知れない。
「……えっと、あの、ツェツィーリア?」
「どうしました?」
「こっちに来てくれない? 出来ればで良いんだけど……君を抱き締めたい」
はい喜んでーー!
ちょっと遠慮がちに提案してくれたアルバンの照れ、やはり良い。かわいい。おうおう、ムチムチでムキムキの男が照れてんのか。
いや、好きだが?
即座に立ち上がって、軽く足を広げてくれたアルバンの右太腿の上に腰掛けてみる。背中をそっと優しく手を添えて支えてくれるところ、優しい。
「この服、そんなに気に入ったんですか?」
「うん。なんていうか、その、デザインも良いんだけど……君が僕とお揃いにしようと思ってくれたのが嬉しいんだ」
ぎゅ〜。指を絡めて手を繋いで、ちょっと強めに握られる。うっ、指の根元に圧迫感。
「すみません、手が……ちょっと強いです」
「えっ!? あっ、ご、ごめんね! 痛かった?」
「痛いまではいかないのですが、ちょっとだけ」
「け、怪我してない? 大丈夫?」
「していませんよ。大丈夫です」
アルバンは心配性なので、私に怪我やさせてやしないかとワタワタしている。かわいい。なんだこの力強く繊細で心優しい生き物。
手袋外してほら平気ですよと無事なことをアピールして、やっとホッとしている。
嫌いになっていませんよ、好き好きチュッチュッと傷のある方の頬にキスしたらようやく緊張していた肩の力が抜ける。
真面目で心配性だと大変だなぁと思うものの、でも、私はアルバンのそういうところが好き。
「良かった。君に怪我なんてさせたらと思うと……!」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃない。君の体重は僕の三分の一しかない。厳然たる事実として、質量も骨格もまるで違う個体だから、君は僕と触れ合っている時に痛かったり怖かったりしたらすぐに警告しないと危ないし、怒るべきだと思う」
「うーん、難しいですね? アルバン様は指摘したらすぐやめてくれますし、これまで怖いと思ったことはほぼ無いので」
「ほぼってことは、あるにはあるんだね?」
「ええ。でも、結婚の顔合わせの時の話ですよ?」
今はもうすっかり見慣れてしまったけど、何の予備知識もなしにいきなりこんにちは、でこんなに背が高くて分厚くて強そうな上に顔に凄めの傷がある人が現れたので、正直その時だけちょっと怖かったというか、びっくりはした。懐かしい。
「ツェツィーリアはさ、なんていうか……僕に対して、警戒心が無さ過ぎるんじゃない?」
「警戒する必要がないので」
ちょっとアルバンが何言ってんのか意味が分からない。
本気で分からなかったのでアホの顔をしていたら、アルバンの方が急に「あ〜、好き!」と言って、両腕使って密着するタイプのハグをされてしまった。あくまでもソフトにだけど。
ーーと、道中そういう遣り取りをして、とても平和に仲良く愛情確認をしていたのだけれど。
これはちょっと、想定外だった。
「ツェツィーリア!」
現場に着いて、先にキマイラを倒しに向かったというニーナを追いかけようかと、アルバンと会話しながら森を歩いているところだった。
騎士の一人がやって来て「実は他国からの旅行者が止めるのも聞かずに森の奥に入り込んでしまって……。」などという報告をしてきたので、アルバンはその部下の話を聞いているところだった。
私は大変ですね、なんて適当にゆる〜く、相槌打って、それで……近くの茂みがガサゴソ揺れていた。
報告しに来た騎士が去っていって、アルバンが地図広げて確認している所だったので、ぼんやり呑気に待っていたところで。
あ、また別な騎士が報告に来てくれたのかな、なんて思っていたら、人じゃなかった。
突然のグリズリー。
顔に傷を負っていて、息が荒くて、私は咄嗟のことに声も出せなかった。
顔が大きい。私の上半身を一口で齧り取れるだろう。
きっとグリズリーの方も私と遭遇してビックリしていた。
だから、カチンコチンに固まった私より先に、熊の方が動いた。私は見るからに弱そうだけど、人間だし、グリズリーにとっても人間は驚異だから、当然、生き残るために殺そうとする。
熊が動こうと、立ち上がろうとしたその気配に、アルバンが私より先に気が付いた。
ゴシャッ。
なんだか生々しい、硬いものと、それから水っぽいものが同時に壊れる音がした。砕けて、弾けて、それで、目の前の獣の頭が赤とか黄色とか白とか、そういう出鱈目に塗りたくった絵の具みたいに見えた。
アルバンが必死に、私の名前を呼んでるなって、聞こえて。
呼んでるな、って思った時には、もう、ビチャ、なんて私の頬に血だか肉片だか分からないものが飛び散っていた。
呼ばれたのだし、と思って振り向くと、必死の形相の、それこそ、今にも死んでしまいそうな顔をしたアルバンが居て、右腕を突き出すような形で立っていた。
「だっ、だ、だ……だっ、大丈夫!?」
つい、口を半開きにしたままだったことに気が付いて、閉じて、それから、自分が死に掛けた訳でもないのに、ガクガク震えそうなほど焦って必死なアルバンを見上げた。
私の無事を確かめるように、覆い被さるようにして至近距離で見詰めてきている。
太い腕の先、私に優しく触れる大きな手は血に塗れている。
普通じゃない。
グリズリーの頭蓋骨は分厚い。槍でも滑って刺さらず、皮だけ裂いて弾くことがあるとも聞いた。それを素手で砕いた。
魔法ならまだわかった。小規模な爆炎魔法とか、そういう爆発させるような系統の魔法ならこの結果は当然だけれど、でも、アルバンはそれを素手でやった。
人間の範疇を超えている。
思えば、前から変だった。私に触れる時に、しつこいぐらい、痛くはないか、怪我はしていないか確認する。心配する。それに、王宮でのあの、謁見の間での出来事。鉄の鎖と手枷を壊していた。あれも、魔法を補助として使っていなかったのかも知れない。
明らかにおかしい。
でも、今は……目の前で、今にも泣き出しそうな顔をしながら私を見詰めて、恐怖によって、はー、はー、なんて息を乱しているこの人を、まずは安心させたかった。
「はい。大丈夫です。怪我もありません」
笑って返したら、アルバンは前に突き出したままだった拳を下ろした。だらんと力なく下げて、それから、ゆっくりと息を吐いた。
それから「信じられない」というような顔をした。
……うん、これさては、私が無事かどうかを心配しているのと、ビックリしたのと、ついでに怖がられて嫌われると思っていたんだろうな。
舐めるなよ。
これぐらいでもう嫌いになる訳がない。
確かにビックリはしたし、背後でグリズリーは大変グロテスクな状態になってはいるのだろうけれど、でも、アルバンが助けてくれたのだって分かっているし。いわば命の恩人。魔力なしのよわよわ人間なので、守って頂けて大変有り難い。
素手で仕留めたことには正直ドン引きではあるし、理由を問い詰めたくはあるものの、でもアルバンの方が心をぐちゃぐちゃにされているのは見て分かったので、とりあえず無事だよ元気だよ、で笑っとけ!
「ょ、よか、よかった……。」
へにょ、とアルバンの眉が下がって、片方の目からポロッと涙が溢れた。
ああっ! アルバンが泣いてしまった!
可哀想に。びっくりしたんですよね?
うーん、この人、本当に愛情深くて繊細で、優しいんだよね。愛する妻たる私が危ない目に遭ったので、とりあえず安心して涙が出たのであろう。
「け、怪我、怪我は……? か、顔。血が……!」
「返り血です」
「僕、加減が出来なくて。必死で。ほ、骨を砕いたから、骨片が飛び散って切れたり、とか」
「私の主観ではどこも痛くはないのですが、アルバン様はそれだと安心できないですよね? どこか落ち着ける場所に移動して、チェックして頂いた方が良いですか?」
とりあえずアルバンがこの上なくテンパっているので移動して仕切り直そう。そうしよう。
戦略的撤退!
うんうん怖かったですよね、私もびっくりしました、なんて言って、一旦来た道を戻ろうと、ノロノロ二人で歩き出したところで、急に槍が飛んできた。
とはいっても、やっぱり私の動体視力などたかが知れているため、何か飛んできたなとしか認識出来なかった。
が、その飛来物がアルバンの顔を狙って放たれたことは分かった。それとほぼ同時に、私の前に土の壁が現れて、誰かに肩を掴まれて、強制的に後ろに引かれた。
「ひ」
バランスを崩して尻餅を着きそうになったところ、そこを誰かに抱き留められた。
「あんた、大丈夫か!?」
知らない男性が、何故だが必死の形相で私のことをキャッチし、かつ、投げた筈の槍を、土魔法で地面を操作して刺さった場所の地面をうねらせるようにして動かし、スピーディーに回収していた。
えっ……あの、どちらさまですか?




