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新年の王宮園遊会は、王国貴族にとって一年で最も華やかな社交の場だった。
白い石畳の庭園には、色とりどりのドレスが咲き乱れている。今年の流行色は「ヴァレンティアブルー」と呼ばれる、澄んだ青。淡いものから深いものまで、庭を見渡せば何人もの令嬢がその色を纏っているのが分かった。
「まったく、私の家名から色の名前をつけるなんて、誰が言い出したのかしら」
エルディア・ヴァレンティアは、扇子を軽く開きながら小さく呟いた。青いドレスの裾を揺らして歩くその姿は、遠目にも人目を引く。公爵令嬢としての完璧な所作、まっすぐな背筋。周囲の視線が集まるのを承知の上で、エルディアはそれを気にする素振りすら見せなかった。
「お嬢様、今年はいつも以上に注目を浴びていますね」
背後から、侍女のミア・ベルナールが小声で言った。
「別に、いつものことでしょう」
「そうですけど……今日はセレナ様も、お嬢様と似たような色をお召しですよ」
エルディアはちらりと視線を向けた。少し離れた場所で、子爵令嬢セレナ・ダグラスが数人の令嬢たちに囲まれ、朗らかに笑っている。深い青のドレスは、確かにヴァレンティアブルーの系統だった。
「今年は流行色ですもの。珍しくもないわ」
エルディアはそう言って、視線を戻した。だが、ミアの一言は、後になって思い出すことになる。
「エルディア様」
声をかけてきたのは、侯爵令嬢クロエ・フォン・ローゼンだった。扇子で口元を隠しながら、いたずらっぽく笑っている。
「今日も面白い噂を仕入れましたの」
「聞きたくないと言っても、話すのでしょう」
「よくお分かりで」
クロエは声を潜めた。
「ダグラス子爵家、最近かなり経営が苦しいらしいですわ。それで、バークレー男爵家との商談を熱心に進めているとか」
「バークレー……新興の男爵家ね」
「ええ。今日、社交界デビューする令嬢がいらっしゃるはずですわ。オフィーリア様、とおっしゃったかしら」
クロエの噂話は、当たることもあれば外れることもある。けれど、社交界の情報が彼女のところに集まることだけは確かだった。
「噂は噂よ。事実かどうかは、また別の話」
「分かっておりますわ。でも、覚えておいて損はないでしょう?」
クロエは意味ありげに笑って、また別の令嬢のもとへ去っていった。
そのすぐ後、通りかかった一人の令嬢が、エルディアに気付いて足を止めた。
深緑のドレスに身を包んだ、まだあどけなさの残る少女。目が合った瞬間、びくりと肩を震わせたのが分かった。
「あ……ヴァレンティア様……」
消え入りそうな声だった。エルディアは、この令嬢が誰なのか、すぐには思い当たらなかった。だが、周囲の視線と緊張の仕方から、初めて社交界に出た新人なのだろうと察しがついた。
「ごきげんよう」
エルディアは短く言葉を返した。特に含むところのない、いつも通りの挨拶だった。だが少女は、まるで叱られたかのように顔を強張らせ、そそくさと会釈だけして立ち去っていった。
「……何なの、あれは」
エルディアは小さく首を傾げた。悪意など込めていない。ただ、いつも通りに接しただけだ。それなのに、あの怯えようは何なのか。
答えを探す間もなく、エルディアの意識は別の話題へと移っていった。
東屋では、レオン・ハルトマンとアルベルト・アルヴェリアが待っていた。
「遅かったな」
「あちこちで呼び止められるのよ。あなたと違って」
「俺だって呼び止められてるさ。お前が気付いてないだけで」
レオンが肩をすくめると、隣でアルベルトが小さく笑った。
「二人とも、今日くらいは静かに話せないのか」
「殿下がそれを言うんですか」
エルディアが涼しい顔で返すと、アルベルトは苦笑いを浮かべた。三人の間だけに流れる、公の場とは違う空気。エルディアはこの時間が、実のところ嫌いではなかった。
「そういえば」
アルベルトが声を落とした。
「今年は例年より人が多い。バークレー男爵家が、初めて招待されたそうだ」
「クロエから聞いたわ。デビューする令嬢がいるとか」
「ああ。新興の家だが、商才があるという噂だ。王家としても、今後の付き合いを見極めたいところなんだろう」
政治の匂いのする話に、エルディアは軽く相槌を打つだけに留めた。今日は、あくまで社交の場だ。エルディアも、それ以上のことを考えるつもりはなかった。
――その考えが、甘かったと知るのは、それからほんの数分後のことだった。
悲鳴が上がったのは、庭園の奥、噴水のある一角からだった。
「――今の」
レオンが真っ先に反応した。エルディアも扇子を閉じ、声のした方向へ視線を向ける。
「行きましょう」
三人は東屋を出て、噴水へと急いだ。すでに人だかりができている。かき分けて進むと、その中心に、ずぶ濡れになった令嬢が座り込んでいるのが見えた。
先ほど、震える声で挨拶をしてきた、あの深緑のドレスの少女――オフィーリア・バークレーだった。
濡れた髪が頬に張りつき、体が小刻みに震えている。周囲の令嬢たちが慌ただしく手巾を差し出すが、彼女はそれどころではない様子だった。
「大丈夫? 何があったの」
エルディアは反射的に問いかけた。だが、その声を聞いた瞬間、オフィーリアの表情が凍りついた。
「……あなた」
小さく、そう呟く。
周囲がざわめいた。
「オフィーリア様、何があったんですの」
誰かが尋ねると、オフィーリアは唇を震わせながら、顔を上げた。その視線は、まっすぐにエルディアへ向けられていた。
「……ヴァレンティア様、でしたよね……?」
震える声で、オフィーリアはそう言った。断定ではなく、確かめるような、縋るような響きだった。
その一言で、噴水の周りの空気が一変した。
「な――」
エルディアは、一瞬言葉を失った。何かの間違いだと思った。今この瞬間まで、自分は東屋にいた。それは、レオンとアルベルトが証明できることだ。
しかし、周囲の反応は違った。
「悪役令嬢が……」
「やっぱり」
「新人をいじめるなんて」
小さな囁きが、瞬く間に広がっていく。噂というものが、これほどまでに早く、これほどまでに残酷に伝播するものだと、エルディアは改めて思い知らされた。
「私は、ずっとそこの東屋にいたわ。この二人が証人よ」
エルディアは声を張り上げた。だが、動揺した人だかりの中で、その言葉はうまく届かなかった。
「娘に、何をしたぁぁっ!」
人垣を割って飛び込んできたのは、恰幅の良い中年の男だった。オフィーリアの姿を見るなり、その顔は怒りで真っ赤に染まった。
「バークレー男爵……」
「あなたがヴァレンティア公爵令嬢か! 娘への非道、絶対に許しませんぞ!」
バークレー男爵の怒声が、園遊会の華やかな空気を切り裂いた。周囲の貴族たちは息を呑み、遠巻きにこの光景を見守っている。
エルディアは、震えるオフィーリアと、怒りに満ちた男爵の姿を交互に見た。心のどこかで、冷静な部分がこう囁いていた。
(この子は、本当に私を見たと言い切れるのかしら)
だが今この瞬間、それを問いただす術はなかった。周囲の視線は、すでに一つの答えを決めつけようとしている。
エルディアは背筋を伸ばし、静かに、しかし誰の耳にも届く声で言った。
「――証明なさい」
その声は、いつも通り、少しも揺らいでいなかった。




