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翌日、ヴァレンティア邸の一室には、いつになく重い空気が満ちていた。
テーブルの上には、昨夜の夜会の招待客名簿と、王宮から借り受けた配膳記録の写しが広げられている。それを覗き込んでいるのは、リゼットだった。眼鏡の奥の瞳が、細かな文字を追って忙しなく動いている。
「お待たせしました、エルディア様。王宮の配膳記録、写させていただきました」
「ありがとう、リゼット。それで――何か分かった?」
「まだ途中ですが……気になる点が」
リゼットは紙の束から一枚を抜き出し、テーブルの中央に広げた。そこには、候補者ごとの杯の識別番号と、控室から会場までの運搬経路、そして時刻が細かく記されている。
「候補者様方の杯には、それぞれの家紋が刻まれていて、第五系統の記録魔法で管理されているんです。誰が、いつ、どの杯を運んだか。給仕がどの経路を通ったか。すべて自動的に記録される仕組みになっていて」
「取り違えを防ぐためのものよね。それが、何か?」
「ええ。ほとんどの候補者様の杯は、控室から配膳台まで、決まった経路と時刻で運ばれています。ですが」
リゼットは、フローレンスの名が記された欄を指先で示した。
「フローレンス様の杯だけ、控室を出た時刻が、他の方より十数分早いんです。しかも、配膳台に届いた経路も、通常とは少し違っていて」
エルディアは、その一枚の紙を食い入るように見つめた。
「……それって、つまり」
「まだ何とも言えません。単なる手違いかもしれませんし。ただ、記録上、あの杯だけが、少し特別な扱いを受けていたのは確かです」
そこへ、扉を叩く音がして、ヴィクトルが姿を見せた。片手に、見慣れない魔導具を提げている。
「呼ばれて来たぞ。……で、あの杯の残留物、調べてほしいという話だったな」
「ええ。お願いできる?」
ヴィクトルは頷き、証拠品として保管されていた杯の破片――床に転がり割れたものの一部――を魔導具にかざした。淡い光が魔導具の表面に走り、やがて数値の羅列が浮かび上がる。
「うん……間違いない。毒物の魔力残滓が検出される。しかも、比較的新しい」
「新しいというのは?」
「魔力残滓というのは、時間が経つにつれて薄れていく性質がある。この減衰具合から見て、毒が杯に入れられたのは、夜会の直前から、開始して間もない頃までの範囲だろう」
「つまり、誰かがかなり早い段階から、あの杯に毒を仕込む機会を持っていたということ?」
「そういうことになる」
ヴィクトルは魔導具の数値を見ながら、さらに続けた。
「もう一つ、重要なことがある。この手の毒物は、遠隔から魔法で対象へ作用させることができない。直接、杯なり食べ物なりに触れて仕込む必要がある」
「遠くから、魔法で毒を飛ばすようなことは……」
「不可能だ。少なくとも、俺の知る限りの技術では」
その言葉に、エルディアは思わずリゼットと顔を見合わせた。
「つまり――犯人は、あの会場のどこかにいた。杯に直接触れられる場所に」
「そうなる。少なくとも、遠く離れた場所から糸を引いていた、というような話ではない」
沈黙が、部屋に落ちた。
これまで囁かれていた「隣国の対立勢力による遠隔的な暗殺」という説は、この一言によって、静かに足元を崩され始めていた。もし本当に公国内部の勢力が糸を引いていたとしても、その手足となる誰かが、あの会場に――しかも杯に触れられるほど近くに――いなければならない。
「使節団の誰かが、直接手を下したということ?」
エルディアがそう呟くと、リゼットが首を傾げた。
「使節団の方々は、フローレンス様の控室には近づいていません。名簿と警備記録を照らし合わせましたが、控室に出入りできたのは、担当の給仕と、あとは……候補者様方くらいです」
「候補者様方……」
その言葉に、エルディアの脳裏に、昨夜の光景がいくつか浮かんだ。明るく笑いながら近づいてきたヴィオレッタ。フローレンスに何かを耳打ちしていたフレデリカ。あるいは、誰も気に留めなかった給仕たちの姿。
「……政治的な陰謀、ではないのかもしれないわね」
思わずこぼれた呟きに、ヴィクトルが眼鏡を押し上げながら応じた。
「まだそうと決まったわけじゃない。ただ、少なくとも、話はもう少し単純――いや、もう少し、近い場所にあるのかもしれないな」
「近い場所?」
「隣国だ両国関係だと騒ぐ前に、まずはあの会場にいた人間を、一人ずつ疑ってみる必要があるということだ」
その言葉に、エルディアは小さく頷いた。だが、心のどこかで、まだ答えの糸口は見えていない。
控室に出入りできた人物は、限られている。だが、その中の誰が、どうしてフローレンスを――。
窓の外では、朝の光が静かに差し込んでいた。事件は、大きな政治の話から、少しずつ、人と人との間にある何かへと、輪郭を変えつつあった。
では、誰が。
その問いだけが、まだ答えのないまま、部屋の中に残されていた。




