『北進の死闘と最期』
ヴェロニカ峠にて異教徒軍の先鋒三万を粉砕したブランガ・オデュヌの名は、アルストラーナ帝国全土に轟いていた。火縄銃の三段撃ちと精密な陣形運用により圧倒的大軍を無力化した若き天才は、自らのもたらした勝利の余韻に浸るどころか、すでに次なる野望の盤面を見つめていた。
彼が次に見据えたのは、古都アンチアルマの解放であり、そして帝国の絶対権力であった。しかし、その足元にはいまだ歪で巨大な障壁が残されていた。ボルゲーゼ親王イザーク――皇帝の異母弟であり、名目上は未だこの南西領域の絶対的君主として君臨する男である。イザークはヴェロニカ峠の危急を救われたものの、武功と民衆の支持を独占するブランガを極度に恐れ、同時に深く憎悪していた。
大都市アクスアルブ近郊の館。ヴェロニカの勝鬨の舌の根も乾ぬうちに、親王イザークからの招宴が届いた。名目は「異教徒撃退の戦功を称える戦勝宴」である。
「ブランガ、行くな」と、流浪の吟遊詩人であり副官のヴォルフラムは引き留めた。
「老豚は追い詰められている。奴の手元には、帝都から逃れてきた重装騎士団の生き残りと、暗殺の毒杯しか残っておらん」
しかしブランガは漆黒の鞘を腰に打ち当て、不敵に鼻で笑った。
「構わん。老いぼれがどのような死に顔を用意しているか、見届けてやるまでのこと。ヴォルフラム、お前は外で三千の鉄砲隊を待機させろ。合図が出れば、館ごと蜂の巣にしろ」
豪奢な大理石の宴会場には、重苦しい空気が立ち込めていた。長テーブルの奥には、肥満した体を金糸の衣装に包んだイザーク親王が座し、冷や汗を拭いながら酒杯を傾けていた。周囲を取り囲むのは、かつて異教徒の前になす術なく逃げ惑い、今やブランガへの嫉妬と恐れに狂う帝国騎士たちであった。
ブランガは長靴の音を響かせて堂々と中央へ進み出ると、礼すら取らずに酒を求めた。イザークは脂ぎった顔を歪め、偽りの笑みを浮かべた。
「よくぞ参った、アクスアルブの英雄ブランガよ。お前の武勇は誠に見事であった。つきましては……この勝利の杯を、皇帝陛下に代わって授けよう」
差し出された銀の杯。その緑がかった酒面から漂う微妙な杏仁の匂いを、ブランガの鋭敏な嗅覚は見逃さなかった。ブランガは杯を受け取ると、飲む仕草をしながらそのまま床へとぶちまけた。強い毒素を含んだ酒は大理石の床を白く泡立たせた。
「ほう……これが親王家の最高の歓待か?」
ブランガの目が漆黒の光を放った。
「知恵の回らぬ老いぼれめ。毒を仕込むなら、もう少し上等の香辛料で消すことだ」
「不敬者めが!」イザークは立ち上がり、悲鳴のような声を張り上げた。
「貴様のような出自も知れぬ野良犬に、アルストラーナの権威が渡せるか! 者共、殺せ! この異端者を斬り捨てろ!」
一斉に鞘走る音。二十人を越える重装騎士が剣を抜き、ブランガへと飛びかかった。しかし、ブランガの動きは彼らの予想を遥かに超えていた。右手の片刃の剣が疾風のごとく閃き、最前列の騎士の喉元を正確に穿つ。血飛沫が舞う中、ブランガは一歩踏み込み、倒れ込む騎士の体を盾にして後続の突きをかわした。
「腰の入っておらん剣撃だと言ったはずだ!」
ブランガは凄まじい脚力で踏み込み、剣を旋回させた。鎧の隙間、首筋、関節を的確に断ち切っていく。狭い宴会館は瞬く間に凄惨な屠殺場へと化した。襲いかかる騎士たちが次々と血の海に沈む中、イザークは恐怖に顔を痙攣させ、館の奥の抜け道へと逃げ込もうとした。
「逃がすか」
ブランガは落ちていた騎士の長槍を拾い上げ、渾身の力を込めて投擲した。唸りを上げて飛んだ長槍はイザークの背中を深く貫き、分厚い扉にそのまま縫い付けた。イザーク親王は絶叫を上げ、口から血を吐いて息絶えた。
館の外に待機していたイザークの残党たちが騒ぎに気づいて押し寄せようとしたが、その時、ヴォルフラム率いる火縄銃隊が一斉に門を破って雪崩れ込んだ。イザークの死体を見下ろしながら、ブランガは血に染まった剣を振り払い、冷徹に言い放った。
「イザークは異教徒の手先と内通し、余を暗殺しようとした罪により誅殺した! これより当軍の全権はブランガ・オデュヌが握る。不服のある者は前に出よ!」
圧倒的な力と決断力。ひれ伏す騎士たちを背に、ブランガは即座に全軍へ命令を下した。
「休む暇はない。北へ行くぞ。グラッデェの本隊を叩く」
登場人物一覧
* ブランガ・オデュヌ:都督の庶子である20歳の青年。異国風のベストに片刃の剣を帯び、卓越した戦術眼、兵站の把握力、火縄銃の「三段撃ち」などの革新的な軍制で破竹の勢いを見せるが、孤立無援の中でグラッデェ軍と戦い戦死した。
* ヴォルフラム:上質な羊毛のタバードを身に纏い、大剣を背負う流浪の吟遊詩人であり剣士。ブランガの副官として行動を共にする。
* アラリック:アルストラーナ帝国第14代皇帝(26歳)。若き支配者として憂いを抱えつつ、弟イリアードと共にブランガやグラッデェに対抗する思惑を巡らせる。
* イザーク親王:第14代皇帝アラリックの異母弟で、ボルゲーゼ親王領の君主。逃走中にブランガに救われるが、後にブランガを恐れて殺害を企て、逆に対策されていたブランガの手で誅殺された。
* イリアード親王(セレスティア親王):皇帝アラリックの異母弟で、フェルゼンヴァルデン砦にて13万の軍を預かる。「黄金の獅子剣」を託され、電撃的に補給路を断つことでブランガをアンチアルマに孤立させた。
* リゼリア(『水鏡将軍』):イリアード親王の妻。「遠見の眼」と「魂の潮流を読む力」を持つ異能の持ち主で、フェルゼンヴァルデン砦から戦況を見通し最高指揮権の代理資格を持つ。
* セシリア(『水明将軍』):リゼリアの従妹。リゼリアと共に帝国最高の特権称号を持ち、最高指揮権の代理資格を保持する。
* マートル・フォン・ブライトクロイツ:帝国の「中書令」。前帝の貴妃ソフィアの弟で、名門ブライトクロイツ家の当主。
* ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:帝国の三公の一角である「太尉」。重装甲の鎧を纏った老将で、殺害されたイザーク親王の叔父。
* リヒャルト・フォン・シュタインベルク:帝国の三公の長である「司徒」。太皇太后の兄であり、皇帝アラリックおよび皇后ロザリアの祖父。
* ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:帝国の「尚書令」。リヒャルトの息子で、皇帝の叔父、皇后ロザリアの父にあたり、行政の実権を握る。
* ゲオルグ・フォン・フェルゼン:帝国の「侍中」を務める老政治家。
* ベアトリクス・フォン・オルデンブルク:土木・国家事業を統括する帝国の「司空」。
* ロザリア・フォン・シュタインベルク:皇后。皇太后の姪で皇帝の従妹にあたり、知謀に長けた進言を行う。
* エスゲイ・バール:騎馬民族グラッデェの首領で、「神の鞭」「草原の暴君」と恐れられる老覇王。長男の復讐のため35万の大軍勢を率いて侵攻した。
* カザン:エスゲイの長男(庶子)。15万の軍勢でアンチアルマを攻略するも、アクスアルブ近郊でブランガに敗れ戦死した。
* ベグ:エスゲイの次男(嫡子)。西の大秦国を陥落させた功績を持つ英雄。
* カガン:エスゲイの三男(嫡子)。功名心が強く血気盛んな若武者だったが、アンチアルマ城壁でブランガに討ち取られた。
* カサル:エスゲイの弟で、カガンたちの叔父。大弓の名手である歴戦の勇士。
* タルス:エスゲイの同母弟で、グラッデェ軍の最高宿将(軍師)。アンチアルマの攻城戦でブランガに打ち取られた。
用語集一覧
* アルストラーナ帝国:物語の舞台となる巨大な帝国。内部の腐敗や後継・権力闘争、西方からの異教徒侵攻により混迷を極めている。
* アクスアルブ:帝国南西部に位置する、交易路とレミ川・アシェロン川の水運が交差する繁栄した都市。ブランガが最初に勢力を築いた拠点。
* 古都アンチアルマ:帝国北方の要衝であり文化と繁栄の象徴。グラッデェにより一度落とされたがブランガが奪還し、最後は激しい攻防戦の舞台となった。
* 帝都ラーナ:アルストラーナ帝国の心臓部であり、白亜の城壁と「大理石の玉座の間」を備える宮殿が存在する。
* ヴェロニカ峠:山脈の入り口に位置する山隘。ブランガが火縄銃隊を率いてグラッデェの先鋒3万を退けた地。
* アイゼン平原:遮るもののない大平原。ブランガが野戦陣地を構築し、1万1千の兵でグラッデェ10万を打ち破った場所。
* グラッデェ:中央の大草原を拠点とする広大な遊牧騎兵民族連合。圧倒的な機動力と弓術を誇り、大秦国を滅ぼした。
* 大秦国:かつて文明の発祥地と謳われ不落の城壁を誇ったが、グラッデェによって徹底的に破壊・滅亡させられた西の国家。
* 火縄銃・三段撃ち:ブランガが黒色火薬と鉄を組み合わせて大量生産させた改良型火器と、絶え間なく鉛弾を打ち出すために編み出した革新的な射撃戦術。
* 鉄の砦(移動式鉄砦):馬車に鉄板を張り、銃撃用の銃眼を設けて野戦で即座に陣形を組めるようにブランガが考案した新兵器。
* 黄金の獅子剣:皇帝から賜与される帝国軍全軍に対する絶対的な軍権の象徴たる宝剣。
* 『水鏡』『水明』の称号:戦功により与えられる帝国最高の特権称号。正規軍から無条件で5千の兵を借り受ける権限や、「黄金の獅子剣」の最高指揮権を代理する法的権利を持つ。
* 乾燥蓮根:セレスティア領の特産物で、非常食用に高度な加工が施された高度な保存食。セレスティア側からブランガ軍へ「籠城して春まで生き延びろ」という挑発・蔑みを込めて届けられた。
* 枡形:城門の奥に作られた、高い石壁で囲まれた半円形の殺戮空間。




