【158】辺境伯邸はこの世の楽園
「なんっっっっにも出なかったわね!」
「なんっっっっにも出ませんでしたね!」
帰りの馬車の中で、ファイルフェン子爵夫人カテリーナと、ファイルフェン子爵令嬢マヌエラは正直すぎる感想を吐き出した。
「しっかり対・高貴な方用媚びを媚びと悟らせない御機嫌取りスキルをマヌエラさんにしっかり仕込んだというのに……全くの無駄でしたわね!」
「ええ、本当に」
カテリーナは社交のプロフェッショナル。
言いたい放題、やりたい放題やっているキャラで通してはいるものの、ギリギリ許されて、かつ親しまれる発言と行動しか取らず、敵対する家相手にしあ嫌がることはしないし、なんなら嫌味で返すにしても礼儀に則った上での反撃をこなすことに長けているのがカテリーナである。
特に突出したものがないのがファイルフェン子爵領。
運営も家格もまあ無難。悪くはないが取り立てて良い訳でもない。北のお隣フリートホーフ辺境伯家に比べたら霞みまくっており、王都近郊の人々に関しては「ファイルフェン子爵領って西側だっけ東側だっけ?」ぐらいの認識しかされていない。
そんなファイルフェン子爵家にとって唯一の売りがカテリーナの社交スキル。
家長であるマリウスもそこはしっかり把握しており、妻のカテリーナの尻に敷かれつつも楽しくやっている。まあ、そもそもマリウスとカテリーナも仲良し夫婦であり、お互いに好き同士であるというのが大きい。
が、しかし、夫のマリウスがやや積極性に欠ける反面、カテリーナは野心家だった。それはもうやる気満々だった。
なので、カクトゥス伯爵家を見限ってフリートホーフ辺境伯家に付こうと決断した後、カテリーナは即座に行動を開始していた。
妊活である。
ファイルフェン子爵家に嫁いでのち、カテリーナは二度の流産を経験している。原因は不明であったものの、夫のマリウスはこれを疲労のせいだと考えた。カテリーナは婚家であるファイルフェン子爵家を盛り立てるために結婚直後からマリウスと共に、今日はこちらのお茶会へ、明日はあちらのダンスパーティーへ、と飛び回っていたからである。妊娠が発覚したタイミングでは休むこともあったものの、カテリーナは今が大切な時期だと言って、社交を余り減らさなかったのである。
加えて、早く世継をとカテリーナ自身が考えていたのもあり、立て続けに二度の妊娠と流産という結果になってしまったのだが……そこで、マリウスから数年ほど置いて再チャレンジすることにしよう、と提案したのである。
やる気満々で負けず嫌いで、ガンガン行こうぜなのがカテリーナ。当然、私いけますわやりますわ、とマリウスに反論したが、優柔不断でも一番大事なところは梃子でも動かないのがマリウスだったので……結果カテリーナが折れた。
その後も、ことを始めるのはカテリーナで、普段はそちらが方針決定するものの、ストップを掛けるのはマリウスということが多く、このパターンが定着化した。大体に於いて頑固者モードに入ったマリウスは間違っていなかったし、普段はちょっと頼りない夫が頑として譲らない姿に、カテリーナが内心ちょっとときめいていたのもあって、この夫婦は上手くいっていた。
そうした前提があって、二年ほど社交だけに専念した後に、カクトゥス伯爵家を見限ってのフリートホーフ辺境伯家への接近であった。
フリートホーフ辺境伯夫妻は余り社交が好きではなかったので、昨年のイベントとしてはまずファーストコンタクトであった二家のみのお茶会、次に北方の九家を招いての狩猟大会、最後に王妃殿下始め王族の方々をも招いての狩猟大会。以上。それのみであった。
確かにフリートホーフ辺境伯家の狩猟大会は大規模ではあったものの、カテリーナからしてみれば、あんなイベントを盛り上げるなどお茶の子さいさい。そもそもあの狩猟大会はシステムとして参加者が不快になるような要素が極限まで削ぎ落とされているし、フリートホーフ辺境伯夫妻が真面目で、かつ性格が大変よろしく、頑張って周囲にそれなりに気を配るタイプであるため、成功しない方がおかしいのだ。確かに何名かクセのある人が参加してはいたものの、嫌われ者のカクトゥス伯爵家をフォローしまくってきたカテリーナからするとあんな社交は楽にも程がある。おまけに開催の回数がカクトゥス伯爵家の時よりも圧倒的に少ない。カテリーナのスケジュールにもかなり余裕が出来た。
勿論、他家の主催する集まりにもそれなりに参加してはいたが、最優先すべきフリートホーフ辺境伯家のイベントが少なくて上質で楽で、なんならカテリーナも普通に楽しみまくれた。
丸一日休みという日が増えて、体調も万全。
そうなると、妊活を再開しない理由はどこにもないのだ。
加えて、カテリーナはどうしても、今このタイミングで子供を産みたかった。
辺境伯夫人ツェツィーリアは、既に後継となる男の子を産んでいる。
一年遅れにはなるが、今産めば、その子と歳が近い。貴族の子供は例外なく、いずれ王都のアカデミーに通うことになる。学友になれるチャンスがあるのだ。
加えて、このまま上手くいって子供同士で遊ばせる場面が生まれたらもっと良い。幼馴染になれたら最高だ。フリートホーフ辺境伯家には莫大な財産があって、二代、三代とボンクラが続いたとしても倒れないだけの経済的な体力がある。ファイルフェン子爵家の未来のためにも、もし生まれてきたのが男の子ならば、ぜひあちらの嫡男と友達になってほしい。女の子だったとしても、幼馴染というポジションに収まれば、嫁入りも現実的なラインに乗る。それだって、その子の幸せのためには悪くない。舅はあのアルバン、姑がツェツィーリアなら、まずいびられることはないだろう。何より、一生食うには困らない。
そんな訳で妊活を開始したカテリーナだったが、そう思う通りにはいかなかった。望んでいても案外、すぐには子供を授からないもの。このままでは年齢差が開いてしまう、と焦っていたが……蓋を開けてみれば、ツェツィーリアがカテリーナより先に第二子を妊娠。おまけに双子だったので、第三子まで出産。フリートホーフ辺境伯家は長男次男長女という三人兄妹を得たため、カテリーナが産む子は男女どちらでも幾らでもやりようがあるという、大変都合の良い展開となったのだ。
ツェツィーリアに遅れて妊娠したカテリーナは、期待が確信に変わった瞬間「よっしゃあ!」と叫んでガッツポーズをした。
だが、子供が出来たとて、まずツェツィーリアとより親しくならねば取らぬ狸の皮算用。
悪阻でグロッキーな状態のまま寝込んでいたカテリーナだったが、ツェツィーリアから「直々に昼食会へいらしてくれませんか?」という手紙を貰った瞬間に「這ってでも行く」とズルズルベッドから這いずりながら支度を始めた。
ツェツィーリアにはまだ、これはという取り巻きの貴婦人が居ない。今、その場所に限りなく近い場所に居るのはスマラクト侯爵夫人であったが、あちらはあくまでも夫同士が連携しているからだし、スマラクト侯爵夫人はツェツィーリアと歳が離れすぎている。動きを見るに、フリートホーフ辺境伯家とスマラクト侯爵家は仕事の面での繋がりが第一のようだったし、ツェツィーリア個人が最も親しくしている貴婦人というポジションはまだ空いていた。
あちらもカテリーナをその席にと考えているだろうというのは感触で分かってはいたが……しかし、ツェツィーリアの右腕になる線は諦めた。
ラヴェンデル子爵家が陞爵し、ラヴェンデル伯爵家になったからである。
ラヴェンデル伯爵家の当主であるコンラートは、既にフリートホーフ辺境伯家の当主であるアルバンと親友と言って良い間柄であるという。二つの家の当主が親しい友人となるならば、当然、夫婦揃っての集まりや付き合いも多くなる。おまけに、なんとラヴェンデル伯爵夫人であるモニカは、ツェツィーリアと再従姉妹であるという情報も入ってきた。
モニカのことはカテリーナも知っていた。おっとりした貴婦人であり、カテリーナとはまたタイプの違った社交上手である。年齢は今年で三十歳。カテリーナとは世代も違うため競合しない。同じ派閥に入るとするなら歓迎すべき貴婦人だった。
ツェツィーリアの右腕の位置はモニカに譲るしかないだろう。そもそも、ツェツィーリア自身がガツガツしていない性格だし、おっとりしたモニカの方が合う部分があるだろう。
そうなると、狙うべきは左腕のポジション。
ーー何としてでも勝ち取ってみせる。
と、悪阻で青い顔をしつつも決意に燃えるカテリーナをさしものマリウスも止めきれず、折衷案として妹のマヌエラを同行させた上で、至れり尽くせりのフリートホーフ邸で一泊休まれせてくれるなら……で折れた。
お茶会ではなく昼食会ということだったので、規模は分からないものの、改まった集まりなのだろうとカテリーナは考えていた。
他にどんな参加者が居ようが、今回で左腕としての地位を確固たるものにしてみせる!
そう決意して、悪阻でグロッキーになりつつも、付き添いであるマヌエラをビシバシ教育して付け焼き刃とはいえ社交スキルを叩き込んだのである。
当然、カテリーナの持つ社交スキルの全てを伝授するのはこの短期間では不可能。なので、ヤマを張った。
なんとびっくり、フリートホーフ辺境伯アルバンはドラゴンスレイヤーだったのです!
しかもそれを隠していたのみならず、冤罪をかけられたアルバン卿を救うため、妻であるツェツィーリア夫人が騎士団と火竜の首を伴って王宮に参内したのです!
これまで、カテリーナの目から見ても火竜の討伐とその隠蔽をしていたとは思えない程にそれを匂わせなかった辺境伯夫妻だが、流石に自慢の一つや二つはしたいだろう。そう考えて、媚びを媚びと悟らせず気分を良くするための会話術をマヌエラに叩き込み、カテリーナ自身も備えていたのだがーー。
蓋を開ければ、参加者はカテリーナとマヌエラとモニカだけ。
しかも、カテリーナが妊娠中と分かると、女主人であるツェツィーリア自ら温室へと案内し、カテリーナを先に座らせたのだ。
この時点でカテリーナの頭の中では勝利のファンファーレが鳴り響いていた。
しかし慢心してはいけない。油断は許されない。会話でツェツィーリアを気分よくさせてより気に入られ、カテリーナの、ひいてはファイルフェン家の地盤をしっかり築くのだ。
さあ来い自慢話!
……と、構えていたのだが、ツェツィーリアもモニカも出産したばかりだったので、怒涛の妊娠&出産トークが続いた。
ツェツィーリアは善良な人間だったので、カテリーナの体調を心配していたし、飲食物も変更するように指示出ししていた。昼食会だったのでメニューの大幅変更も余儀なくされただろうに全く嫌そうな態度を見せず、本当にずっとただの雑談と情報交換をしていた。妊娠や出産に関しての話はとても参考になるものだったのでカテリーナも有り難く聞いていたが、いつまで経っても自慢話が来ない。
途中、久しぶりに食欲が刺激されたのもあって、肉と芋の誘惑に流されたりもしたものの、カテリーナは自慢話来い! と心の中でまだ臨戦体制だった。
モニカの方も自慢話のターンが来ないのが気になったのか、さり気なくエリクサーのことを話題に出すよう誘導していたが、ツェツィーリアは「双子の出産のために使いました」だけで終わっていた。
ここで、カテリーナは悟った。
ツェツィーリア様、本気でもう自分の功績に興味がないんですわねこれは……!?
ほぼ同時にモニカも内心で衝撃を受けてはいたものの、どちらも社交に長けていたので、ひとまずそれを受け止めた。受け止めたのだが。
えっ、あの事件を全く自慢しないんてことある……!?
正直な気持ちとしてはそんな感じであった。
自慢しないまでも、普通なら、あんな長距離を頑張って移動して、大変な苦労ののちに話題の中心になったというのなら「聞いて!」となるものではないだろうか?
とは思ったものの、ツェツィーリアは本気で興味がないらしく、何故だかアカデミーの寮についての話を聞きたがった。
妊娠出産子供の話が続いていたので、カテリーナもモニカも「気が早いけど、お子様の入学後のことを考えているのかな〜?」と思っていたのだが、どうにもやたらと詳しく細かく知りたがっているので何故かと確認したところ、国王陛下と議会から直々に依頼を受けて、国内初となる女子校を作るように頼まれたんです、などと言い出したものだから、カテリーナもマヌエラもモニカも紅茶を口からコポォと溢しそうになったが、ギュッと唇を引き結んで「だから何で自慢をしないーー!?」と思った。
こういうのはテンプレとして、実際名誉なことであるし、程度はともかく自慢話から始まって、そこから寮生活について教えて下さいと続くものなのだ。
が、ツェツィーリアはちょっと恥ずかしそうにしながら「私は学校に通ったことがないので」などと言っているのである。
カテリーナは正直なところ「ツェツィーリア様が学校に行っていないとかこの世のバグですわよ!?」とすら思っていたが、ツェツィーリアは本気の本気でアカデミーに行けなかったのがコンプレックスらしいし、その気持ちは分かったので突っ込みにくい。
だが、逆に言えば、これはチャンスである。
ツェツィーリアが新たに作る学校は国内初の女子校。おまけに、忌憚ない率直な意見が欲しいから、ツェツィーリアはカテリーナとモニカを選んだのだ。既に人選の段階で、ツェツィーリアは右腕と左腕を選んでいた。ここでしっかり貢献しておくことには大きなメリットがある。
ツェツィーリアは自分の自慢話をしないが、他人を褒めるのにも躊躇がない。問われれば答える。これこれこうでこうしました、誰それがやって下さいました。ここで協力しておけば、のちのち、頼まずともツェツィーリアの性格なら自分からカテリーナやモニカのことを話してくれるだろう。彼女は手柄を自分一人の成果にしようとするほどケチな人間ではないことは既に証明されている。
けれど、焦ってはならない。
ツェツィーリアは並の貴婦人ではない。
カテリーナには領地を治めるために必要な執務能力がない。アカデミーにも二年しか通っていない。情報の精度や量なら、卒業まで通ったというモニカの方がよっぽどだろう。しかし、だが、貴族令嬢における多数派はカテリーナだ。他の、ごく普通の貴婦人、ごく普通の令嬢としての視点で話せるのはカテリーナだけだ。
見栄を張ってはならない。
誇張をしてもならない。
求められるのは素直な感想と記憶の供出だけ。
それは普通の社交より、よほど難しい。
ツェツィーリアはメモを取り出して熱心にそれを書き留めた。
それはこれまでにない体験だった。
カテリーナは、というか、大半の貴族女性は、一から何かを作り出したことがない。
唯一あるとしたらそれは自分が産む子供くらいのものだけれど、それだって、半ば義務のようなものだ。望んで作る訳ではないという人も多いし、カテリーナのように、夫と仲が良くても戦略的な意図によるものだったりもする。
だけど、貴族女性としての義務でない分野で、何かを作ること、事業に対して、微力なりとも関わるのはこれが初めてだった。
仕事というものは、貴族にとっては男性の分野。
それを、ツェツィーリアが任されて、今はカテリーナやモニカが協力している。
楽しかった。
とはいっても、主に話題としては、寮の不便さや食事の質素さについてなど、下らないことばかりだったのだけれど。
モニカもアカデミー女子寮の食事の実情について話したが、やはり世代を問わず内容は粗末なもののようだった。毎度、いつ来ても美食を供するのが辺境伯邸であったから、ツェツィーリアが舵取りをするのであれば素晴らしい食事の食べられる学生寮ができることだろう。
と、思っていたら、帰宅するモニカの見送りの際にアルバンが合流した。
フォーマルな服装をして髪を整えてもいるが、これまでになく態度も言葉も柔らかい。恐らく既に辺境伯夫妻は社交におけるツェツィーリアのバックアップをモニカとカテリーナに任せると決めていたからだろう。
これまでにない笑顔と、おっとりとした温厚な語り掛け方で、カテリーナはツェツィーリアが何故、この顔の半分が爛れた、怪物辺境伯と名高い人の子供を三人ももうける気になったのかを深く理解した。愛妻家というのは既に知っていたが、あれはどうやら社交向けのパフォーマンスではなく、本心からの行動であったようだ。
ゆっくり丁寧な発音で、角の全くない言葉を選んで話し掛けてくるあたり、人として印象が良い。
と、思っていたら……なんと、アカデミーの男子寮と女子寮で、食事の内容や質に大きな違いがあることが判明したのだ。
衝撃的だったが、そちらについてはアルバンからアカデミーに直接問い合わせて確認するとのことで……カテリーナとしては驚くには驚いたが、それよりも、直接は自分に関係ないことなのに、迷いなく確認するとアルバンが言い、引き受けたことにも驚いた。コネがあるのが前提と言ってしまえばそれまでなのだが、しかし「それは正しくないし国のためにはならないから」だけで多忙なところに更に仕事を躊躇いなく増やしたのを見て、これが辺境伯というものか、と感心した。
ファイルフェン家では現在進行形で、当主であるマリウスが文字通り書類の山に囲まれながらヒーヒー言って死にそうな顔をしていた所だったので。
それはそれとして、ドラゴンスレイヤーが目の前に現れたことに改めて驚いていたのだが、おっとりのんびり「ファイルフェン夫人、それでは夕食までどうぞ休んでください。入ってはいけない場所についてはパーラーメイドが案内するので」ときたから驚くしかない。要するに「どこで何しててもいいよ」ということなので。
ツェツィーリアは先程のメモを纏めたいとのことで一旦、カテリーナとマヌエラは二人で休むことになったのだが……端的に言うと、フリートホーフ辺境伯邸はこの世の楽園だった。
どこからともなく、国王陛下でさえもおいそれと通り道から退かせない有り難い幻獣、無害でかわいいケットシーが現れて、足元に擦り寄りお腹を出して構って構ってとサービス。
庭に出れば今度は初春の花が揃えられた美しい花壇の向こうから、ご機嫌に真っ白な犬がワフワフやって来て尻尾を振って懐いてくる。
程よい頃合いで部屋を案内されればファイルフェン家の夫婦の寝室より家具は少ないが広く日当たりの良い部屋に通され、さり気なく用意されたピッチャーの水には輪切りのレモン。
夕食の時間には食堂に案内されて辺境伯夫妻と食事だったが、メニューは全て妊娠中のカテリーナに合わせてくれていた。途中、気分が悪くなった際にもアルバンの方からパーラーメイドを呼んで、カテリーナを案内させる場面もあった。こういった席で貴婦人は身分が上の相手から顰蹙を買うのを覚悟の上で自分から席を立つものだが、相手から先に「どうぞどうぞ」とやってくれると気が楽になる。
挙句、口を濯いで戻ってきたら、テーブルに両手の掌を置いた状態のまま、アルバンが立って待っているのを見て気が遠くなった。
古いマナーだし、身分差がここまであれば普通は適用されないが、紳士が貴婦人に対して敬意を払っていることを示すため、途中でやむを得ない理由で離席した貴婦人が戻るまで紳士が立って待つ、というのを天下のドラゴンスレイヤーがやっていたのだ。さしもの社交のプロ、カテリーナもこれをどうしたものかしら、となったのである。
が、アルバンの方は気にした様子もなくツェツィーリアと談笑している。なんなら、マヌエラとも話しているようであり、和気藹々としていた。
「すみません、フリートホーフ卿」
「ああ、いえいえ。ファイルフェン夫人、どうぞ、座って下さい」
「お待たせしているとも知らず、長く離席してしまいましたわ」
「とんでもない。ファイルフェン夫人は、妻の大切な友人ですから」
まさかの辺境伯自身から「妻を裏切るなよ」の釘まで刺された。圧を掛けているつもりらしいのだが、方向性もタイミングも全て盛大に間違えている。むしろカテリーナにとっては有り難いばかりなので、胸を張って「勿論ですわ!」と回答までした。
加えて、ツェツィーリアはしなくとも、流石に火竜を仕留めたのだからアルバンは自慢話をするだろう、と構えていたのに、全くなかった。
むしろカテリーナの方から「討伐した火竜の名前が決定したそうですが〜」と話題を振った程。
だというのに、アルバンの方は軽く「ああ、そうみたいですね」と言って済ませた。
ツェツィーリアが「竜だけ個体識別名を決めるのって不思議ですよね」とちょっとズレた方に話が飛んでしまい、それに動じずアルバンの方も「竜は災害のようなものだし歴史上で事例を調べる時なんかは名前が決まっていた方が便利なんだ」など、竜や魔獣の雑学の方に話題がシフトしてしまった。
そして火竜の話題はそれが全てだった。
ドラゴンスレイヤーの自慢話を二時間は聞く覚悟でいたが、和やかに食事を終えてすぐ解散。
トドメとばかりに辺境伯夫妻から「お疲れでしょうからゆっくりなさってください」まで言われてしまい、更にパーラーメイドから、大浴場ともう少し小規模なお風呂、どちらがよろしいですかと尋ねられ、詳細を聞くと……なんと、妊婦の体にストレスがあっては良くないから、ということで、特別に王妃殿下も使った豪華で落ち着ける作りの浴室を使えるようにしてくれたらしい。
カテリーナとマヌエラは疲れていたし、大浴場も気になるけれど、折角だし……! と好奇心に負けて後者を選択したのだが、これがまた最高だった。
床も壁も美しいマジョリカタイルで彩られており、浴槽までもがタイル張り。大きな円形の天窓があって、そちらも曇った白いガラスを主としたステンドグラス。灯りは本物の木蓮の木を模したものが浴槽の真ん中に設置されており、大変優美なものだった。
それでいて、人がゆったり落ち着くのにちょうど良い広さであったので、じっくり暖まることが出来た。
寝る前にもメイドたちから「妊娠されておられてるので」と血栓予防のための脚のマッサージがあり、リラックス効果のあるハーブティーとナッツとドライフルーツが出た。
翌日も朝食は暖かい部屋でということで、辺境伯夫妻と温室で。ハムとチーズの盛り合わせ。焼きたての白いパン。新鮮なサラダをレモンドレッシングで。デザートにクレープ生地をオレンジの絞り汁とバターでソテーしたクレープ・シュゼット。
栄養価が高く美味であり、不思議と悪阻も起きなかった。
食事が終わってすぐ、アルバンは執務に戻った。
途中で何か急ぎの仕事があったらしく、見送りはツェツィーリアと、その護衛であるニーナのみとなった。この少女騎士もまた時の人。カテリーナとしては個人的に親しくなっておきたい気持ちはあったが、いつもこの少女はあくまでツェツィーリアの護衛騎士としての姿勢を崩さないため、そこまで欲張るのも良くないだろうと諦めた。
と、そういった出来事があってから、ガタゴト馬車が走り出し、フリートホーフ辺境伯邸が完全に見えなくなってから、冒頭に戻るーー。
「ツェツィーリア様は本当に地位や名誉に興味がないみたいね。変わった方ではあるけれど、ご夫婦揃って身内には甘い。私は既にツェツィーリア様の左腕になったわ。あとは、もう一歩。もうひと押し、もう一人欲しいのよ。マヌエラさん?」
「ええ、分かっております。お義姉さま。ツェツィーリア様の創られる学校が予定よりも早く開設された場合、私はアカデミーからそちらに編入する。それでよろしいでしょうか?」
「その通りよ。マヌエラさん、あなたは私よりもずっと賢いわ。これからはきっと、女性も学問の時代になる。マリウスは何としても説得するわ。マヌエラさんは学校で成績を上げることだけを考えて」
「ええ。分かりました。努力致します。ですが、我が家に、しかも家督を継ぐ目のない私に付いてくれる家庭教師が居るでしょうか?」
「あら? マヌエラさん、私を誰だと思っていて? お友達のツテを辿るのは私の得意分野ですわ!」
「ですが、それならツェツィーリア様にその方を教師役として紹介しては?」
「駄目よ。私は社交は出来てもお勉強はサッパリだもの。より良い家庭教師をまずマヌエラさんのために確保する。でないと出遅れてしまうわ。それに……。」
「それに?」
「あのツェツィーリア様が新しく作る学校よ? 既存の教育の枠には収まらないものになるわ。なら、一般教養をまず先に埋める方が良い。マヌエラさんがアカデミーに居る間にも情報が入ってくる。あちらに居る間に学ぶべきことを先んじて済ませておく方が順序として得よ得!」
「……流石です、お義姉さま」
降参、とばかりに両手を軽く上げたマヌエラに対して、カテリーナはオホホ、なんて得意げに笑ったが、しかし……直後に「うっ!」と言って、馬車を停めさせ……周囲に人が居ない田舎道であったのを良いことに、茂みでケロケロ吐いていた。




