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「トビアスが庇っている相手は、おそらくヴィオレッタ様よ」
エルディアがそう告げると、アルベルトは長い沈黙のあと、深く息を吐いた。王宮の私室、二人きりのその場には、重い空気が漂っていた。
「ケインズワース侯爵家か……」
「まだ、確証ではないわ。でも、機会も、動機も、そして資金も揃っている」
アルベルトは眉間を押さえ、しばらく考え込んでいた。リンドグレーン公国との外交問題を懸念していた彼にとって、これは決して軽い話ではない。国内の有力な侯爵家を公に疑うことは、また別の政治的な波紋を呼ぶことになる。
「……もし本当にヴィオレッタ嬢が犯人だとしたら、ケインズワース侯爵家は、間違いなく大きく揺れることになる。俺が王太子として、それを軽々しく口にすることの意味は、分かっているつもりだ」
「分かっているなら」
「ああ。それでも――もう、迷わない」
アルベルトは顔を上げ、まっすぐにエルディアを見た。その瞳には、これまで見せたことのない、静かな覚悟のようなものが宿っていた。
「フローレンス嬢は、この国に嫁ぐために、故郷を離れてやって来た。その彼女が、政治の都合とやらでうやむやにされるくらいなら、俺は――王太子としての立場より、人としてやるべきことを選ぶ」
「……それでこそ、あなたよ」
エルディアは、思わず小さく笑った。アルベルトも、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「エルディア。行けるところまで、行ってくれ。俺も、できる限りの後押しをする」
「ええ。任せてちょうだい」
その後、ノアとエルディアは再びトビアスのもとを訪れた。すでに一度目の聴取から数日が経ち、彼の顔はさらにやつれていた。
「トビアス。もう一度だけ、聞かせてほしい」
エルディアの声に、トビアスは弱々しく顔を上げた。
「あなたが控室で杯を預かった時――その方は、あなたにどんな様子で杯を渡したの? 何か、変わった様子はなかった?」
トビアスは、記憶をたどるように視線を彷徨わせた。
「……いつもと、変わらない様子でした。ただ、少し急いでいるようには見えました。杯を渡すとすぐに、『早く配膳台へ』とだけ言われて」
「杯は、その時すでに満たされていた?」
「はい。中身は入っていました。私はただ、それを受け取って、指定の位置に置いただけです」
エルディアは、静かに、しかし核心を突く問いを重ねた。
「トビアス。よく考えて。その杯を受け取った時点で、すでに毒が入っていたとしたら――誰が、それを仕込んだことになる?」
その問いに、トビアスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……まさか」
「あなたは、杯の中身には触れていないと言ったわね。だとすれば、あなたが受け取る前に、すでに毒は仕込まれていた。あなたに杯を渡した、その人の手によって」
「……そんな……」
トビアスは、両手で頭を抱え、椅子から崩れ落ちるように前のめりになった。
「私は……ただ、頼まれた通りに運んだだけだと……そう、思っていたのに……!」
声が、震えながら大きくなっていく。
「私が受け取ったあの杯には、もう……最初から……」
言葉にならない嗚咽が、部屋に響いた。自分が誰かの殺意をそのまま運んでいたという事実に、トビアスはようやく、正面から向き合わされていた。
「……教えて。あなたに杯を渡したのは、誰?」
エルディアの問いに、トビアスは長い沈黙のあと、震える声で答えた。
「……ヴィオレッタ様です」
その名前が、静かに部屋に落ちた。
ケインズワース侯爵邸を訪ねたのは、その日の夕刻だった。応接間に通されたエルディアの前に、ヴィオレッタは、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて現れた。
「ヴァレンティア公爵令嬢。今日は、どのようなご用件で?」
「単刀直入に伺うわ。夜会の日、控室で、給仕のトビアスに杯を渡したのはあなたね」
その瞬間、ヴィオレッタの表情から、笑みがすっと消えた。
「……何を、仰っているのか」
「トビアスは、あなたから杯を預かったと証言したわ。しかも、彼が受け取った時点で、すでに杯の中身は満たされていたと」
「そして、あの杯の破片からは、毒物の魔力残滓が検出されている。ヴィクトルが確認済みよ」
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。ヴィオレッタは、しばらく無言のまま、エルディアを見つめ返していた。その瞳の奥に、これまで一度も見せなかった、剥き出しの何かが揺れている。
「……証拠は、あるのでしょうか」
声は、かろうじて平静を装っていたが、わずかに震えていた。
「証拠なら、揃っているわ。配膳記録、トビアスの証言、そして――あなたのお家の事情も」
その一言に、ヴィオレッタの肩が、はっきりと強張った。
「……お家の、事情?」
「ケインズワース侯爵家の財政が、ここ数年、かなり厳しいという話。侯爵があなたに、この縁談へ並々ならぬ期待をかけていたという話も、耳にしているわ」
沈黙が、応接間を満たした。窓の外では、日が傾き始め、部屋の中に長い影が伸びていく。
ヴィオレッタは、しばらくの間、身動き一つせずに座っていた。やがて、ゆっくりと、まるで糸が切れたように、その表情から取り繕っていたものが剥がれ落ちていく。
「……あなたに、何が分かるというの」
低く、絞り出すような声だった。
「王太子妃候補という立場が、私にとって何を意味するか。この家がどれほど追い詰められているか――あなたのような、何不自由なく育ったお方に、分かるはずがないでしょう」
その声には、怒りとも、悲しみともつかない、複雑な感情が滲んでいた。
エルディアは、その言葉を静かに受け止めながら、まっすぐにヴィオレッタを見つめ返した。
「分からないかもしれない。でも――聞かせて。あなたが、何を背負って、あの夜、あの杯に手を伸ばしたのか」
夕暮れの光が、応接間の床にゆっくりと沈んでいく。ヴィオレッタは、長い沈黙のあと、ようやく重い口を開いた。




