『アイゼン平原の狂気』
イザークを排し、南部の全兵力と物資を完全に統括したブランガは、直ちに軍勢を北へと向けた。彼の率いる「アクスアルブ義勇軍」は、いまや六千の火縄銃歩兵、三千の超長槍隊、そして新しく編成された二千の軽騎兵からなる計一万一千の精鋭となっていた。
北への行軍は苛烈を極めた。すでに旧都アンチアルマを中心とする北方の領土は、異教の騎馬民族「グラッデェ」の大軍勢勢力下に落ちていた。グラッデェは中央の広大な草原から押し寄せた遊牧騎兵の連合体であり、その総兵力は十五万を超えると囁かれていた。彼らは圧倒的な機動力と弓術、そして恐れを知らぬ狂乱の突撃でアルストラーナ帝国の正規軍を次々と壊滅させていたのである。
ブランガの軍は、焦土と化した村々を駆け抜けた。グラッデェの掠奪によって焼き払われた集落、路上に放置された死骸。それらを見下ろしながら、ブランガの胸中に湧き上がったのは哀れみではなく、純粋な戦慄と昂揚であった。
「良いぞ……グラッデェ。これほどの惨禍をもたらす大軍勢、踏みにじり甲斐があるというものだ」
行軍中、ヴォルフラムが焦りを色濃くして報告に訪れた。「ブランガ、敵の偵察兵と接触した。グラッデェの総大将カザンは、我が軍の北進を知り、全軍の焦点を我々に絞ったようだ。敵の規模は……およそ十万。果てしない馬の波だ」
「十万か」ブランガは冷たく笑った。「ヴェロニカ峠のように狭い谷間があれば容易かったが、この先は広大な『アイゼン平原』だ。遮るもののない大平原で、十万の騎兵が押し寄せる」
「平原で騎兵の大群とぶつかるつもりか!? それは自殺行為だ!」ヴォルフラムが叫んだ。「平原では側面を包囲される。三段撃ちの火縄銃とて、四方から波のように押し寄せられれば旋回が追いつかん!」
「だからこそ面白いのよ」ブランガは甲冑の胸を叩いた。「敵の強みは機動力だ。ならば、その機動力を自ら殺すような『泥沼』を用意してやればいい。ヴォルフラム、工兵隊を呼べ。今夜からアイゼン平原の南端に、巨大な野戦陣地を構築する」
◇
雲が低く垂れ込め、血のような赤と灰色の空が広がるアイゼン平原。夜が明けると同時に、地平線の彼方が黒く蠢き始めた。
グラッデェの大軍勢であった。地鳴りのような馬蹄の音が大地を揺らし、無数の旗印が風にたなびく。彼らは異教の神を称える異様なたけり声を上げ、渡り鳥の群れのごとく見渡す限りの地平線を埋め尽くしていた。その数、十万。対するブランガ軍は一万一千。
ブランガは平原の中央に、数日かけて築き上げた膨大な「馬防杭」と「野営土塁」を背に陣を敷いた。陣の前方には深い空掘が掘られ、掘り起こした土は三段の土塁として積み上げられていた。しかし、それだけでは十万の包囲を防ぐことはできない。
「放てっ!」
先陣を切って突撃してきたグラッデェの軽騎兵一万に対し、ブランガの火縄銃隊が第一射を放った。凄まじい轟音とともに鉛の弾丸が乱射され、突進する馬と兵が次々と薙ぎ払われる。しかし、グラッデェの兵はヴェロニカ峠の過ちを繰り返さなかった。
「敵の正面は固い! 左右に広がれ! 側面から包囲せよ!」
グラッデェの全軍指揮官カザンの号令のもと、無数の騎兵が扇状に広がり、ブランガ軍の左右の側面に旋風のごとく襲いかかった。彼らは馬上から強弩と弓を放ち、黒い矢の雨がブランガ軍の陣地へと降り注いだ。
「怯むな! 第二列、前へ! 側面へ筒を向けよ!」
ヴォルフラムが血汗を流しながら怒号を上げる。だが、平原という広大な戦場において、グラッデェの機動力は圧倒的であった。矢の雨によって火縄銃隊の兵士たちが次々と倒れ、陣形の隙間を突いてグラッデェの剛勇な騎兵たちが土塁を乗り越え始めた。
「ぬおあああ!」
曲刀を振るう異教の騎兵が土塁へとなだれ込み、白兵戦が勃発した。ブランガの誇る超長槍隊が必死に突き立てるが、グラッデェの騎兵は仲間が刺されても構わず馬ごと槍の群れに突っ込み、力任せに陣形を崩していく。泥と血、煙と絶叫がアイゼン平原を完全に覆い尽くした。
「ブランガ! 持ちこたえられん! 側面が破られた!」ヴォルフラムが剣を振るい、迫る敵を斬り伏せながら叫んだ。
ブランガは本陣の丘の上で、全軍の崩壊を目の当たりにしながらも、その瞳から恐れの光を一切発していなかった。むしろ、その口元には狂気を含んだ凄絶な笑みが浮かんでいた。
「見事だ……グラッデェ。実に素晴らしい強さだ」
ブランガは腰の片刃の剣を抜き放ち、赤いマントを投げ捨てた。「ヴォルフラム! 予備の騎兵隊と残存の歩兵を集めろ! これより全軍、敵本陣へ突撃する!」
「正気か!? この乱戦の中で突撃など、包囲されて全滅するぞ!」
「防御で耐えられる規模を超えた! ならば首を取るしかない! カザンの本陣を穿ち、奴の首を挙げる! それ以外にこの戦を終わらせる道はない!」
◇
「ブランガ・オデュヌに続け! 死にたい奴から前に出ろ!」
ブランガは漆黒の愛馬に跨がり、自ら先頭に立って敵の渦中へと飛び込んだ。彼の周囲には、死を覚悟した側近たちと、生き残った軽騎兵、そしてヴォルフラムが続いた。
ブランガの剣は冴え渡り、襲いかかるグラッデェの勇士たちの首を次々と飛ばした。黒色火薬を詰めた手榴弾を敵の密集地帯へ投げ込み、爆風と炎のさ中に突っ込んでいく。
「魔王だ! 黒い魔王が来るぞ!」
凄まじい突破力にグラッデェの兵たちが恐怖に慄き、一時的に道がひらかれた。ブランガの突撃は敵の膨大な陣形を深く穿ち、ついに総大将カザンの本陣へと肉薄した。
カザンの親衛隊が群がり、ブランガの愛馬が倒れるも、彼は素早く着地して地を蹴った。凄まじい剣戟の音とともに親衛隊を薙ぎ払い、ついに総大将カザンと刃を交える。
「我らグラッデェの前に立ちはだかるか、異国の悪鬼よ!」
重厚な大剣を振るうカザンに対し、ブランガはニヤリと笑うと、鋭い踏み込みから一閃。カザンの大剣を弾き飛ばし、その喉元を深く穿ち抜いた。
「このブランガ・オデュヌが、誰かに膝を屈することなど万に一つもない」
総大将カザン討ち死にの知らせは、瞬く間に十万のグラッデェ軍へ駆け巡った。極度の恐慌に陥った敵軍は陣形を崩し、雪崩を打って北へと撤退を始めた。
◇
アイゼン平原に勝鬨が響き渡る。一万一千の兵で十万の精鋭を打ち破るという、歴史に類を見ない大勝利であった。
泥と血にまみれた剣を鞘に収め、ブランガは息を荒らげながら空を見上げた。側には傷つきながらも生き残ったヴォルフラムが立っていた。
「やりやがったな、ブランガ……歴史がひっくり返るぞ」
「ふん、言ったろうヴォルフラム。俺の道は俺自身で切り開く」
北方最大の脅威であったグラッデェは壊滅し、もはやブランガの野望を阻む者はどこにもいなかった。古都アンチアルマの解放、そして帝都ラーナの玉座――若き凄ノ王の圧倒的な覇道は、ここから本格的に幕を開けるのだった。
登場人物一覧
* ブランガ・オデュヌ:都督の庶子である20歳の青年。異国風のベストに片刃の剣を帯び、卓越した戦術眼、兵站の把握力、火縄銃の「三段撃ち」などの革新的な軍制で破竹の勢いを見せるが、孤立無援の中でグラッデェ軍と戦い戦死した。
* ヴォルフラム:上質な羊毛のタバードを身に纏い、大剣を背負う流浪の吟遊詩人であり剣士。ブランガの副官として行動を共にする。
* アラリック:アルストラーナ帝国第14代皇帝(26歳)。若き支配者として憂いを抱えつつ、弟イリアードと共にブランガやグラッデェに対抗する思惑を巡らせる。
* イザーク親王:第14代皇帝アラリックの異母弟で、ボルゲーゼ親王領の君主。逃走中にブランガに救われるが、後にブランガを恐れて殺害を企て、逆に対策されていたブランガの手で誅殺された。
* イリアード親王(セレスティア親王):皇帝アラリックの異母弟で、フェルゼンヴァルデン砦にて13万の軍を預かる。「黄金の獅子剣」を託され、電撃的に補給路を断つことでブランガをアンチアルマに孤立させた。
* リゼリア(『水鏡将軍』):イリアード親王の妻。「遠見の眼」と「魂の潮流を読む力」を持つ異能の持ち主で、フェルゼンヴァルデン砦から戦況を見通し最高指揮権の代理資格を持つ。
* セシリア(『水明将軍』):リゼリアの従妹。リゼリアと共に帝国最高の特権称号を持ち、最高指揮権の代理資格を保持する。
* マートル・フォン・ブライトクロイツ:帝国の「中書令」。前帝の貴妃ソフィアの弟で、名門ブライトクロイツ家の当主。
* ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:帝国の三公の一角である「太尉」。重装甲の鎧を纏った老将で、殺害されたイザーク親王の叔父。
* リヒャルト・フォン・シュタインベルク:帝国の三公の長である「司徒」。太皇太后の兄であり、皇帝アラリックおよび皇后ロザリアの祖父。
* ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:帝国の「尚書令」。リヒャルトの息子で、皇帝の叔父、皇后ロザリアの父にあたり、行政の実権を握る。
* ゲオルグ・フォン・フェルゼン:帝国の「侍中」を務める老政治家。
* ベアトリクス・フォン・オルデンブルク:土木・国家事業を統括する帝国の「司空」。
* ロザリア・フォン・シュタインベルク:皇后。皇太后の姪で皇帝の従妹にあたり、知謀に長けた進言を行う。
* エスゲイ・バール:騎馬民族グラッデェの首領で、「神の鞭」「草原の暴君」と恐れられる老覇王。長男の復讐のため35万の大軍勢を率いて侵攻した。
* カザン:エスゲイの長男(庶子)。15万の軍勢でアンチアルマを攻略するも、アクスアルブ近郊でブランガに敗れ戦死した。
* ベグ:エスゲイの次男(嫡子)。西の大秦国を陥落させた功績を持つ英雄。
* カガン:エスゲイの三男(嫡子)。功名心が強く血気盛んな若武者だったが、アンチアルマ城壁でブランガに討ち取られた。
* カサル:エスゲイの弟で、カガンたちの叔父。大弓の名手である歴戦の勇士。
* タルス:エスゲイの同母弟で、グラッデェ軍の最高宿将(軍師)。アンチアルマの攻城戦でブランガに打ち取られた。
用語集一覧
* アルストラーナ帝国:物語の舞台となる巨大な帝国。内部の腐敗や後継・権力闘争、西方からの異教徒侵攻により混迷を極めている。
* アクスアルブ:帝国南西部に位置する、交易路とレミ川・アシェロン川の水運が交差する繁栄した都市。ブランガが最初に勢力を築いた拠点。
* 古都アンチアルマ:帝国北方の要衝であり文化と繁栄の象徴。グラッデェにより一度落とされたがブランガが奪還し、最後は激しい攻防戦の舞台となった。
* 帝都ラーナ:アルストラーナ帝国の心臓部であり、白亜の城壁と「大理石の玉座の間」を備える宮殿が存在する。
* ヴェロニカ峠:山脈の入り口に位置する山隘。ブランガが火縄銃隊を率いてグラッデェの先鋒3万を退けた地。
* アイゼン平原:遮るもののない大平原。ブランガが野戦陣地を構築し、1万1千の兵でグラッデェ10万を打ち破った場所。
* グラッデェ:中央の大草原を拠点とする広大な遊牧騎兵民族連合。圧倒的な機動力と弓術を誇り、大秦国を滅ぼした。
* 大秦国:かつて文明の発祥地と謳われ不落の城壁を誇ったが、グラッデェによって徹底的に破壊・滅亡させられた西の国家。
* 火縄銃・三段撃ち:ブランガが黒色火薬と鉄を組み合わせて大量生産させた改良型火器と、絶え間なく鉛弾を打ち出すために編み出した革新的な射撃戦術。
* 鉄の砦(移動式鉄砦):馬車に鉄板を張り、銃撃用の銃眼を設けて野戦で即座に陣形を組めるようにブランガが考案した新兵器。
* 黄金の獅子剣:皇帝から賜与される帝国軍全軍に対する絶対的な軍権の象徴たる宝剣。
* 『水鏡』『水明』の称号:戦功により与えられる帝国最高の特権称号。正規軍から無条件で5千の兵を借り受ける権限や、「黄金の獅子剣」の最高指揮権を代理する法的権利を持つ。
* 乾燥蓮根:セレスティア領の特産物で、非常食用に高度な加工が施された高度な保存食。セレスティア側からブランガ軍へ「籠城して春まで生き延びろ」という挑発・蔑みを込めて届けられた。
* 枡形:城門の奥に作られた、高い石壁で囲まれた半円形の殺戮空間。




