45
王都から馬車で半日ほど揺られた先には、麦畑に囲まれた小さな村があった。研究院の喧騒とは無縁の、のどかな風景が広がっている。車窓を過ぎていく黄金色の穂波を眺めながら、エルディアはふと、こんな静かな場所に三十年前の謎の答えがあるということが、まだうまく現実として結びつかないでいた。
「こんな場所に、三十年前の謎に繋がる人がいるなんてね」
窓の外を眺めながら呟くと、隣に座るリゼットが手元の書類を確認した。
「係員の記憶を頼りに、記録院に残る古い戸籍を辿りました。三十年前の書簡の関係者として名前が挙がったのが、グレース・フォーサイス。当時の研究者オズワルド・フォーサイスの、実の妹にあたる方です」
「オズワルド・フォーサイス」
その名を口にした瞬間、御者台の方から小さく息を呑む音がした。振り返ると、同行していたヴィクトルが、青ざめた顔でこちらを見ていた。
「……その名前、知っているの?」
「いえ……いえ、初めて聞く名前です。すみません、少し揺れて」
嘘だということは、エルディアにも分かった。ヴィクトルの視線は、彼が普段見せる饒舌さとはまるで違う、何かに耐えるような硬さを帯びていた。だが、今はまだ、それを追及する時ではない。エルディアはあえて話題を変えず、窓の外の景色に目を戻した。
「それにしても、随分と長閑なところね」
「ええ……昔から、あまり人の出入りがない村だと聞いています」
リゼットの補足に、エルディアは小さく頷いた。三十年もの間、誰にも訪ねられることなく、この村でひっそりと暮らしてきた人がいる。そう思うと、これから会う相手への緊張が、いつもの事件とは少し違う種類のものになっていくのを感じた。
道中、レオンが珍しく口数少なく、ずっと窓の外を眺めていた。
「どうしたの、静かね」
「いや……なんとなく、な。こういう静かな場所に行く時ほど、嫌な予感がするっていうか」
「探偵みたいなことを言うのね」
「お前の傍にいりゃ、誰だってそのくらいの勘は働くようになるよ」
軽口の応酬に、馬車の中の空気がわずかに緩んだ。だが、その隣で身を固くしたままのヴィクトルの様子だけは、変わらなかった。エルディアはそれに気づかないふりをしながら、内心で小さくため息をついた。何を恐れているのか、彼自身にもまだはっきりとは分かっていないのかもしれない。そう思うと、無理に問い詰める気にはなれなかった。
馬車は村外れの小さな家の前で止まった。手入れの行き届いた庭には、季節の花が静かに咲いている。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして白髪の混じった女性が扉を開けた。柔らかな物腰の、六十代半ばと見える人だった。
「どちら様でしょうか」
「突然のご訪問、失礼いたします。ヴァレンティア公爵家の者です。少しお話を伺いたく」
「まあ……公爵家の」
グレースは少し驚いた様子だったが、それ以上に、エルディアたちの背後に立つヴィクトルの顔を見て、何かに気づいたように目を細めた。
「……あなた、バルト先生のところの」
「はい。ヴィクトル・ハイゼンと申します」
「そう。……お入りください」
案内された居間には、質素だが丁寧に暮らしている様子が伝わってくる調度が並んでいた。使い込まれた椅子、埃一つない棚、几帳面に並べられた小物の一つ一つに、この家の主の人柄が滲んでいる。暖炉の上には、若い男女二人が並んで写った古い肖像画が飾られていた。
「あの絵は」
「兄です。オズワルド」
グレースは静かに答えた。エルディアはその肖像画に描かれた青年の顔を、じっと見つめた。理知的な瞳をした、まだ二十代と見える若者だった。隣に写る幼い少女は、おそらく若い頃のグレース自身だろう。
「兄は魔法理論の研究者でした。もう、三十年も前に亡くなりましたけれど」
「どのような方だったのですか」
エルディアが尋ねると、グレースは懐かしむように目を細めた。
「不器用な人でした。人付き合いは苦手でしたけれど、研究のことになると、寝食を忘れるほど夢中になる人で。夜通し机に向かって、朝になっても気づかないくらい。よく私が、朝食を運んでは叱っていました」
グレースの口元に、ほんのわずかな微笑みが浮かんだ。だがそれも、長くは続かなかった。
「……でも、当時のことを話すのは、少し辛いんです」
「無理にとは申しません。ただ、実は最近、レナード・アシュフォードという若い研究者が、あなたを訪ねてきたことがあるのではないかと思っています」
その名前を出した瞬間、グレースの表情が大きく揺れた。
「……レナードさんを、ご存じなんですか」
「彼が亡くなりました。事件性がある可能性があり、私たちは真相を調べています」
グレースは息を呑み、しばらく言葉を失っていた。膝の上に置いた手が、かすかに震えている。
「亡くなった……そんな……あんなに、優しい方だったのに」
「彼と、どのようなお話を?」
グレースは目を伏せ、しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「数か月前、突然訪ねてこられました。兄の名前を調べていて、この家に辿り着いたと。……最初は、何かの間違いかと思いました。兄のことなんて、もう誰も覚えていないと思っていましたから」
「誰も、というのは」
「兄は、若くして亡くなりました。事故だったと聞いています。でも、その後、兄が生前に取り組んでいた研究のことは、誰も語らなくなりました。まるで、最初から存在しなかったみたいに」
グレースの声は、静かだが、深いところに沈んだ痛みを滲ませていた。窓の外で風が鳴り、庭の花がわずかに揺れる音だけが、しばらく部屋を満たした。
「私はずっと、兄のことを覚えているのは、自分だけなんじゃないかと思っていました。誰も、兄のことを記録してくれなかった」
その一言に、エルディアの脳裏で、レナードのノートに残されていた文字が蘇った。
彼女の名前も、記録に残すべきだ。
ようやく、その「彼女」がグレースを指していたのだと分かった。だが、それが分かったところで、謎は少しも解けてはいない。むしろ、深くなっている。
「レナードさんは、何を調べていらしたのですか」
エルディアの問いに、グレースは静かに立ち上がった。歩みは決して速くはなかったが、その足取りには、何か覚悟のようなものが滲んでいた。部屋の奥にある小さな戸棚から、古びた木箱を取り出し、丁寧にその蓋を開ける。中には、色褪せた紙の束が、丁寧に紐で結ばれて収められていた。
「兄が遺した、手紙の写しです。……レナードさんにも、これをお見せしました」
グレースは震える手で、その束をそっと持ち上げた。木箱の内側には、長い年月の間、誰にも触れられずにいたことを物語るような、静かな埃の跡が残っていた。
「これを読めば、兄が何を残そうとしていたのか、分かると思います」
その言葉とともに、彼女は古い布を、ゆっくりと解き始めた。指先が、何度も同じ結び目のあたりで止まる。それは単なる紐を解く手つきではなく、長年しまい込んできた記憶そのものを開くような、慎重な仕草だった。
エルディアは、その手元をじっと見つめていた。傍らでヴィクトルが、拳を強く握りしめているのが、視界の端に映っていた。彼の視線は、木箱そのものではなく、グレースの指先の動きの、その先にある何かを恐れるように揺れていた。
布が解かれ、一番上の便箋が姿を現す。古いインクで綴られた文字は、几帳面でありながら、どこか性急さの残る筆跡だった。その先に何が書かれているのか、エルディアにはまだ分からない。ただ、部屋の空気が、確かに変わったのを感じていた。
「今日は、もう遅い時間ですし……続きは、また改めてお話しさせてください」
グレースは便箋を再び布に包み直しながら、そう言った。声には、これ以上は今すぐに語れないという、静かな拒絶に似た響きがあった。エルディアはそれを無理に押し切ろうとはしなかった。
「承知しました。またお伺いしても?」
「ええ……もちろんです」
グレースは木箱を胸に抱えるようにして立ち上がり、エルディアたちを玄関先まで見送った。別れ際、彼女はふと足を止め、ヴィクトルの顔をじっと見つめた。
「あなたも、先生の教え子なら……いずれ、知ることになるかもしれませんね」
その一言だけを残し、グレースは静かに扉を閉めた。ヴィクトルは何も答えられず、閉じられた扉をしばらく見つめ続けていた。
帰りの馬車の中、誰も口を開かなかった。窓の外では、麦畑を渡る風が、変わらず静かに吹き続けていた。




