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「エルディア様。少し、お話ししたいことが」
控えめな声でそう切り出したのは、ミアだった。夜会の夜、使用人たちの後片付けを手伝っていた彼女は、その場に居合わせた者にしか分からない、小さな違和感を覚えていたのだという。
「配膳の時、ヴィオレッタ様が、一人の給仕をじっと見ていたんです。ほんの一瞬でしたけど……あれは、ただの視線じゃなかった気がして」
「一人の給仕? 名前は分かる?」
「トビアスという方でした。控室から配膳台へ、飲み物を運ぶ係を任されていた人です」
その名を聞いた瞬間、エルディアの脳裏に、リゼットが示した一枚の記録が蘇った。フローレンスの杯だけが、他の候補者より十数分早く控室を出ていたという、あの記録。
「……その杯を運んでいたのが、トビアスだったの?」
「記録を確認します」
傍らにいたリゼットが、すぐさま書類をめくった。しばらくして、彼女は顔を上げる。
「はい。フローレンス様の杯を担当していたのは、トビアスです。間違いありません」
視線と、記録。二つの点が、ようやく一本の線として繋がった。
トビアスへの聴取は、王宮の使用人控室の一角で行われた。ノアが立ち会い、エルディアも同席する形を取った。
トビアスは、青ざめた顔で椅子に座っていた。手は膝の上できつく組まれ、時折、指先が小さく震えている。
「トビアス。単刀直入に聞く。フローレンス嬢の杯を、他の候補者より早く控室から運び出したのは、なぜだ」
ノアの問いに、トビアスはしばらく答えなかった。額に汗がにじんでいる。
「……分かりません。決められた通りにやっただけです」
「決められた通り、というのは?」
「配膳の担当は、その日その日で変わります。今回は、私がフローレンス様の杯を任されただけで」
「では、控室を出る時刻が他より早かったことについては?」
「……それは」
トビアスの声が、そこで詰まった。ノアは黙って、彼の反応を見つめている。エルディアは、静かに口を開いた。
「トビアス。あなたが何かを恐れているのは、見れば分かるわ。誰かを庇っているのなら、それは――とても危険なことよ」
「危険……」
トビアスは、その言葉に敏感に反応した。組んでいた手が、さらに強く握りしめられる。
「私は……本当に、殺すつもりなんて」
その一言が、ぽつりとこぼれ落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。ノアが身を乗り出す。
「今、何と言った?」
「……」
「殺すつもりなんて、と言ったな。それは、どういう意味だ」
トビアスは、観念したように、深く息を吐いた。両手で顔を覆い、しばらく肩を震わせていたが、やがて絞り出すような声で語り始めた。
「……夜会が始まる少し前、控室で、ある方から杯を預かりました。『これを、配膳台のこの位置に置いてほしい』と。それだけです。私は本当に、それだけしか頼まれていません」
「杯の中身には?」
「触れていません。触れる必要もありませんでした。すでに用意された杯を、指定の場所に置くだけの仕事でしたから」
「金は受け取ったのか」
その問いに、トビアスは長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「……はい。かなりの額を。実家に借金があって……その返済に、どうしても」
「その相手の名前を言いなさい」
エルディアが静かに、しかし強く迫った。トビアスは唇を震わせ、一度はエルディアと目を合わせたものの、すぐにまた俯いてしまう。
「……言えません」
「トビアス」
「私を……信じて、任せてくださった方なんです。まさか、あんなことになるなんて、私だって思ってもみませんでした。ただ、杯を運ぶだけの、簡単な頼まれごとだと」
その声には、後悔と恐怖が入り混じっていた。彼が語る限り、トビアス自身は、杯の中身が何であるかを知らされないまま、ただ運搬という役割だけを担わされていたことになる。
「あなたは、殺人の実行犯ではないかもしれない。でも、あなたが庇っている相手は、間違いなく、この事件の中心にいるわ」
エルディアの言葉に、トビアスは何も答えなかった。ただ、震える両手を強く握りしめたまま、うなだれている。
聴取を終えた後、廊下に出たエルディアは、ノアと顔を見合わせた。
「彼を動かした人物は、控室に出入りできて、給仕を金で動かせるだけの資金を持ち、しかも彼から強い信頼を得ていた者ということになる」
ノアの言葉に、エルディアは小さく頷いた。
(控室に出入りできた候補者――フレデリカ様は、機会も、そしてクロエが調べた家計の状況から見ても、給仕を金で動かせるほどの資金もなかった。だとすれば――)
名前が、喉元まで出かかっていた。だが、まだ確証はない。憶測だけで人を裁くわけにはいかない。
窓の外では、夕暮れの光が、王宮の廊下を橙色に染め始めていた。事件の輪郭は、ようやく一人の人物へと絞られつつある。
あと少しで、答えに手が届く。エルディアはそう感じながらも、その予感に、なぜか小さな寒気を覚えていた。




