幕間 三間坂雪、中学三年、三月
私はイベント当日でも緊張しない性格だと思っていた。
だけど、高校受験当日というのは、これまで経験してきたイベントとは、どうやら一段違ったようだ。
普段ならまだ寝ている時間に目が覚めてしまった。おまけに、いつもなら二度寝の誘惑になかなか抗えないのに、一度目覚めたらもう一度眠れそうな気配はなかった。
「……昨日早く寝すぎたせいかな」
目覚まし代わりに声を出す。睡眠時間としては問題ない。お役御免となった目覚ましのアラームを切り、ベッドから起き上がった。
とはいえ、できた時間でいまさら公式や年号を頭に詰め込もうとは思わない。もうすでにやるべきことはやりきった。
「……たまには、自分でお弁当を作るとしますか」
手を動かしていれば、頭もとっとと目覚めるだろう。昼には自分のお弁当で自分にエールを送れるし、一石二鳥だ。
私は一階のキッチンへ向かうことにした。
ちくわの穴の両側にマヨネーズを入れ、切ったキュウリを差し込んでいく。
弁当箱に入るサイズに切り揃えればほぼ完成だ。海苔を二重に敷いたごはん、卵焼き、ウィンナーはすでに詰めてある。あとは、このちくきゅうと、ミニトマトを加えれば、中学生が作ったにしては上々のお弁当ができあがる。
そのとき、いつもと違う時間の、いつもと違う番組から、軽快なメロディとともに、「今日の星占い」なんて単語が聞こえてきた。
……まずい。
この手の、根拠もなく人の運命を軽々しく口にするコーナーは好きじゃない。普段なら時間を把握して、その時間にテレビの前にいないようにしているが、包丁を持ったままでは下手に動けないし、チャンネルも変えられない。
せめて半分の六位以上で。
そんなことを願っていたら――
『一位と最下位は最後のお楽しみ! まずは十一位から! 十一位はおとめ座のあなた』
よりによって初っ端から呪いの言葉が降ってきた。
受験当日に、頑張ってお弁当を作ってる女の子に向かってかけていい言葉だろうか、それは。
一位にしろとは言ってない。六位でよかったのに、そんなささいな願いさえ、この局は聞き入れてくれないらしい。
『おとめ座のラッキーアイテムは――』
散々不吉な言葉を吐いたあと、唯一のポジティブ要素をもってきた。占いは信じない。信じないが――呪いよけとして、一つくらい何か持っていてもいいだろう。そう思って、耳を傾ける。
『サイドテールです』
ラッキーアイテムが、サイドテール……? 果たして、それはアイテムなのだろうか?
そもそもショートカットの女の子や、男子にどうしろと?
たぶん、深く考えずに番組スタッフが適当に思いついたワードを放り込んだのだろう。
…………。
せっかくお弁当が完成したというのに、なんだか心が晴れない。
フライパンや包丁を洗ったあと、その足で鏡の前に向かった。
髪は美容室で長めに整えてもらっているが、毎日結んだりくくったりするのが面倒で、そのまま後ろに流したままだ。
試しに結んでみる。
――サイドテール。はじめてやってみた。
別に、星占いに影響されたわけじゃない。
なんというか、気合いを入れるためだ。
実際、サイドテールにした自分の姿を見てみると、案外悪くない。むしろ、戦闘態勢が整ったって感じで、やる気が湧いてる気さえする。
曇っていた気持ちが、いつの間にかすっかり晴れていた。
サイドテールのおかげか、十一位という占い結果に反して、午前中の試験は非常に順調だった。いや、これまでの自分の努力の結果と考えるべきだろう。
受験は運じゃない。積み重ねた努力が形として現れる場なんだから。
午後からは、理科と英語の二科目だ。
朝からつくってきたお弁当を食べて、さらに気合いを入れ直したいところなんだけど――どうにも教室の空気がいただけない。なんというか、ピリピリとひりついていて、とても美味しく食べられる環境じゃない。まぁ、全員が受験生なんだから、そうなるのも仕方がないことなんだけど。
窓の外に目を向けると、校門から校舎に向かう道の両脇に桜の木が並んでいる。もちろん、花なんてまったく咲いてなくて、まだまだ小さいつぼみの状態なんだろうけど。
入学式の日には、満開の桜の間を歩けるのかな。あるいは、もう散っちゃってるのかな。まだ咲いていてくれたら、すごく素敵なんだけど。
そう思うと、今のつぼみのままの桜の木をもっと近くで見ておきたい気になってきた。
――よし。こんな空気の悪いところじゃなくて、つぼみのついた桜の木が見られるところで食べよう。これから花を咲かせようとしている受験生の私と、固いつぼみの桜の木、似た者同士で気が合いそうにも思う。
教室を出て歩いて、よさげな場所を探していると、渡り廊下に出た。ここからなら桜の木が近くてよく見える。近くに、座れそうな段差を見つけ、ハンカチを敷いてからそこに座った。
まだ三月の頭。肌寒いし、お尻も冷たいけど、教室の中よりはずっと気持ちよかった。
見上げると、木の枝にはまだまだ小さいが確かなつぼみがついていた。
「さてと。では、私の渾身の作を広げることにしましょうか」
包みを解いて、膝の上にお弁当を乗せようとして――寒さで指の感覚が鈍っていたのか、お弁当箱をひっくり返してしまった。もののみごとに……。
飛び出て転がっていくちくわを見ながら、声も出せずにただ固まる。
……がんばって作ったのに。
お弁当が食べられなくなったことより、あの作っているときの気持ちがすべて否定されたようで、胸が詰まる。
正直、昼抜きになることは、そこまで痛くはない。ダイエットなんてやったことはないけど、そう思えば一食くらいどうってことない。
問題なのは、この気持ちと、空腹でお腹が鳴りやしないか、ということだった。
昼食のあとの試験で、いきなりお腹を「ぐ~」って鳴らしたりしたら、どれほど食い意地が張っているのかなんて思われかねない。
教室にいる人の中には、クラスメイトになる人だって確率的には何人かいる。入学早々、腹鳴らし女なんてあだ名をつけられたら、高校三年間が初日で終わりかねない。
まずい。それだけは避けなければ……
弁当箱を拾いもせずにそんなことを考えていたら、近くに人影があった。
その人は、転がっていったちくわを拾い上げ、こう言った。
「中のキュウリはまだセーフかもしれないよ」
セーフって……なにが?
顔を上げると、紙袋を片手に持った、見たことのない顔をした男子が立っていた。でも、その顔は冗談を言っているふうではなく、真剣そのもの。
「……あ、だめだ。横にも砂がついてる」
……ああ。食べられるかどうかの話か。
いや、砂がついてなくても、ちくわの中のキュウリだけポリポリ食べる女子ってどうなのよ。
「にゃはは」
つい笑ってしまった。慌てて口元を押さえる。
「お弁当……ダメになっちゃったね」
いまさらそんなことを言ってきた。キュウリより先に、普通はそっちを心配するだろう、普通。
だけど、なぜだろう。お腹が鳴る問題は未解決だけど、気持ちだけは持ち直していた。
「大丈夫。一食くらい抜いたって、死にはしないから」
そう言って弁当箱を拾い上げる。残っていた中身が全部こぼれでた。
「……被害が広がったよ」
笑いながらそんなことが言えた。
ひっくり返って無様に散らばったごはんやおかずを拾って箱に戻していく。その男子は、紙袋を置くと、何も言わず一緒に拾ってくれた。
不思議と、こんなことをしている自分を惨めだとはちっとも思わなかった。
「ありがとね」
そう言って、ウェットティッシュを彼に差し出す。
「ありがとう」
お礼を言うのはこっちなのに。丁寧な人だと思う。
でも、そんな彼は、拭いたあとのウェットティッシュを、どうしようかちょっと悩んだあと、学生服のポケットに入れようとした。
「あ、ティッシュ、もらうよ」
慌てて止める。彼のポケットの中を私のおかずで汚すわけにはいかない。
「ありがとう」
彼はまたお礼を言うと、下に置いていた紙袋を拾い上げた。
親切な彼はこのまま去っていくのだろうか。お礼を言った回数は、私のほうが少ないのに。
そんなことを考えていると――
「……どれが好き?」
彼は紙袋を広げて、その中身を私に見せてきた。
中に入っていたのは、透明なビニールに包まれたパンだった。
「三つあるから、一つならあげるよ。好きなの選んでいいけど……できたらジャムパンは避けてもらえると嬉しい」
どうやら彼はジャムが好きらしい。
「そんなのもらえないよ」
「いや、三個も食べるのは、まずいと思ってたんだ。試験中にお腹が痛くなるとやばいから。残すくらいなら、食べてもらったほうがいい」
どうやら彼はお腹が弱いらしい。あるいは、不器用な親切さを持っているのか。
「残そうと思っていた候補を聞いてもいい?」
「……クリームパンかな」
「じゃあ、クリームパンをもらってもいい?」
「うん」
彼は紙袋からクリームパンを取り出して、渡してくれた。
コンビニに売っているパンではなく、パン屋に売っているタイプのパンだ。
「あの……お金」
「いいよ。それより、試験頑張って。応援してるよ」
そう言うと彼は、踵を返し、そのまま走っていってしまった。
お金も、お礼の言葉さえ受け取らずに。
しかも、「応援してるよ」ときたもんだ。
「……これでも私は、君のライバルの一人なんだよ」
つぶやいたが、彼の姿はもう見えなくなっていた。
どれだけお人よしなんだか……。
段差に座り直して、名前も名乗らず去った男子からもらったクリームパンを口に入れる。
ただのクリームかと思っていたら、口のなかで甘さと一緒にココア風味のほのかな苦味が広がった。クリームの中にクッキーでも混ぜられているのだろうか。
糖分補給と午後から眠くなりそうな頭の覚醒、その二つを同時にこなす、よくできたパンだ。
彼はこのパンなしで、午後の試験を乗り切れるのだろうか。
彼にはぜひとも合格してもらいたい。
だって、私はまだちゃんとお礼が言えていない。
新入生として、もう一度彼と会えたら、そのときは改めてお礼を言う。そして、聞き忘れた名前を教えてもらう。
だから――
「君も頑張ってね」
そして迎えた入学式。
まだ咲いていた桜が舞い散る中、彼の姿を見かけた。しかも、同じクラスだった。
だけど、私はちっとも面白くなかった。だって、彼は私のことを全然覚えていないみたいなんだから。
入学式の次の日からサイドテールにしたのに、思い出しやしない。
最初の席替えで隣同士になれたから、親しげに声をかけてみたら、「え、いきなりなに?」って感じの反応をしてくる始末だ。
……たぶん彼は、困っている人がいたら、相手が誰でも同じようにするんだろう。不器用なりに、一生懸命に。
そして、そんな彼は、一ノ瀬さんにご執心だ。見てればわかる。
一ノ瀬さんは、女子の私から見てもとびきりの美人だ。……まぁ、無理もない。
あの日、彼は「応援してるよ」と言った。同じ受験生で、ライバルの私に。
私はまだ、あれに何も返していない。
……だったら、私が――




