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王国大記録院の閲覧室は、いつ来ても紙とインクの匂いに満ちていた。窓から差し込む光の中を埃がゆっくりと舞い、静寂の中に規則正しいペンの音だけが響いている。
「三十年前の記録、ということは、随分と古い書庫を漁らないといけないわね」
エルディアが呟くと、傍らでリゼットが分厚い台帳を何冊も積み上げながら頷いた。
「はい。個人の書簡や私的な研究記録は、公開閲覧の対象外として奥の書庫に分類されています。ただ――」
リゼットの指が、一つの台帳のページで止まる。
「閲覧申請の記録自体は、こちらの受付台帳に残ります。そして、つい先日、この台帳に興味深い記載がありました」
「レナード・アシュフォード」
エルディアがその名前を読み上げると、リゼットは静かに頷いた。
「事件のひと月ほど前です。彼は『三十年前の未公開個人書簡』の閲覧を申請しています。ただ、対象の書簡の所有者名までは、この台帳には記載されていません」
「所有者が分からない、ということ?」
「はい。個人書簡は、原則として遺族の許可がなければ内容の写しを取ることも許されていません。レナードさんが実際に何を読んだのか、記録院側では把握していないんです」
「では、彼が何を調べていたのかは、この記録だけでは分からないままね」
エルディアは台帳を閉じ、小さく息をついた。人一人の死の理由が、こんな薄い紙一枚の申請記録に隠れているのかと思うと、不思議な感覚に襲われる。
「ただ、閲覧を担当した係員が一人、当時のことを覚えているかもしれません。少し当たってみます」
「お願いするわ」
リゼットが席を立つのを見送りながら、エルディアはふと窓の外に目をやった。研究院の方角には、今日も変わらず塔がそびえている。あの中のどこかに、まだ何も語らないバルトがいるのだと思うと、落ち着かない気持ちになった。
その足で、エルディアたちは研究院に立ち寄った。ヴィクトルの姿を探すと、彼は自室にこもり、机の上に晶石の破片や古い論文を広げていた。声をかけても、しばらくは気づかない様子だった。
「ヴィクトル」
「……あ、エルディア様。すみません、少し考え事を」
彼は慌てて資料をまとめようとしたが、その手つきはどこかぎこちなかった。エルディアはあえてそれを指摘せず、椅子に腰を下ろした。
「一つ聞きたいことがあるの」
「なんでしょう」
「バルト教授について、あなたはどう思っている?」
その瞬間、ヴィクトルの手が止まった。ほんの一拍の間があってから、彼はいつもの調子で答えた。
「バルト先生は、私が魔法理論を志したきっかけをくださった方です。学生の頃から、誰よりも丁寧に、誰よりも公平に教えてくださいました。先生の理論体系がなければ、今の魔道具工学の発展はなかったと言っても過言ではありません」
その言葉は、いつもの饒舌さと同じ調子で紡がれていた。だが、エルディアはその流暢さの裏に、わずかな不自然さを感じ取っていた。饒舌なようでいて、どこか台詞を読み上げているような、そんな硬さがあった。
「……先生が、あの記録に関係しているとは思わない?」
ヴィクトルは視線をわずかに逸らした。
「保管庫への立ち入りが許可されている方は、先生以外にも何人かいます。それに――先生が、レナードを傷つける理由なんて、どこにもありません」
「そうね。理由が分からないのは、こちらも同じよ」
エルディアはそれ以上、深追いしなかった。今、ヴィクトルを追い詰めても、何も出てこないだろうという直感があった。
「レオン、あなたはどう思う?」
これまで黙って壁に寄りかかっていたレオンが、肩をすくめた。
「俺に聞かれてもな。ただ、あいつがあんな顔するの、久しぶりに見た」
「あんな顔?」
「隠し事をしてる顔だよ。……いや、隠してるっていうより、認めたくないことから目を逸らしてる顔、って言った方が近いか」
レオンの評は、エルディアが感じていたものとほとんど同じだった。
その日の夕方、ノアから連絡が入り、ジョセフィンに関する裏付け調査の結果が報告された。
「発表当日、ジョセフィン嬢が控室に出入りしていた時間帯を特定しました。ただし、その時間帯に保管庫から持ち出されたのは、レナード氏の専用晶石ではありません」
「……どういうこと?」
「予備晶石です。記録上は、バルト教授が点検のために持ち出したことになっています。レナード氏の専用晶石は、既に三日前の時点で保管庫を離れていますから、ジョセフィン嬢が控室にいた時間に触れられたとしても、犯行に使われたものではないということになります」
エルディアは小さく頷いた。予想していたことではあったが、こうして時間関係が明確になると、一つの可能性が静かに閉じられていくのを感じた。
「では、残るのは」
「保管庫への立ち入りが許可されていた、限られた人物です」
ノアの言葉に、部屋の空気がまた少し重くなった。誰もその名前を口に出さなかったが、全員の頭には同じ人物が浮かんでいることは明らかだった。
「……まだよ」
エルディアは自分に言い聞かせるように呟いた。
「立ち入りが可能だったというだけで、犯人だと決めるのは早すぎる。まだ、動機も、方法も、何一つ証明できていないもの」
それでも、心のどこかで小さな違和感が疼いていた。ヴィクトルのあの、いつもと違う硬い言葉遣い。あれは、恩師を守ろうとする言葉というより、何かに気づいてしまった人間が、必死にそれを見ないふりをしようとする言葉のようにも聞こえた。
その夜、エルディアが研究院を出る間際、廊下の奥に灯りが漏れているのに気づいた。近づいてみると、それはヴィクトルの自室だった。扉の隙間から覗くと、彼は一人、机に向かい、古い論文集のページを一枚一枚、食い入るように見つめていた。
声はかけなかった。かける言葉が、見つからなかったからだ。
エルディアはしばらくその場に立ち尽くしたあと、静かにその場を離れた。廊下の窓の外では、月が雲に隠れかけていた。




