19
ヴィクトルが去った後、部屋にはしばらく重い沈黙が残った。それを破ったのはノアだった。
「証拠の穴は分かった。だが、それだけでは容疑は晴れない。むしろ今は、事件当夜の証言を一つ一つ潰していく方が早い」
「証言……」
「使用人たちへの聞き込みだ。すでに何人かは話を聞いているが、まだ全員には及んでいない。エルディア嬢、君の口からも、当夜のことをもう一度、丁寧に整理させてほしい」
「構わないわ」
エルディアは頷いた。王宮の一室であっても、事件について語ることを拒む理由はない。むしろ、それこそが自分にできる最善の行動だった。
その日の午後、ヴァレンティア公爵邸から聞き取りの記録がノアの元へ届けられた。リゼットが整理したその資料に、エルディアも目を通すことを許された。
「まずは、女中頭のマルタの証言から」
リゼットが淡々と読み上げる。
「マルタは、悲鳴を聞く少し前――正確な時刻は分からないものの、使用人用の裏廊下で、人影を見たと証言している。ただし、暗がりで、はっきりと誰かは分からなかった、と」
「人影……体格は?」
「エルディア様よりも、やや背が高かったように思う、とのことです。ただし、本人も『自信はない』と繰り返しています」
エルディアは眉を寄せた。自分より背が高い人影。それが事実なら、少なくとも自分ではないという傍証になる。だが、「自信がない」という証言は、確定的な材料にはなり得ない。
「次に、新任のメイド――ヨランダ・ペインの証言です」
その名前に、エルディアは一瞬、記憶を辿った。半年前に雇われた、比較的新しい使用人だ。仕事ぶりは丁寧だが、正直なところ、あまり深く関わったことのない相手だった。
「ヨランダは、こう証言しています」
リゼットは資料を読み上げた。
「『深夜、廊下でエルディア様を見かけました。書庫の方へ向かわれるところでした。声をかけようとしましたが、思い詰めたようなご様子だったので、控えました』」
その一文に、部屋の空気が張り詰めた。
「……それは、いつのこと?」
エルディアは、努めて冷静に問うた。
「悲鳴が上がる、およそ半刻前――ということです」
その時刻であれば、犯行時刻と重なってもおかしくない。エルディアは記憶を辿った。だが、はっきりとした像は結ばれなかった。あの夜、確かに自分は自室で本を読んでいた。眠っていた時間があったことは、すでに正直に話した通りだ。だが――廊下に出た記憶は、どうしても思い出せない。
「……そんなこと、していないはずよ」
「はず、か」
ノアが静かに言った。責めるような口調ではなかったが、その一言が重くのしかかる。
「証言と、君自身の記憶が食い違っている。今の段階では、どちらが正しいとも言えない」
エルディアは唇を噛んだ。自分の記憶に自信が持てない、という状況が、これほど恐ろしいものだとは思わなかった。
「ヨランダという女中について、詳しいことは分かっているの?」
「まだ、詳細な身辺までは。半年前、王都の紹介所を通じて雇われた、ということ以外は」
「……そう」
エルディアはその名前を、頭の片隅に留めておくことにした。理由はまだ言葉にできない。だが、あの証言のどこかに、何か引っかかりを感じていた。
翌日、思いがけない人物が王宮を訪れた。ヴァレンティア公爵家の家令、セドリック・ラングフォードだった。
「お嬢様。少しでもお力になれればと思い、参りました」
セドリックは、いつもと変わらぬ物腰の柔らかさで、深く頭を下げた。
「セドリック。わざわざ来てくれたの」
「当然でございます。長年お仕えしている身として、お嬢様が無実であることは、私が誰よりも存じております」
その言葉に、エルディアの胸には温かいものが広がった。幼い頃から自分を見守ってきた家令だ。彼の忠誠を疑ったことなど、一度もない。
「事件当夜のことで、何か気付いたことはある?」
「実は、少し気になることがございます」
セドリックは声を落とし、周囲を気にするような素振りを見せた。
「あの夜、書庫の鍵の管理について、いくつか不自然な点がございました。私が翌朝確認したところ、施錠魔法の解除記録に、少しばかり合わない部分があったのです」
「合わない部分?」
「詳しいことは、まだ私にも分かりかねます。ただ、記録院の方々に正確に調べていただければ、何か分かるかもしれません。……お嬢様のお力になれるよう、私も引き続き邸で調べを進めます」
その申し出に、エルディアは素直に頭を下げた。
「ありがとう、セドリック。頼りにしているわ」
「もったいないお言葉です」
セドリックは深々と一礼し、静かに部屋を辞していった。その後ろ姿を見送りながら、エルディアの心には、わずかな希望が灯っていた。
だが、その夜。
エルディアは、ふと違和感を覚えて目を覚ました。夢を見ていたわけではない。ただ、頭の奥に引っかかっていた何かが、眠りの中で少しだけ形を持ち始めていた。
「……ヨランダの証言」
呟きながら、エルディアは上体を起こした。
『深夜、廊下でエルディア様を見かけました。書庫の方へ向かわれるところでした』
その証言が、どこか妙だった。理由は、まだうまく言葉にできない。だが――もしその証言が事実なら、なぜヨランダは、自分に声をかけなかったのだろう。「思い詰めたようなご様子だった」から、というのは、理由として成立するのだろうか。
それに、もう一つ。
「……なぜ、あの子は、私の顔がそんなにはっきり見えたと言ったのかしら」
深夜の廊下。灯りは決して十分ではなかったはずだ。マルタでさえ、「はっきりと誰かは分からなかった」と証言している。それなのに、ヨランダだけが、まるで昼間のように「エルディア様だった」と断言している。
その差に、エルディアは小さな棘のような違和感を覚えた。
窓の外では、雲の切れ間から、細い月の光が漏れ始めていた。
裁判の日程が正式に決まるまで、もう長くはない。だが、この違和感の先に、何かがあるような気がしてならなかった。
エルディアは、闇の中でそっと目を閉じた。まだ何も証明できない。それでも、確かめることをやめるつもりは、少しもなかった。




