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長い沈黙の後、ヴィオレッタは、ゆっくりと顔を上げた。
「……杯を渡したのは、確かに私です。でも、それだけでしょう?」
声には、まだかろうじて余裕が残っていた。
「トビアスに、指定の位置へ杯を置くよう頼んだだけ。それの、どこがいけないと仰るの」
「なら、なぜあなたなのか、答えて。控室に、フローレンス様の杯へ直接触れられたのは、限られた人間だけよ。候補者の中で、あの時間に控室へ出入りできたのは――あなただけ」
「偶然、居合わせただけかもしれないでしょう」
「そうかもしれない。でも、トビアスは金を受け取っていたわ。誰から、いくら。すべて記録に残っている。実家の借金の返済に使われた金額と、時期まで一致するそうよ」
ヴィオレッタの喉が、小さく動いた。
「……それも、状況証拠に過ぎないわ」
「ええ、一つ一つは。だから、これも聞かせて。トビアスが杯を受け取った時、その中身は、すでに満たされていた。彼は、蓋を開けてすらいない。つまり――毒を仕込めたのは、彼にその杯を渡した、あなた以外にありえない」
「……」
「そして、あの杯の破片からは、毒物の魔力残滓が検出されている。ヴィクトルが確認済みよ。動機、機会、資金の流れ、証言、そして物証。一つ一つは弱くても、すべてを並べれば、答えは一つしかない」
エルディアは、静かに、しかしまっすぐにヴィオレッタを見つめた。
「ヴィオレッタ様。もう、逃げ場はないわ」
ヴィオレッタは、しばらくの間、身動き一つせずに座っていた。やがて、ゆっくりと、まるで糸が切れたように、その表情から取り繕っていたものが剥がれ落ちていく。
「……どうして、そこまで分かったの」
声が、掠れていた。
「……ええ。私が、杯に毒を入れました」
その一言は、静かな部屋の中に、驚くほどはっきりと響いた。
「フローレンス様を、殺すつもりで?」
エルディアの問いに、ヴィオレッタは苦しげに目を伏せた。
「……最初から、そのつもりだったわけではありません。ただ、あの方が本命だと、誰もが言うようになって……私は、日に日に追い詰められていったんです」
ヴィオレッタは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「父は、事あるごとに私に言いました。『お前が王太子妃の座を勝ち取れなければ、この家に居場所はない』と。……初めは、ただの叱咤だと思っていました。でも、次第にそれが、本当のことなのだと分かってきたんです」
「借金……クロエから聞いたわ。かなりの額だと」
「ええ。何年も前から、投資の失敗が重なって。表向きは取り繕っていましたけれど、実際には、いくつもの取引先への支払いすら滞っていました。父にとって、私を王太子妃にすることだけが、家を立て直す最後の望みだったんです」
ヴィオレッタの声には、恨みとも、諦めともつかない色が滲んでいた。
「毎日、鏡を見るたびに、思うようになりました。フローレンス様さえいなければ、と。……浅ましい考えだと、自分でも分かっていました。それでも、他に道が見えなかった」
「それで、控室で杯に毒を?」
「はい。夜会の前、控室に忍び込む機会があって……用意していた毒を、フローレンス様の杯に垂らしました。トビアスには、少し前から目をつけていたんです。実家に借金があって、金に困っていると噂で聞いていましたから。彼に金を渡して、杯を指定の位置に置くよう頼みました。彼には……本当に、それだけしか頼んでいません。殺人だとは、知らせていません」
「あなたが直接、杯に毒を入れた。トビアスは、それを運んだだけ」
「ええ。……あの人は何も知らない。すべて、私が」
エルディアは、しばらく黙ってヴィオレッタを見つめていた。それから、静かに、しかし避けようのない一言を口にした。
「ヴィオレッタ様。……あなたに、伝えなければならないことがあるわ」
「……何でしょう」
「フローレンス様は、王太子妃候補を、辞退するおつもりだったの。フレデリカ様に、そう打ち明けていらした。『この国に嫁ぐことを、心から望んでいるわけではない』と」
部屋が、しんと静まり返った。
ヴィオレッタの瞳が、大きく見開かれる。
「……そんな」
声が、震えていた。
「そんな……嘘よ。だって、あの方は、いつも堂々と……候補の中でも一番だと、皆が」
「本当よ。彼女は、争うつもりなど、最初からなかった。あなたが恐れていた『最有力の候補者』というのは……もう、心の中では存在していなかったの」
ヴィオレッタは、崩れ落ちるように顔を覆った。指の隙間から、押し殺した嗚咽が漏れる。
「……私は」
声が、掠れていた。
「私は、争う必要すらなかった相手を……殺してしまったの?」
その問いに、誰も答えることができなかった。夕暮れの光が、床に長く伸びた影を、ゆっくりと闇へと沈めていく。
その後、ヴィオレッタ・ケインズワースは、王国法に基づき正式に拘束された。ケインズワース侯爵家は社交界での信用を大きく失い、侯爵自身も、その責任を問われることとなった。トビアスは、事情を知らぬまま利用された協力者として、罪の重さこそ問われたものの、殺意の欠如が認められた。
事件は、こうして幕を閉じた。政治という大きな言葉に隠れていたものは、結局のところ、一人の令嬢の、あまりにも人間らしい――そして、あまりにもすれ違った――恐れだった。
数日後、王宮の庭園を歩いていたエルディアの前に、見慣れた人影が現れた。
「よう」
「……カイ」
「片付いたみたいだな」
カイは、いつもと変わらぬ飄々とした調子で、木陰から歩み出てきた。
「どうして、あんなことを知っていたの? 給仕が羽振りよくなっていたなんて、普通は分からないでしょう」
「情報には値段があるんだよ」
カイは、少しだけ口の端を上げた。
「俺が知っているのは、それだけだ。信じるかどうかは君次第だ」
「……その〝頼み事〟とやらは?」
「今はまだ言わない。そのうちにな」
カイはそう言い残すと、飄々とした足取りで、また木々の間へと消えていった。エルディアは、その背中をしばらく見つめていた。警戒すべき相手だということは、変わらない。それでも――彼の情報がなければ、真相に辿り着けなかったことも、また事実だった。
庭園を出たところで、エルディアはアルベルトと行き合った。
「終わったな」
「ええ。……あなたのおかげよ」
「いや。動いたのは君だ。俺は、ただ、後押ししただけに過ぎない」
アルベルトは、いつもより柔らかい表情でそう言った。
「王太子として正しい判断と、人間として正しい判断は、必ずしも同じではない――そう言ったこと、覚えているか」
「ええ、もちろん」
「今回、俺は、人間としての判断を選んだ。それが、正しかったのかどうかは……まだ分からない。だが、少なくとも、後悔はしていない」
その言葉に、エルディアは小さく微笑んだ。
「悪くない選択だったと思うわ。少なくとも、私は」
二人の間に、これまでよりも少しだけ近い、静かな信頼が生まれていた。立場を越えた、一人の人間と、もう一人の人間としての。
夕暮れの空を、渡り鳥の群れが横切っていく。フローレンスの死は、決して取り返しのつかないものだった。それでも、彼女が最後に望んでいたことは、少なくとも、もう誰にも歪められることはない。
エルディアは、しばらくの間、その光景を見つめ続けていた。
――政治は、人の死より大きいものかしら。
あの夜、自分に問いかけた言葉を、そっと思い出す。
答えは、まだ出ていない。ただ一つだけ、確かなことがある。
どれほど大きな言葉の裏にも、結局は、生きた一人の人間の心があるのだということを。
第五章 完




