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大広間は、混乱の坩堝と化していた。
悲鳴と、押し殺した囁き。誰かが泣き、誰かが震える声で祈りの言葉を唱えている。近衛の兵士たちが慌ただしく人々を大広間の端へと誘導し、フローレンスの遺体の周囲には、あっという間に人払いの縄が張られた。
「……毒だ」
誰かがそう呟いた。その一言は、確かな根拠もないまま、瞬く間に会場中へ広がっていった。
「毒ですって?」
「あの杯に、何か仕込まれていたのでは……」
「まさか、隣国の縁談を妬んだ誰かが」
誰も確かめたわけではない。それでも、囁きは止まらなかった。エルディアはレオンに支えられながら少し離れた場所へ移動し、そこでようやく息をついた。手のひらには、まだフローレンスの手の冷たさが残っている。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「……大丈夫よ。少し、驚いただけ」
声はいつもより固かった。レオンはそれ以上何も言わず、ただ黙って隣に立っていた。
しばらくして、王国捜査局の制服に身を包んだノアが、足早に大広間へ入ってきた。彼は現場に着くなり、遺体の周囲を検分し、転がった杯を布越しに拾い上げる。
「エルディア嬢。あなたが最初に駆け寄ったと聞きました」
「ええ。彼女の手を握った時には、もう……」
「そうですか」
ノアは短く頷き、周囲の近衛に指示を飛ばし始めた。会場内の全員の名前と立ち位置を記録すること、給仕たちを一人残らず控室へ集めること、杯という杯をすべて回収し、記録魔法による識別で持ち主を照合すること。
その手際の良さに、エルディアは場の混乱の中でも、いくらか落ち着きを取り戻した。
「毒物であることは、間違いないの?」
「まだ断定はできません。ですが、唇の色、瞳孔の反応、いずれも急性の中毒症状と一致します。詳しくは検死の結果を待つことになりますが……おそらくは」
ノアはそこで言葉を切り、周囲を一度見回してから、声を落とした。
「厄介なのは、これが王太子妃候補選定の場で、しかも被害者が隣国の令嬢だということです」
その懸念は、すぐに現実のものとなった。
会場の隅では、貴族たちが小声で囁き合っている。
「リンドグレーン公国の令嬢が王太子妃になれば、この国はあちらの影響を強く受けることになる。それを快く思わない者が、この国内にいたとしても不思議はない」
「いや、逆かもしれん。公国の内部にも、あの縁談に反対する派閥があると聞く。自国の令嬢を差し向けて、事を荒立てさせたということも」
二つの噂は、まるで示し合わせたかのように会場中へ広がっていった。国内の反リンドグレーン派による排除。あるいは、公国内部の対立勢力による、自国候補への妨害。どちらの説も、事件を「政治」という大きな枠組みの中へ押し込めていく。
リンドグレーン公国の使節団は、青ざめた顔で互いに何事か言葉を交わしている。その中の一人が、近くにいた王宮の役人へ詰め寄っているのが見えた。
「これは我が国への侮辱ではないのか! 一体、誰がこのような……!」
役人がなだめる声も、興奮した使節の耳には届いていないようだった。
夜も更けた頃、招待客の大半が帰された後、エルディアはようやく人心地ついていた。控えの間で外套を羽織っていると、扉が静かに開き、アルベルトが姿を見せた。
先ほどまで会場で見せていた、王太子としての整った表情はどこにもない。彼はひどく疲れた様子で、扉に軽くもたれかかった。
「……付き合わせて、すまなかったな」
「殿下」
「今は、その呼び方はやめてくれないか。今だけでいい」
その声には、これまで聞いたことのない疲労が滲んでいた。エルディアは少し迷ってから、頷いた。
「……アルベルト。あなた、顔色が悪いわ」
「そうだろうな」
アルベルトは短く笑い、それから真剣な表情に戻った。
「単刀直入に言う。この事件を、俺は表立って調べさせることができない」
「どういうこと?」
「今すぐにでも、リンドグレーン公国の使節を疑って捜査を始めれば、それだけで両国の関係は決定的に壊れる。逆に、我が国の貴族の誰かを公然と疑えば、国内の勢力争いに火をつけることになる。王太子として、俺がどちらかに肩入れした瞬間に、この一件は事件そのものよりも大きな問題になる」
アルベルトは一度言葉を切り、エルディアをまっすぐに見た。
「王太子として正しい判断と、人間として正しい判断は、必ずしも同じではない。……それを、これほど嫌だと思ったことはない」
その言葉に、エルディアは思わず息を呑んだ。いつも冷静で、感情を表に出さないアルベルトが、今はひどく人間らしい苛立ちを滲ませている。
「ノアには正式に捜査を任せる。だが、彼にも――王家の体面に関わる部分には、踏み込みにくい事情がある。だから」
「だから、私に?」
「ああ。個人としての君に、頼みたい」
アルベルトはそう言って、深く頭を下げた。王太子が、公爵令嬢に頭を下げるなど、本来あってはならないことだった。
「頭を上げてちょうだい。そんなことをされたら、こちらが困るわ」
エルディアは思わず口早にそう言うと、扇子を軽く開いて、動揺を隠すように口元へ当てた。
「……分かったわ。あなたが表立って動けないというなら、私が代わりに動く。ただし」
「ただし?」
「これは、あなたのためではなく、フローレンス様のためよ。誰かが政治の都合で、彼女の死をうやむやにするなら――私はそれを、絶対に見過ごさない」
アルベルトは、その言葉に驚いたように目を見開き、それからようやく、いつもの表情に近いものを取り戻した。
「……君は、本当に変わらないな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
控えの間を出た後、エルディアは廊下の窓から、まだ明かりの灯る大広間を見下ろした。事件は、すでに一人の令嬢の死という枠を越え、二つの国の関係にまで影を落とし始めている。
その大きさに、正直なところ、足がすくむ思いがした。だが、フローレンスの冷たくなった指先の感触は、まだ手のひらに残っている。
「政治は、人の死より大きいものかしら」
誰に問うでもなく、エルディアは小さく呟いた。窓の外には、夜の帳が静かに下りていた。




