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翌日、エルディアたちは再びグレースの家を訪れた。空はどんよりと曇り、昨日の穏やかな陽気とは打って変わって、村全体がひっそりと静まり返っていた。前日とは違い、今日のグレースは、どこか腹を括ったような静かな表情をしていた。
「昨日は、突然のことで動揺してしまって……申し訳ありませんでした」
「いいえ。こちらこそ、急なお願いをして」
馬車を降りたときから、ヴィクトルはずっと押し黙ったままだった。昨夜、彼が一晩眠れなかったであろうことは、その目の下の色を見れば明らかだった。それでもエルディアが声をかけようとすると、彼は先んじて「大丈夫です」とだけ答え、それ以上は何も語らなかった。
居間に通されると、テーブルの上には、既に例の木箱が置かれていた。グレースは椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと蓋を開け、便箋の束を取り出した。
「兄が、亡くなる少し前に書いた手紙です。宛先はバルト先生――当時は、まだ助手だった方ですけれど」
その名前が出た瞬間、隣に座るヴィクトルの体が、はっきりと強張るのが分かった。
「読んでも?」
「はい。……レナードさんにも、同じようにお見せしました」
エルディアは便箋を手に取った。古いインクの匂いが、鼻先をかすかにくすぐる。几帳面な文字で綴られたその内容は、専門用語の並ぶ研究報告のようでもあり、同時に、友人へ宛てた私的な便りのようでもあった。
『――先日話した、魔力循環の新しい理論体系について、ようやく骨子がまとまった。君にも見せたいと思う。まだ荒削りだが、これがうまくいけば、これまでの記録魔法の限界を大きく超えられるはずだ。オーレリウス、君の意見を聞かせてほしい』
次の一枚には、より詳細な理論の走り書きが続いていた。数式や図が余白を埋め尽くし、行間には後から書き加えられたと思しき修正の跡がいくつも残っている。そして、最後の一枚。
『体調が優れない日が続いている。医者には大したことはないと言われたが、念のため、今の研究内容をまとめて君に預けておくことにする。もし僕に何かあった時は、この理論を、どうか腐らせないでほしい。それだけが、心残りだ』
その手紙を最後に、便箋の束は終わっていた。
エルディアは、しばらくの間、その紙面から目を離せなかった。若くして病に倒れた青年が、自分の命よりも研究の行く末を案じていたことが、古いインクの一字一字から伝わってくる。命の終わりを前にしてなお、自分の功績よりも、研究そのものの行く末を案じる。そういう人間が、確かにこの世にいたのだと、便箋の向こうから静かに語りかけてくるようだった。
「兄は、この手紙を送った半月後に亡くなりました。急な高熱で、あっという間のことでした」
グレースは淡々と語ったが、その声の底には、三十年経ってもなお癒えない痛みが横たわっていた。
「その後、バルト先生の代表作が発表されたのは、いつ頃のことですか」
エルディアの問いに、グレースは静かに頷いた。
「兄の死から、一年ほど経った頃だったと記憶しています。当時は、それが兄の理論を元にしたものだとは、私も気づきませんでした。専門的な内容は分かりませんし、先生が兄の友人だったことも知っていましたから、むしろ、兄の分まで頑張ってくださっているのだと、感謝していたくらいです」
「では、当時、先生とオズワルドさんの間には、どのような関係が」
「よく一緒に研究をしていたと聞いています。先生は当時、まだ助手というお立場で、兄の方が少しだけ年上でした。でも、実力では、兄の方が先を行っていたと……これは、生前の兄が、少しだけ誇らしげに話していたことです」
グレースは懐かしそうに、しかしどこか痛みを堪えるように目を伏せた。
「兄は、先生のことを慕っていました。優秀で、努力家で、いずれ自分よりも大きな仕事を成し遂げる人だと。だからこそ、私は長い間、疑うことすら失礼だと思っていたんです」
「……では、あなたご自身は、いつこの事実に気づかれたのですか」
「気づいた、というより……ずっと、心のどこかで引っかかっていました。兄が最後に語っていた理論と、先生が発表した理論が、あまりにもよく似ていたので。でも、それを口にする勇気は、長い間、持てませんでした」
グレースは膝の上で手を組み、俯いた。長年、誰にも打ち明けられずにいた疑念を、ようやく言葉にできたというような、疲れと安堵の入り混じった表情だった。
「兄はもういません。証拠もない。ただの妹の思い込みだと言われれば、それまでですから」
その言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。エルディアは隣に座るヴィクトルへ目を向けた。彼は手紙を見つめたまま、微動だにしていなかった。ただ、その手はいつの間にか、震えるほど強く拳を握りしめていた。学生の頃から慕い、尊敬し、自らの進む道の礎としてきた人物の名前が、目の前の古い手紙の陰に、静かに影を落としている。その現実を、彼はまだ受け止めきれずにいるようだった。
「……そんな、はずが」
ようやく絞り出された声は、かすれていた。
「先生が……オズワルドさんの理論を……」
「まだ、断定はできないわ」
エルディアは静かに、しかしはっきりと言った。
「この手紙だけでは、どこまでが偶然の一致で、どこからが本当に盗用なのか、判断できない。理論というのは、同じ分野を研究していれば、似た結論に辿り着くこともあり得る。感情だけで、人を裁くわけにはいかないもの。でも――」
「でも、何なんですか」
ヴィクトルの声には、珍しく苛立ちに似た響きが混じっていた。普段の彼からは考えられないほど、その声は張り詰めていた。エルディアはそれを咎めず、まっすぐに彼を見つめ返した。
「疑わしいことがあるなら、確かめないままにしておく方が、よほど残酷だと思うわ。あなたにとっても、バルト先生にとっても」
ヴィクトルは何かを言い返そうとして、しかし言葉が続かず、ただ唇を噛んだ。
「あなたが確かめないなら、私が確かめるわ」
その一言に、ヴィクトルは目を見開いた。しばらくの沈黙のあと、彼は何も言わず、ただ深く一度だけ頷いた。その仕草には、覚悟とも諦めともつかない、複雑な色が滲んでいた。
その頃、研究院ではノアとトムが、晶石保管庫の出納記録を改めて洗い直していた。埃っぽい書庫の片隅で、二人は分厚い帳面を何冊も広げ、無言のまま照合を続けていた。
「この訂正跡ですが」
ノアが帳面の一点を指し示す。
「筆跡そのものは薄く、判別が難しい。ただ、記録の管理権限を持つ人間は限られています。院長、副院長、そしてバルト教授。この三名です」
「院長と副院長は、発表会当日、王都を離れていました」
トムが青ざめた顔で付け加えた。手元の別の帳面を繰りながら、確認するように何度も同じ行を目で追っている。
「出張の記録は、こちらに。……間違いありません。お二人とも、発表会の三日前から王都を離れています」
「つまり、当日この記録を書き換えられる立場にあったのは……」
「バルト教授のみ、ということになります」
トムは自分の口から出た言葉に、思わず息を呑んだ。日頃から敬い、書類上の判を貰う際にも丁寧に接してきた相手の名前を、まさかこんな形で口にすることになるとは、思ってもいなかったのだろう。
「私の管理不行き届きです。もっと早く、この訂正跡に気づいていれば……」
「あなたの落ち度ではありません」
ノアは淡々と言った。感情の起伏の少ない声だったが、その一言には、トムを責める気配は一切なかった。
「記録は、それを扱う人間の善意を前提に作られています。悪意を持って書き換えられれば、見抜くのは容易ではない」
トムはそれでも納得しきれない様子で、帳面をきつく抱え込んだ。
ノアは静かに帳面を閉じ、窓の外へ目をやった。晶石の技術的な検証はまだ終わっていない。だが、状況は少しずつ、しかし確実に、一人の人物を指し示し始めていた。
その日の夕刻、報告を受けたエルディアは、研究院の廊下でしばらく立ち止まっていた。手紙の内容、記録の訂正、そしてヴィクトルの表情。それぞれはまだ、決定的な証拠とは言えない。けれど、それらが少しずつ形を変えながら、一つの方向へと収束していくのを、エルディアは確かに感じていた。
窓の外はすっかり日が落ち、研究院の塔にだけ、ぽつりと灯りが灯っていた。




