【第27話】『 選択の果てに 』
64.花束の約束【第1章】- The Twilight World -〈第25話〉『 選択の果てに 』
空は鉛色を通り越し、淀んだ泥のように重く垂れ込めていた。広場を焼き尽くす炎の熱風が吹き荒れる中、私の思考だけが恐ろしいほど冷え切っていた。
そこに居たのは紛れもなく、私を10年支え続けたイエラ侯爵であった。
彼は何も言わず、ただ私の盾となって凄まじい衝撃と共に吹き飛ばされ、今、目の前で死人のように動かなくなってしまった。
「…………どう…………して………………。」
私はその場に膝から落ちた。
膝から伝わる瓦礫の鋭い痛みが、これが夢ではないという絶対的な現実を冷酷に突きつけてくる。周囲を満たしているのは、鉄錆と焦げた肉、そしてむせ返るような大量の血の臭いだった。
「…………イエラ……なぜ………………。」
彼はもう死んでしまったと思った。
救えなかったと悟った。怖いという感情すら湧く暇もなく、真っ暗で巨大な喪失感が、真綿で私の首を絞め上げるように全身を支配していく。
肺を満たすのは、鋭利なガラス片を吸い込んでいるかのような激痛だ。呼吸をするという、ただそれだけの生存本能すらもが、今は恐ろしいほどの苦行と化していた。
「…………姫様……。」
びくりと、私の肩が跳ねた。
彼は瀕死の中、破れた臓腑から血を泡立てながら、最後に力を振り絞ったように言った。
「…………?!イエラ………………!!」
慌てて彼の上半身を抱き起こす。
両腕は鉛を流し込まれたかのように重く、指先は震えすぎて感覚がない。私の腕の中にいるのは、もはやこれまでの力強く温かい彼ではなかった。
「……………………良かった………………」
「………………もう喋らないで。」
泣き叫ぼうにも、乾ききった喉からは掠れた呼気が漏れるだけだった。傷口を塞ごうとする私の両手は、止めどなく溢れ出す温かい赤色によって無惨に染め上げられていく。
「…………姫様……また………………会えました…………ね。」
「…………また…………?」
「……あなたがまだ子供の時………………私はあなたにお仕えした。またそのお顔に…………出会えるなんて…………。」
「………………。」
何を言っているの。どうしてそんな、全てを終えるような穏やかな顔をしているの。
「…………姫……様…………あなたは…………私たちの希望………。」
「………………。」
やめて。お願いだからそんな事言わないで。
希望なんてない。私の中にそんな眩しいものは最初から無かった。私に向けられるその真っ直ぐな信頼が、今の私には猛毒のように心臓に突き刺さる。
「…………なんという事でしょう…………。仕える主人に最期を見届けられるなんて…………。こんな…………幸せな…………最期。」
「………………。」
それが、彼の最期の言葉だった。
彼が息を引き取った瞬間、世界からすべての音が消え失せた。
広場を焦がす炎の明かりや喧騒とは裏腹に、イエラの瞳から宿っていた温かな光だけが、音もなく消えていった。
ゆっくりとその目から生命の光が抜け落ちていくのを見て、私は絶対的な無力さと後悔の泥濘に押し潰された。
世界が急速に灰色に塗りつぶされていく感覚の中で、私は自分の腕の中にある、ただの『冷たい肉塊』と化した彼を見つめることしかできなかった。
心が張り裂けそうだった。
声が出なかった。吐きそうだった。息ができなかった。
一秒が永遠のように引き伸ばされたかと思えば、宇宙の果てにたった一人で置き去りにされたような、気が狂いそうなほどの静寂が耳鳴りとなって脳を支配する。
それでも、彼の最期の言葉と、これまで私のために命を散らし、無惨に死なせてしまった部下達の呪詛のような叫びが、脳髄を何度も何度も通り抜けていく。
私に残されたモノなんて何もない。
私が必死に守り抜こうとしたものは、私の手から滑り落ちては血の海に沈んでいった。
生きるべきか、死ぬべきか。ずっと暗闇の中でもがき、悩んできた答えが、今ようやくはっきりと輪郭を帯びた。
私は、死ぬべきなんだ!
私が生きている限り、私がもがけばもがくほど、他の人を不幸のどん底に引きずり込んでしまうだけだ。誰も救えない。何も変えられない。私の存在そのものが、災厄の引き金でしかなかったのだ。
ほんの少しだけ、私にはこの国をまとめられるだけの力があるんだと、愚かにも誤解していた。
あの光へ手を伸ばせば届くのだと信じてしまっていた。だから贖罪のつもりで、血を吐くような思いで世界と向き合ってきた。何度も心を病み、削り、何度も誰かの明日を想いながら、国の王としての立派な振る舞いを常に演じ続けてきたんだ。
こんな無意味な事があるか???
私が積み上げてきたものは全て、最初から何の意味も持たない、ただの滑稽な砂上の楼閣だったのだ。
「…………は……ははは……はははははははは。」
気がつけば、私の口の端が歪に吊り上がっていた。
ボロボロと大粒の涙を流しながら、血まみれのイエラの亡骸を強く抱きしめ、淀んだ天を仰ぐ。
目の前にそびえ立つ巨大で圧倒的な『げんじつ』の前に、もはや私は笑うしかなかった。心の奥底で『パツン』と、何かを繋ぎ止めていた最後の糸が断ち切られる音が響いた。
「…………あははははははははははははは。」
なんにも変わってない。
私の無能さは、昔から何も変わってなかった!
私がどれだけ無知で、無策で、己の身を削って時間をかけても、愛する者たちをただ肉の壁にして生き長らえるようなこんな結果になるくらいなら、いっそ最初から死んだ方がマシだったんだ!
あーあ、きもちわるい!!!!
きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい。
死んじゃえよ。笑うなよ。キモイんだよ。
その悲劇のヒロインみたいな顔が。
うんざりなんだよ。他人に言い訳ばっかの私の生き方が。
「消えちゃえ。ぜんぶぜんぶ消えちゃえ。無くなっちゃえ。」
脳が沸騰するような嫌悪感が全身を駆け巡る。
自分の顔が、王族としての気高い振る舞いが、必死に取り繕ってきた自分という存在そのものが、とにかく死んで欲しいほど憎たらしかった。
自分への激しい怒りすら湧いてくるくらい、ただひたすらに気持ちが悪い。
「しね!!しねしねしねしねしね!!しねぇー!!!」
血を吐くような絶叫が、炎に包まれた虚無の世界に吸い込まれていく。それは誰に向けたものでもない。
生きていることすら許されない、無能で醜い『私』自身への、決定的な死の宣告だった。
◇
風が吹いている。
私の肌に残酷に打ち付ける。
分かっていた。私は壊れたりできないのだと。
私は彼の頭を地面へ置き、剣を抜いた。
「はぁぁああああああああああああああ!!!!!」
次の瞬間、私は竜へ切りかかった。
しかし、竜がひとたび吠えると、その風圧によって私の体は数十メートル後ろへと飛ばされてしまう。
私は壁に打ち付けられ、剣は地面に転げ落ちる。
かつて父が腰に差していた剣。それが今、動けない私の目の前に無惨に転がされていた。
私は再び剣へと手を伸ばした。その手は泥だらけで、汚く、醜く、傷ついていた。力ももう入らない。それでも、何かに動かされて、私は剣に手を伸ばし続けた。
届かなくても、届いたとしても。
鳩が群れでその時飛び立った。
風向きが変わり、世界に太陽の日の光が差し込んできた。
竜の唸り声とは別の、“だれか”の声が私の耳に飛び込んできた。それは少し触れただけで折れてしまいそうな程に細く、しかし胸に直接突き刺さるように強い声だった。
「——今だ。」
最後まで読んでいただき、
誠にありがとうございました。
今後とも、
この作品を完結まで描き続ける所存であります。
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