21
翌日、ノアが険しい顔で王宮の一室を訪れた。手には一枚の書状を携えている。
「エルディア嬢。裁判の日程が、正式に決まった」
その一言に、部屋の空気が凍りついた。
「……いつ?」
「十日後だ。証拠が出揃い次第、それより早まる可能性もある」
十日。長いようで、あまりにも短い。エルディアは膝の上で、拳をきつく握りしめた。
「分かったわ。……それで、今日は何か進展があって来たのでしょう」
ノアはわずかに目を細めた。この状況でも先を急ごうとするエルディアの態度に、慣れてはいても、いまだに驚かされるものがあるらしい。
「ああ。ヨランダ・ペインの身辺について、詳しいことが分かった」
「ヨランダの……」
「彼女が半年前、王都の紹介所を通じて雇われたことは、以前話した通りだ。その紹介所の経営者について調べたところ――以前、グスタフ・モロー侯爵家に使用人として仕えていた人物だと分かった」
「モロー侯爵……」
その名前に、エルディアの背筋が冷える。裁判の早期実施を最も強硬に主張しているという、あの侯爵だ。
「つまり、ヨランダは」
「まだ断定はできない。紹介所の経営者と、現在のモロー侯爵家との間に、実際どの程度の繋がりが残っているのかも分かっていない。ただの偶然という可能性も、捨てきれない」
その言葉に、リゼットが手元の資料をめくりながら口を開いた。
「もしそうだとすれば、あの夜の証言――『深夜、廊下でエルディア様を見かけました』というものも、意図的な偽証だった可能性が出てきます」
「偽証……」
エルディアは、ようやくその線が繋がっていくのを感じた。あの夜、あれほど断定的に「エルディア様だった」と言い切った理由。暗がりの中で、他の誰よりもはっきりと顔を見たと言った、あの不自然さ。
「だったら――」
エルディアは、思わず身を乗り出した。
「ヨランダが、モロー侯爵の指示で、私を陥れるために、あの夜のことを仕組んだ、ということ? 書庫でヴォルク様を手にかけ、その罪を私に着せようとした――」
その可能性が、頭の中で急速に組み上がっていく。政敵の思惑、送り込まれた間者、偽りの証言。筋書きとしては、十分に成立するように思えた。
だが、ノアは静かに首を横に振った。
「その線には、一つ大きな穴がある」
「穴?」
「ヨランダには、書庫の施錠魔法を解除する権限がない」
その一言に、エルディアは言葉を失った。
「彼女は半年前に雇われたばかりの、下働きのメイドだ。使用人としての立場では、施錠魔法の解除権限は与えられていない。無理やり破ろうとすれば、術式に痕跡が残る。だが、書庫の扉には、そうした強引な解除の痕跡は一切なかった」
「……つまり」
「あの夜、書庫の鍵を、正規の手順で解除できた人間でなければ、犯行そのものが成立しない。ヨランダには、それができない」
部屋に、重い沈黙が下りた。エルディアは、自分が一瞬でも組み立てた筋書きが、静かに崩れていくのを感じた。
「……では、ヨランダは何のために、あんな偽証を?」
「そこが、まだ分からない」
ノアは腕を組み、慎重に言葉を選びながら続けた。
「一つ考えられるのは、ヨランダ自身は殺人には関与していない、ということだ。彼女の役割は、あくまで――君に不利な証言を作り出すことだけだったのかもしれない」
「証言を作り出す……」
「もしそうなら、彼女は殺人そのものとは別に、誰かの指示で動いていたことになる。モロー侯爵からの指示なのか、それとも、また別の誰かからなのかは、まだ分からない」
「誰かからの指示……」
エルディアの脳裏に、一つの可能性がよぎった。それを言葉にするのは、まだ怖かった。だが、口をつぐんでいても、事態は進まない。
「……ノア。もし、犯行そのものを行える立場の人間と、私を陥れたい思惑を持つ人間が、別々に存在していたとしたら?」
ノアが、鋭くエルディアを見た。
「つまり、実行犯とヨランダは、繋がっていない、と?」
「分からないわ。ただ――もしそうだとしたら、この事件は、一つの意図で動いているのではなく、複数の思惑が、たまたま重なり合っているのかもしれない」
その仮説に、部屋の全員が、しばし言葉を失った。単純な一本の筋書きではなく、複数の糸が絡み合っている可能性。それは、事件をより複雑にすると同時に、真相に近づくための、新しい視点でもあった。
「……いずれにせよ」
ノアが静かに口を開いた。
「今の段階で分かっているのは、二つだ。一つ、ヨランダの証言には、何らかの意図的な操作があった可能性が高い。二つ、実際に犯行を行えたのは、施錠魔法を正規に解除できる、ごく限られた人間だけだ」
「限られた人間……」
エルディアの頭の中に、再びその名前が浮かんだ。振り払おうとしても、消えてはくれなかった。
「エルディア嬢」
ノアが、いつになく静かな声で言った。
「まだ、断定はするな。証拠は、まだ足りない」
「……分かっているわ」
エルディアは短く答えた。だが、心のどこかで、時間が刻一刻と削られていく感覚を、拭うことができなかった。裁判まで、あと十日。
その夜、遅くまで一人で資料を見返していたエルディアの元に、ミアが小さな盆を運んできた。
「お嬢様、少しでもお休みください」
「ありがとう、ミア」
温かい湯気の立つカップを受け取りながら、エルディアはふと、視線を上げた。
「ミア。あなたは、セドリックのこと、どう思う?」
唐突な問いに、ミアは一瞬戸惑ったようだったが、やがて、ゆっくりと答えた。
「……分かりません。ずっとお仕えしてきた方ですし、いつも優しくしてくださいます。でも……」
「でも?」
「最近、少しだけ、いつもと違う気がすることがあるんです。うまく言葉にできないのですが……何と言いますか、いつもより、笑顔が硬いような」
その言葉に、エルディアは静かに目を伏せた。
「そう。……ありがとう、ミア」
窓の外、月は雲の切れ間から、細く弱い光を投げかけていた。
まだ何も確定していない。それでも、時間は容赦なく過ぎていく。エルディアは、カップの中の湯気が消えていくのを、じっと見つめ続けていた。




