26
悲鳴で目が覚めた。
エルディアが上体を起こすのと、廊下を誰かが駆けていく足音が重なるのはほぼ同時だった。窓の外はまだ薄暗い。夜明け前の、灰色がかった光が部屋を満たしている。
「お嬢様!」
ノックもそこそこに、ミアが顔を青くして飛び込んできた。
「花嫁の間で……フィオナ様が……」
最後まで聞かずに、エルディアはガウンを羽織って部屋を飛び出していた。
花嫁の間へと続く廊下には、すでに使用人たちが集まっていた。誰もが青ざめ、口元を手で覆い、言葉少なに互いの顔を見合わせている。人垣の隙間から、開け放たれた扉の向こうが見えた。
部屋の中は、異様なほど冷え切っていた。
暖炉には燃え尽きた薪の残骸があるのに、空気は外の雪よりもなお冷たく感じられる。窓は固く閉ざされ、内側から結露が凍りついたように白く曇っていた。
寝台の上に、フィオナが横たわっていた。
純白の夜着のまま、目を閉じ、まるで眠っているかのように見える。けれど、その頬には、氷の結晶のような薄い霜が張りついていた。唇は紫がかった色に変わり、投げ出された指先の一本一本にまで、凍傷めいた白い痕が浮いている。
エルディアは一瞬、息が止まった。
昨夜、廊下で交わした言葉が、頭の中で鮮明に蘇る。
(この結婚を、少しも怖いと思わないと言えば、嘘になります)
(怖いのなら、怖いと言っていいと思うわ)
あれが、最後の会話になるとは思わなかった。
喉の奥に苦いものがせり上がってくるのを、エルディアは奥歯を噛んで堪えた。顔から血の気が引いていくのが自分でも分かる。けれど、ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
(……誰が、何をしたのか。調べましょう)
震えそうになる手を、ドレスの裾を握ることで押さえつける。それでも視線だけは、決して逸らさなかった。
「……誰も、入れなかったはずです」
背後から震える声がした。振り返ると、ギルバートが扉の縁に手をかけたまま、呆然とした顔でそこに立っていた。
「昨夜、私自身が封印を施しました。フェザーストン家の血を引く者以外には、この扉は開けられません。窓にも、外から破られた形跡は……」
言葉を切り、ギルバートは扉の周囲に視線を這わせる。エルディアもそれに倣った。木枠にも、蝶番にも、こじ開けられたような傷はない。窓硝子にも罅一つ入っていなかった。
「本当に、誰も入っていないと?」
「はい……。少なくとも、この私が知る限りでは」
悲鳴を聞きつけて駆けつけたセオドアが、部屋の入り口で崩れ落ちるように膝をついた。
「フィオナ……そんな、まさか」
その声には、確かな悲嘆があった。ただ、エルディアはふと、その横顔に一瞬だけ過ぎった別の感情に気づいてしまった。悲しみとは少し違う、戸惑いにも似た何か。すぐに悲嘆の色に塗り替えられてしまったけれど、見なかったことにはできなかった。
アガサ伯爵夫人が到着したのは、それから間もなくのことだった。夫人は寝台に横たわる娘を一目見るなり、大きく息を呑んだ。
「……やはり」
消え入りそうな声で、そう呟く。
「やはり、あの子は選ばれてしまったのね……」
「選ばれた、とは?」
エルディアが問うと、アガサ夫人は虚ろな目をこちらへ向けた。
「昨夜、セシル様がお話しになったでしょう。愛のない結婚を、白い花嫁の霊が拒む、と……。セオドアは、フィオナを愛していなかった。だから、あの子が選ばれてしまった」
「夫人」
窘めるように名を呼んだのはセシルだった。いつの間にか部屋の入り口に立ち、静かにその光景を見つめている。
「今はまだ、何も分かっておりません。憶測で語るべきではないでしょう」
セシルの声はいつも通り穏やかだったが、その目は寝台の少女を、そして凍りついた窓を、注意深く観察していた。怪異を語る司祭でありながら、その視線には一切の熱がない。ただ静かに、事実だけを見ている。
その落差に、エルディアは奇妙な安堵を覚えた。
やがて、使用人たちの間で、ある言葉がひそやかに囁かれ始めた。
「……また、あの方がいらしたときに」
「悪役令嬢様が、この屋敷にいらっしゃったから……」
声は小さかったが、エルディアの耳には届いていた。振り返ると、囁いていた侍女たちは慌てて目を伏せ、そそくさとその場を離れていく。
昨夜クロエが言っていた言葉が、皮肉にも思い出された。
(噂は入口。今夜、あなたがどう振る舞うかで、その先の話が決まるのよ)
まだ何も振る舞ってすらいないのに、もう噂は生まれていた。
拳を握りしめたエルディアの肩に、そっと手が置かれた。
「大丈夫か」
レオンだった。いつからそこにいたのか、彼はエルディアの背後に立ち、噂話をしていた侍女たちの方を一瞥してから、静かに言った。
「気にするな。お前は何もしていない」
「分かっているわ」
答える声は、思ったより硬くなってしまった。分かっている。分かっているのに、胸の奥がざわつくのを止められない。
クロエが屋敷中を駆け回り、最初に発見した使用人から詳しい話を聞き出していた。ミアもまた、青ざめながらも、他の侍女たちの様子をそれとなく窺っている。
「王都に使いを出しましょう」
そう言ったのはセシルだった。
「これは、私たち聖典教会の管轄で片付けられる話ではありません。王国捜査局に、正式な検分を依頼すべきです」
アガサ夫人は一瞬躊躇う素振りを見せたが、セオドアが力なく頷いたことで、その場は収まった。
「……お願いします」
その日の昼過ぎ、白鳥館に一台の馬車が到着した。
降り立ったのは、見覚えのある黒髪の青年だった。
「ノア」
エルディアが思わず呟くと、ノア・グレイは軽く会釈を返した。
「王国捜査局から、正式に派遣された。事情は道中である程度聞いている」
その視線が、一瞬だけエルディアの上に留まる。詮索するような、けれど非難するのとも違う、事実だけを見定めようとする目だった。
「――お前が、何かをしたとは思っていない。だが、状況は聞かせてもらう」
「望むところよ」
エルディアは胸を張り、まっすぐにノアを見返した。
冷え切った屋敷の奥で、まだ誰も踏み込めていない真実が、静かに息を潜めている。エルディアはそれを、確かに感じ取っていた。




