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雪は、王都を出て北へ半日も馬車を走らせた頃から、ようやく本物になった。
窓の外を白く塗り潰していく景色を眺めながら、エルディア・ヴァレンティアは小さく息を吐いた。
「そんなにため息をつくなら、来なければよかったのに」
向かいに座るレオン・ハルトマンが、片眉を上げてからかうように言う。エルディアは扇を軽く握り直し、彼をひと睨みした。
「クロエに誘われて、断れる雰囲気だったと思う?」
「思わないな。あいつ、笑顔のまま逃げ道を全部塞ぐタイプだから」
その通りだった。数日前、クロエ・フォン・ローゼンは扇子の陰で目を細めながら、こう言ったのだ。
「あなた、せっかく潔白が証明されたのに、屋敷に閉じこもってばかりじゃない。フェザーストン家の婚約披露、ちょうどいいわ。あなたが元気に社交界に戻ってきたところを、みんなに見せてあげましょう」
善意だということは分かっている。分かっているからこそ、断りづらかった。
馬車が停まったのは、「白鳥館」と呼ばれるフェザーストン伯爵家の別邸だった。夏には避暑地として、冬にはこうして親族や親しい家々を招いての集いの場として使われているのだと、道中でミア・ベルナールが教えてくれた。
「立派なお屋敷ですね、お嬢様」
馬車を降りたミアが、白く輝く外壁を見上げて呟く。エルディアも頷いた。石造りの本館は、雪化粧のせいでどこか作り物めいて見える。
「ここまで雪深いと、庭師も苦労しそうね」
「その通りでございます、ヴァレンティア様」
声をかけてきたのは、初老に差し掛かったくらいの、物腰の柔らかい男だった。
「フェザーストン家で家扶を務めております、ギルバートと申します。本日はようこそお越しくださいました」
深々と頭を下げる仕草には、長年この屋敷を切り盛りしてきた者だけが持つ落ち着きがあった。
「案内いたします。足元が悪うございますので、どうぞお気をつけて」
広間はすでに、着飾った招待客たちの華やかな声で満ちていた。エルディアが姿を見せると、一瞬だけ視線が集まり、そしてすぐに散っていく。以前のように、あからさまに囁き合われることはなかった。それでも、完全に消えたわけでもないのだと、エルディアは肌で感じていた。
「気にしないことね」
いつの間にか隣に来ていたクロエが、扇の陰で囁いた。
「あなたが処刑されかけて、それでも真犯人を暴いたことは、みんなちゃんと知っているわ。噂は入口。今夜、あなたがどう振る舞うかで、その先の話が決まるのよ」
「随分な言い草ね」
「褒めているのよ」
クロエは悪びれもせず笑い、それから広間の奥へと視線を向けた。
「ほら、主役の登場よ」
フェザーストン伯爵家の嫡男セオドアが、婚約者だという娘の手を取って現れた。娘の名はフィオナ・レイクウッドというらしい。子爵家の令嬢で、控えめな微笑みを浮かべてはいるが、その笑みのどこかに、張り詰めた糸のような硬さがあるのをエルディアは見逃さなかった。
伯爵夫人アガサが、満足げに二人を見つめている。
「この結婚が、両家にとって良き未来をもたらしますように」
拍手が広間を満たす。エルディアもそれに倣いながら、フィオナの伏せがちな目元から視線を外せずにいた。
宴もたけなわになった頃、司祭衣を纏った男が広間の中央に進み出た。
「皆様、少しばかりお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
柔らかく、けれどよく通る声だった。エルディアは思わず身を強張らせる。
「……セシル・クロフォード」
小さく呟いた声を拾ったのか、レオンが苦笑した。
「相変わらず苦手そうだな」
「苦手なのではなく、警戒しているだけよ」
セシルは穏やかな笑みを浮かべたまま、集まった視線を受け止めている。
「フェザーストン家にお招きいただいた聖典教会の者として、この屋敷に伝わる、ある言い伝えをお話ししたいと思います。せっかくの婚約披露の場に、少々不釣り合いかもしれませんが」
アガサ夫人が小さく頷く。どうやら承知の上らしい。
「今から百年ほど昔、この白鳥館で、一人の花嫁がおりました。彼女もまた、この屋敷の『花嫁の間』で夜を過ごし――そして翌朝、凍えるように冷たくなって発見されたのです」
広間がわずかにざわめく。
「原因は、今なお分かっておりません。ただ、この一族には言い伝えが残っております。愛のない結婚を、白い花嫁の霊が拒む、と」
「まあ」
クロエが扇の下で目を輝かせた。
「それは、興味深い話ね」
「怖いですか?」
セシルが、そう言って首を傾けた先は――なぜかエルディアの方だった。
「……別に」
強がって答えたエルディアの声は、我ながら少し上ずっていた気がする。
夜が更け、宴が終わりに近づく頃、屋敷の奥では小さな儀式が執り行われた。フィオナが「花嫁の間」へと案内され、扉の前でギルバートが古い言葉を唱えると、扉の周囲にほのかな光の紋様が浮かび上がり、静かに消えていく。
「これで、朝までは誰も開けることはできません。この封印を解けるのは、フェザーストン家の血を引く者だけと決まっておりますので」
ギルバートが淡々と説明する。
「血族にのみ許された、花嫁を災いから守るための封印でございます」
澱みのない口ぶりだった。長年この屋敷に仕えてきた家扶にしては、その所作や唱えた言葉の一つ一つに、妙な馴染み方をしているようにも見える。
(代々伝わる儀式なのだから、詳しくて当然か)
エルディアはそう思い直し、それ以上は気にも留めなかった。
扉を見つめながら、彼女は先ほどの言葉を思い出していた。
宴の帰り際、廊下でフィオナと二人きりになる瞬間があった。彼女はエルディアに気づくと、慌てて笑みを作った。
「ヴァレンティア様。今夜は、ありがとうございます」
「別に、お礼を言われるようなことは何もしていないわ」
素っ気なく返すと、フィオナは少し驚いたように瞬きをして、それからふっと表情を緩めた。
「……不思議です。もっと近寄りがたい方だと伺っていたのに」
「聞いていた話と違って、がっかりしたかしら」
「いいえ」
フィオナは小さく首を振り、それから視線を落とした。
「この結婚を、少しも怖いと思わないと言えば、嘘になります」
その声には、先ほどまでの作り物めいた笑みとは違う、素の響きがあった。エルディアは何と答えるべきか一瞬迷い、けれど結局、素直な言葉を選んだ。
「怖いのなら、怖いと言っていいと思うわ。誰に対しても、無理に笑う必要なんてない」
フィオナは驚いたようにエルディアを見つめ、それから小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その夜、エルディアに与えられた客室のベッドに横たわりながら、彼女は天井を見上げていた。窓の外では、雪が音もなく降り続いている。
(怖い、か)
自分のことでもないのに、フィオナの言葉が耳の奥に残っていた。
(別に、何も起きやしないわ。ただの言い伝えでしょう)
そう自分に言い聞かせながらも、瞼を閉じたエルディアの脳裏には、セシルの穏やかな、けれどどこか楽しげな声が、いつまでも消えずに残っていた。
「怖いですか?」
――その問いに、まだ答えを出せていないことに、エルディアは気づかないふりをした。




