第12話 変更されたラストと頼りになる友人
今日はグラウンドで体育祭の練習ができる日だ。隊列まで全員で合わせられる、数少ない機会になる。
そこで足を引っ張るわけにはいかない。
昨夜も、三人のLINEグループに溜まった動画を見返した。三間坂さんの隣で、相変わらずもたついている俺。前よりだいぶましになった。それでも、まだ足りない。
だから今朝は、いつもより三十分早く家を出た。授業が始まる前に、少しでも身体を動かしておきたかった。
ほとんど生徒のいない廊下を抜けて、空き教室へ向かう。
――音がする。
小さく流れる『剣の舞』。それに混じって、上履きが床をこする音。
先客がいるらしい。
戸の隙間からそっとのぞいて、息を呑む。
一ノ瀬さんだった。
午前中は授業があるのに、わざわざジャージに着替えている。
一人で振り付けをなぞっていた。口元が小さく動いている。声には出さず、カウントを刻んでいるらしい。
一つの動きを終えると、また同じところに戻る。うまくいかなかったのか、もう一度。さらにもう一度。
いつもの柔らかい雰囲気の一ノ瀬さんじゃない。唇を結んだ横顔は俺の知らない顔だった。
彼女の足元に目を落とす。
窓から射し込む朝の陽に、汗の落ちた跡が点々と光っていた。
……いつからやっているんだろう。五分や十分でできる跡じゃない。
もしかしたら、今日だけじゃないのかもしれない。
自然な気遣いのできる人だということは知っていた。でも、それだけじゃない。
彼女に憧れる理由がまた一つ増えた。
一緒に練習していいかな――一瞬浮かんだその言葉は、口に出す前に消えた。今、俺が入っていったら、あの集中の邪魔をしてしまう。
俺はそっと戸から離れて、足音を立てないように、ほかの空き教室へ移った。
三間坂さんには、負けたくないと思う。
でも、一ノ瀬さんに対しては、そうじゃない。
見習いたい――素直にそう思えた。
空き教室に一人。スマホで『剣の舞』を再生し、曲に合わせて身体を動かす。
さっきの一ノ瀬さんの横顔を思い出す。
心は熱いのに、頭はクリアだった。
楽器の音がカウントとして聞こえてくる。声にならない、あの小さなカウントのように。
初めて、イメージ通り指先までピンと伸びた。見とれていた三間坂さんの動画に、ほんの少しだけ近づいた気がした。
今までになかった手応えだった。
予鈴が鳴るまで、俺は何度も繰り返した。
そして、午後。
「今日は、うまくやれそうな気がする」
誰に向けたわけでもなく、ぽつりと漏らした独り言だった。
自分でも意外なくらい、前向きな気持ちになれている。今朝つかんだ、あの小さな手応えのおかげだろう。
「おっ、高居君、やる気出してるじゃん」
その声に顔を上げると、いつの間にか三間坂さんがすぐ近くに来ていた。
……今の、聞かれてたのか。
少し恥ずかしくはあったが、あんなダンスを散々見せてきたんだ。これくらいは、たいしたことじゃない。
「ちゃんと動けるようになったのは、三間坂さんと一ノ瀬さんのおかげだよ」
「おっ、嬉しいこと言ってくれるじゃん」
三間坂さんは、少し照れたように、それでもどこか誇らしげに笑った。手のかかる生徒の成長を見守る先生の気分を味わっているのかもしれない。
前回のグラウンド練習では、正直あまりいいところを見せられなかった。
でも今日は違う。
少しは成長したところを見せられる――かもしれない。
そう思って、気持ちを切り替えた、その直後だった。
「――変更点があるから、先に説明するね」
練習開始前、三年生の先輩から、そんな声がかかった。
生徒主体で作り上げているパフォーマンスだ。細かい振り付けの修正が入ること自体は、これまでも何度かあった。
だから、この時点では、俺もそこまで深刻に考えていなかった。
けれど――
先輩の説明を聞き進めるうちに、そんな甘い考えはすぐに消えた。
これまでのラストは、市民側の女子が勝利のポーズを取り、貴族側の男子が膝をつく――そこで終わるはずだった。だが、その後に、新しい動きが追加されることになった。
『剣の舞』のあとに、同じハチャトゥリアン作曲の『仮面舞踏会』から、「ワルツ」の一部を繋げるらしい。
その曲の間に、散らばった隊形から全員で一気に中央へ集まり、しゃがみ込み、隠し持っていた布を取り出す。そして男女ペアがその端を持ち、頭上に掲げる。布は三色。上から見れば、フランス国旗になるように計算されているらしい。
革命で市民側が勝って終わり、ではない。敵対していた者同士が手を取り合い、新しい世界を作っていく――
そんなメッセージを込めた演出だという。
テーマに合っているし、見た目にもかなり映える。観る側の印象にも、きっと強く残るはずだ。
……理屈では、そう思う。
だけど――
実際にそれをやる側の立場で考えると、話は別だった。
本番も間もないこの段階で、新しい動きを頭と体に叩き込まなければならない。しかも、移動して、しゃがんで、布を出して、掲げる。全員の動きを秒単位で合わせなければならない。少しでも誰かが遅れれば、全体が崩れる。
難しいに決まっていた。
「なかなか厳しいな……」
「でもさ、アイデアで勝負する感じで、いいと思わない?」
弱音をこぼす俺とは違い、三間坂さんはほがらかに笑った。
「見てる人にも、かなりインパクトあると思うよ」
俺が難しさばかり考えている間も、三間坂さんは完成したときの光景を思い描いているようだった。
……でも、その前向きさに触れているうちに、不思議と俺の気持ちも引っ張られていく。
負けてられない。自然と、そう思えてくる。
こうして、変更点を含めた練習が始まった。今回は、追加されたラストの動きを重点的にやるとのことだ。まぁ、当然だろう。
だが、実際にやってみると、その難しさは、想像以上だった。
曲が終わっているのに、布を出すどころか、まだ全員が座れていない。
「近い人は素早く位置を決めて! ほかの人が間に合わなくなる。遠い人は遠い人で、もっと急いで!」
いざ全員が揃っても、布を出すのに手間取って、掲げるタイミングなんて揃いやしない。
「布、早く出して! 周り見てから掲げたんじゃ、間に合わないよ!」
先輩の声が、何度も飛んだ。
ただ、いつもは真っ先に名前を呼ばれる劣等生の俺が、今回は一度も注意されなかった。ラストの移動前、俺は中央から遠い位置にいるにもかかわらず、だ。
それというのも、すべて三間坂さんのおかげだった。
俺の隣には、少しだけ中央寄りに三間坂さんがいる。彼女は、迷いなく目標地点へ向かい、座るべき位置に、ためらいなく腰を下ろす。
その動きは、まるで俺を先導しているかのようで、俺はただ後ろについていくだけでよかった。
布に関しても、三間坂さんが、躊躇なく、素早く布の端を差し出してくれるので、それを受け取るだけで、余裕を持って掲げる準備ができた。
周囲でタイミングを崩しているペアを見るたびに、「三間坂さんと組めてよかった」と何度も思った。
――ただ。
順調に見える練習の中で、一つだけ、どうしても目で追ってしまう姿があった。
一ノ瀬さんだ。
全体の流れを追いながらも、ふと視線を向けると、布の取り出しで少し手間取っている様子が目に入る。大きく乱れているわけじゃない。けれど、タイミングがシビアなこの動きでは、その「少し」が致命的になりかねなかった。
「……一ノ瀬さんのこと、気になる?」
練習の合間、俺の視線に気づいたのか、三間坂さんが小声で話しかけてきた。
「ちょっと、手間取ってる感じだったから……」
「一ノ瀬さんは、動きを身体に染み込ませるタイプだから、急に言われても、自分のものにするのに手間取るのかも」
「そうなんだ……」
言われてみれば、思い当たる節はある。
早朝に一つずつの動きを何度も繰り返すあの練習。あれこそ、身体に染み込ませるための練習そのものだ。個別練習できないこの時間で覚えきるのは、一ノ瀬さんにとってきっと簡単なことじゃない。
本来なら、全体で見れば問題が多いのは俺のほうだ。人のことを気にしている余裕なんて、ないはずなのに――それでも、どうしても一ノ瀬さんの様子が気になってしまう。
うまくいってほしい。気づけば、そう願っていた。
「今度、私からアドバイスしておくよ」
三間坂さんは、あっさりと、でも迷いのない口調でそう言った。
彼女がアドバイスしてくれるなら、きっと大丈夫。
俺自身が、そうだった。
一ノ瀬さんも、きっとなんとかなるはずだと思えた。
練習はそのまま続き、追加されたラストの動きも、少しずつ形になっていく。
全体練習が終わり、少し空気が緩んだタイミングで、俺は三間坂さんに声をかけた。
「三間坂さんのおかげで、すごくやりやすかったよ」
三人で自主練をしたときに褒められたことは、今でもはっきり心に残っている。
あのとき救われた気持ちを、少しでも返したかった。だから今回は、照れもせず、素直な言葉が出た。
「そう? 私は普通にやってるだけだけどね」
言葉だけ聞けば、いつも通りの素っ気ない返事。けれど、その表情はどこか和らいでいて、楽しそうにも見えた。
それが、妙に嬉しかった。
「それよりさ。このあと、グラウンド使えるでしょ? 二人三脚の練習、しない?」
見れば、リレーのメンバーはすでに集められて、バトン練習を始めていた。
二人三脚も、教室ではとてもじゃないが練習できない。このグラウンド練習は、まさに数少ないチャンスだった。
「そうだね。ぶっつけ本番はきついし、練習しておこうか」
「じゃあ、一ノ瀬さんにも声かけるね。仙石君が来るまで、代わりに一ノ瀬さんの練習相手になれるかもよ」
「――――!?」
三間坂さんのその一言で、心臓が一気に跳ね上がった。




