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ヴァレンティア公爵邸の書庫に、再びエルディアが足を踏み入れたのは、事件から十日目のことだった。
傍らにはノア、そしてレオンが付き添っている。王宮預かりの身であっても、正式な立会いの下でならば、現場を訪れることは許されていた。窓から差し込む昼の光が、あの夜と同じ部屋を、まるで別の場所のように照らしている。
呼び出されたセドリックは、いつもと変わらぬ穏やかな表情で入室してきた。
「お嬢様。お呼びと伺いましたが……」
「セドリック」
エルディアは、感情を抑えた声でその名を呼んだ。
「事件当夜、あなたがどこにいたのか。もう一度、教えてちょうだい」
「以前申し上げた通りでございます。書斎で、翌日の来客対応の準備をしておりました」
淀みのない返答だった。長年、この家に仕えてきた者だけが持つ、揺るぎない物腰。だが、エルディアはもう、その言葉をそのまま受け取ることはできなかった。
「では、これはどう説明するの?」
エルディアは手にしていた書類を、静かに机の上に置いた。事件当夜、悲鳴が上がるおよそ一刻前――書庫の施錠魔法が、正規の権限によって解除された記録。その権限の持ち主として、セドリックの名が明記されていた。
セドリックの表情が、わずかに強張った。だが、それも一瞬のことだった。
「……それは、何かの間違いでは」
「間違いではないわ。記録院の記録と照合済みよ。あなたの証言と、この解除記録は、明確に食い違っている」
セドリックは、それでもなお、微笑みを崩さなかった。
「記録の不具合は、時折起こるものです。以前も、退任した使用人の権限が誤って残っていたことがございましたでしょう」
「そう、あの時は、あなたが自分からその不備を教えてくれたわね」
エルディアは、その言葉に静かな棘を含ませた。
「でも、今度のものは違う。あなた自身の権限による、事件当夜の解除記録。これは、誰かの記載ミスでは説明がつかない」
セドリックは口を閉ざした。その沈黙が、これまでの言葉よりも、雄弁に何かを語っていた。
「もう一つ、聞かせてちょうだい」
エルディアは続けた。
「ヴォルク様の帳簿から、使途のはっきりしない支出が、複数回発生している。その時期は――あなたの実家、ラングフォード家の資産が急に増えた時期と、綺麗に重なっている」
「……偶然、ということもございましょう」
「かもしれない。一つ二つなら、偶然で済ませられたかもしれないわ」
エルディアは、セドリックの目を真っ直ぐに見据えた。
「でも、鍵の頻繁な持ち出し。破棄された帳簿のページ。使途不明の支出と実家の資産。証言と解除記録の矛盾。……これだけ揃って、まだ偶然だと言い張るつもり?」
部屋に、長い沈黙が落ちた。
セドリックは、しばらくの間、微動だにしなかった。だが、やがて――その口元から、いつもの穏やかな笑みが、ゆっくりと消えていった。
「……いつから、お気づきに?」
その声は、これまでとはまるで違う響きを帯びていた。低く、乾いた、初めて聞く声だった。
「はっきりと確信したのは、つい先日よ。でも、違和感自体は、ずっと前からあった。あなたが、まるで私を助けるかのように、証拠のかけらを差し出してきたこと。……あれは、本当に善意だったのかしら」
「――さすがでございますね、お嬢様」
セドリックは、静かに、深く息を吐いた。
「ええ、その通りです。ヴォルク殿を手にかけたのは、私です」
その告白に、部屋の空気が凍りついた。ノアが一歩前に出ようとするのを、エルディアはわずかに手で制した。
「理由を、聞かせてちょうだい」
「……長年、公爵家の会計を任されておりました。その中で――弟の借金の肩代わりから始まり、いつしか、着服に手を染めるようになりました。最初は、ほんの少しのつもりでした。それが、気づけば、取り返しのつかない額にまで膨れ上がっておりました」
セドリックの声は、感情を抑えているようでいて、どこか諦めきったものが滲んでいた。
「ヴォルク殿は、監査の中で、その不審な点に気づかれました。あの方は、決して見過ごすような方ではありませんでした。……このままでは、全てが露見する。公爵家に、取り返しのつかない不名誉をもたらすことになる。そう思った時、私は――」
「口を封じようと、思ったのね」
「はい」
セドリックは、それ以上言い訳をしようとはしなかった。
「あの夜、監査資料の確認と偽って、書庫に伺いました。ヴォルク殿と二人きりになったところで……治癒魔法を、悪用いたしました。詳しくは、申し上げられません。あってはならないことです」
「……そして、私に罪が向かうよう、仕向けたの?」
その問いに、セドリックは初めて、わずかに視線を伏せた。
「いいえ。それは、私が意図したことではございません」
「意図していない?」
「お嬢様が昼間、あの部屋で感知魔法を使われていたことは、私は知りませんでした。記録画にお嬢様らしき姿が映っていたと知った時――正直に申し上げれば、私にとって、これ以上ない好都合でした。だから、私は、それを否定しませんでした。むしろ、疑いがお嬢様に向かうよう、黙って見ていた。それだけです」
その言葉に、エルディアの中に、静かな怒りが込み上げた。それは、直接手を下したこと以上に、重く感じられた。
「あなたは、自分の罪から逃れるために、私が処刑されるかもしれないという事実を、黙って見過ごすつもりだったのね」
「……申し訳ございません」
「傷つけるつもりがなかったから、罪が消えるとでも思って?」
エルディアの声は、静かでありながら、凍るように冷たかった。
「あなたは、私を殺そうとしたわけではない。それは分かるわ。でも、あなたは確かに、私が処刑台に立つことを、選択肢の一つとして受け入れていた。それは、直接手を下すこととは違う。でも、同じくらい、許されないことよ」
セドリックは、何も言い返さなかった。ただ、深く頭を垂れるだけだった。
「……お受けいたします、どのような裁きも」
その声には、もはや、これまでの穏やかさは残っていなかった。
ノアが静かに前に出て、セドリックの身柄を拘束する手続きを進め始めた。エルディアはその様子を、最後まで、目を逸らさずに見届けた。
セドリックが連行された後、書庫にはエルディアとレオン、そしてノアだけが残された。
「エルディア」
レオンが、静かに声をかけた。
「大丈夫か」
「……分からない」
エルディアは、正直にそう答えた。
「安心していいはずなのに、何も晴れやかな気持ちにはならないわ。長年、家族のように信じていた人が、あんな理由で、あんなことをしていたなんて」
「それでも、お前は最後まで、目を逸らさなかった」
「怖かったわ。……今も、少し怖い」
エルディアは、窓の外に視線を向けた。事件のあった夜と同じ書庫。だが、そこに満ちていた恐怖は、少しずつ、別の何かへと変わり始めていた。
「でも、ノアが言ったこと、覚えている? モロー侯爵とヨランダの件」
「ああ」
「あちらの決着も、まだついていないわ」
エルディアは、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「私が処刑されるかもしれないという恐怖は、今日、終わったかもしれない。でも――この評判が、これからも誰かに利用され得るということは、変わらない。だったら、そこにも、私は目を向けなければならないと思うの」
ノアは、その言葉に小さく頷いた。
「ヨランダについては、引き続き取り調べを行う。モロー侯爵の件も、正式な報告書としてまとめる」
「お願いするわ」
燭台に火を灯すこともなく、書庫には、昼の光だけが静かに差し込んでいた。
一つの事件は、確かに終わろうとしている。
けれど――エルディアには、まだ一つだけ、納得できないことがあった。
あの記録画に、なぜ自分の姿が映っていたのか。セドリックは「知らなかった」と言った。ならば、あれは本当にただの偶然だったのか。
そして、なぜヨランダは、あの暗い廊下で、自分の顔をあれほどはっきりと見たと言い切れたのか。セドリックの告白だけでは、その二つの疑問には、まだ答えが出ていない。
「……まだ、終わっていないわね」
エルディアは、静かにそう呟いた。




