20
翌朝、ヴィクトルとリゼットが揃って王宮の一室を訪れた。二人とも、昨夜のうちに何かを掴んだような、張り詰めた表情をしている。
「エルディア嬢。帳簿の件で、少し進展があった」
ヴィクトルはそう切り出すと、机の上に古びた帳簿の束を広げた。ヴァレンティア公爵家の会計記録――ヴォルクが監査のために持ち出していたものの写しだという。
「記録院の複製記録と照らし合わせてみた。すると、妙なことが分かった」
「妙なこと?」
「この帳簿、原本では、三か月前から先月にかけての収支のうち、いくつかのページが物理的に欠けている。だが、記録院に提出されていた複製記録には、そのページの内容がきちんと残っていた」
リゼットが補足するように続けた。
「つまり、記録院への提出後――おそらくヴォルク様がこの邸に持ち込んだ後に、原本の該当ページだけが、意図的に破棄された可能性が高いということです」
「意図的に……」
エルディアはその言葉を繰り返した。単なる保管の不備ではない。誰かが、都合の悪い記録を消そうとした痕跡だ。
「複製記録の中身は?」
「今、突き合わせている最中だ。ただ、一つだけ先に分かったことがある」
ヴィクトルは、帳簿の複製記録の一ページを指し示した。
「この時期、公爵家の運営費から、使途がはっきりしない支出が、何度か発生している。金額としては、決して小さくない」
「使途がはっきりしない……それが、誰の懐に入ったかまでは?」
「そこまでは、まだ分からない。この支出そのものが、誰かの不正を直接示しているとは言い切れない。ただの記載漏れという可能性も、まだ捨てきれていない」
ヴィクトルは慎重にそう付け加えた。エルディアは小さく頷いた。まだ、点と点をつなぐ線は見えていない。
「分かったわ。……それでも、確かに引っかかる符合ではあるわね」
そう言葉にした矢先、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします、お嬢様」
入ってきたのは、ミアだった。世話係として王宮に同行して以来、彼女はこまめにエルディアの様子を見に来てくれている。
「ミア、どうかしたの?」
「あの……お耳に入れておいた方がいいかと思いまして」
ミアは少し躊躇うような素振りを見せてから、意を決したように口を開いた。
「最近――といっても、事件の少し前からなのですが。セドリックさんが、書庫の鍵を頻繁に持ち出していたのを、何度か見かけたことがあるんです」
「セドリックが?」
エルディアは思わず聞き返した。家令である以上、書庫の鍵を扱うこと自体は不自然ではない。だが、「頻繁に」という言葉には、引っかかるものがあった。
「はい。いつもは、必要な時だけお持ちになるのですが……ここ最近は、夜にも何度か鍵を持って書庫へ向かわれる姿を、見かけました。もちろん、監査のご準備で忙しいのだろうと思って、特に気にしていなかったのですが」
「……そう。教えてくれてありがとう、ミア」
「いえ……あの、変なことを申し上げていたら、申し訳ございません」
「ううん。今は、どんな小さなことでも知りたいの」
エルディアはそう言いながら、頭の中にいくつかの点が浮かんでは消えていくのを感じていた。まだ、それらを一本の線として結ぶ確信はない。
その日の夕方、もう一人の訪問者があった。カイ・レヴァントだった。
「エルディア嬢、久しぶりだな。……こんな形で顔を合わせることになるとは思わなかったが」
「カイ。よく来てくれたわね」
「情報屋としての性分でね。こういう時こそ、役に立たないと」
カイは軽い口調で言いながらも、その目は真剣だった。
「実は、ちょっとした噂を耳にした。ラングフォード家――エルディア嬢のところの家令、セドリックの実家についてだ」
「セドリックの実家?」
「ああ。元々は決して裕福な家じゃなかったはずなんだが……ここ最近、羽振りが良くなっているという噂がある。弟の結婚支度を派手に整えたとか、田舎の家を建て直したとか、そういう話だ」
その言葉に、エルディアは息を呑んだ。使途のはっきりしない支出。頻繁な鍵の持ち出し。そして、実家の羽振りの良さ。
「……カイ、その噂は、どのくらい確かなの?」
「まだ噂の段階だ。裏は取れていない。金の出所がどこなのかも、まだ分かっていない。似たような話が複数の筋から出ている、というだけだな」
「そう……ありがとう」
エルディアは礼を言いながらも、胸の奥に重いものが広がっていくのを感じていた。
帳簿の不自然な支出と、ラングフォード家の資産の増え方。時期としては、確かに重なって見える。だが、それが本当につながっているのか、それとも単なる偶然なのか――今の段階では、まだ判断がつかない。
セドリックは、幼い頃から自分を見守ってきた人だ。彼が来た時、あんなに親身になって、施錠魔法の記録の不自然さまで教えてくれた。
――それとも、あれは。
まさか、という思いと、そうかもしれない、という思いが、心の中でせめぎ合う。だが、エルディアはすぐに、その揺れを一つの答えに決めつけてしまわないよう、自分に言い聞かせた。まだ何も確かめていない。疑うことと、決めつけることは違う。
「エルディア様?」
リゼットの声に、エルディアは我に返った。
「……ごめんなさい、少し考え事をしていたの」
「大丈夫ですか」
「ええ。ただ――」
エルディアは、机の上に広げられた帳簿の複製記録に、もう一度目を落とした。
「もう少し、詳しく調べてほしいことがあるの」
「何でしょう」
「書庫の施錠魔法を解除できる権限を持っているのは、誰と誰なの? 家族以外で」
リゼットが少し考えてから答えた。
「家族以外では、基本的にセドリック様に限られるはずです。ただ……正直に申し上げると、権限の記録そのものが、いつ最後に更新されたのか、まだ正確には確認できていません。もしかしたら、他にも権限を持つ、あるいは持っていた人物がいる可能性は、完全には否定できません」
「……そう」
その答えに、エルディアの中で、疑いはより強くなった。だが同時に、断定するにはまだ早いという冷静さも、かろうじて残っていた。
「分かったわ。権限の記録についても、引き続き調べてちょうだい」
「承知いたしました」
夜になり、部屋に一人残されたエルディアは、格子窓の外を見つめていた。
マルタの曖昧な証言。ヨランダの不自然なまでに断定的な証言。破棄された帳簿のページ。使途のはっきりしない支出。頻繁な鍵の持ち出し。実家の羽振りの良さ。そして、施錠魔法を解除できる、限られた――だが、まだ完全には絞り切れていない人間関係。
これらの情報を、どう組み合わせれば、真相にたどり着けるのか。エルディアはまだ、その答えを持っていなかった。
セドリックの姿が、頭の中で何度も浮かんでは消えた。だが、その度に、エルディアは自分に問い直した。
――本当に、それだけなのだろうか。ヨランダの証言の不自然さは、まだ説明がついていない。あの証言は、いったい誰の意図から生まれたものなのか。
確かなことは、まだ何もない。だが、一つだけ言えることがあった。
「……この事件は、思っていたよりも、ずっと近くにあるものかもしれない」
呟いた声は、闇の中に静かに溶けていった。それが誰を指すのか、エルディア自身にも、まだはっきりとは分からなかった。
遠くから、また馬蹄の音が聞こえてくる。今度は、王宮の外へ――裁判の準備のために、誰かが動き始めた音だった。




