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「今夜、って言われてもな」
馬車に揺られながら、レオン・ハルトマンはそう言って腕を組んだ。
「行くなとでも言うつもり?」
「そうは言ってない。俺も行く」
当然のようにそう言い切るレオンに、エルディアは小さく息を吐いた。幼馴染とはいえ、こういう時の判断の速さには何度も助けられている。もっとも、それを素直に口にするつもりはない。
「あなたに拒否権なんてないもの」
「はいはい」
王国大記録院は、王都の中心部からやや離れた区画にある。石造りの重厚な建物で、王家の紋章と、天秤を模した記録院の紋が並んで掲げられていた。夜の帳が降り始めた今、その建物はどこか異様な静けさをまとって見える。
「……別に、緊張しているわけではないわ」
誰にともなく呟いたその声は、いつもより硬かった。
「エルディア様。お待ちしておりました」
正門で出迎えたのは、本を抱えた小柄な女性だった。眼鏡の奥の瞳が、少し不安げに揺れている。
「リゼット・アーデルと申します。……本日、ご案内を任されました」
「よろしく」
エルディアが短く返すと、リゼットは小さく頷いて、先に立って歩き出した。声は小さいが、言葉に迷いはない。
「大記録院は、地上三階、地下二階の構造になっています。……『記録の間』は、地下二階の最奥です」
「そんな場所に、わざわざ危険な記録を置いているの?」
「危険、というより……重要な記録ほど、簡単に持ち出せないようにしているんです」
リゼットは足を止め、廊下の奥にある大きな扉を見た。
「あの扉の先が、記録の間です。あそこには、上級記録官以上の権限を持つ者しか、通常は立ち入れません」
「私たちは今夜、そこに立ち会うことになっているのだけれど」
「はい……ですから、本来なら異例のことです」
廊下の角を曲がったところで、聞き覚えのない声が響いた。
「そこの扉の仕組みについてなら、私が説明したほうが早いでしょうね」
声の主は、眼鏡を押し上げながら早足で近づいてくる青年だった。白衣のような研究者風の装いをしている。
「ヴィクトル・ハイゼンです。王立魔法研究院より、記録魔法の専門家として参りました」
「話が早いのは助かるわ」
「ええ、任せてください。あの扉は、魔力認証錠――記録魔法、第五系統の応用によるものでしてね。要するに、扉を通った人間の魔力を自動的にログとして記録する仕組みなんです。これは非常に興味深い術式で――」
「結論だけ」
エルディアが遮ると、ヴィクトルは一瞬きょとんとした顔をしてから、こほんと咳払いをした。
「……つまり、誰がいつ扉を通ったか、記録として残る、ということです」
「それなら、記録を見れば、誰が出入りしたか一目瞭然でしょう」
「基本的には、そうですね。ただ――」
ヴィクトルは指を一本立てた。
「記録魔法には、複製や上書きという機能もあります。ログを新しく重ねて記録することは可能なんです。とはいえ、これは一般論としてお伝えしておきますが……記録魔法という術式そのものに、ある種の制限がありましてね。元の記録を、完全に消し去ることは、理論上できないとされています」
「消せない?」
「上書きはできても、完全な消去はできない。これは記録魔法の根本的な性質です。魔法には必ず制限があるものでしょう?」
エルディアはその言葉を、特に深く考えずに聞き流した。今はまだ、ただの豆知識にしか聞こえなかった。
「エルディア様」
背後から、また別の声がかけられた。振り返ると、紺色の制服を纏った男が立っている。表情は乏しく、佇まいには一切の無駄がなかった。
「王国捜査局のノア・グレイです。念のための警戒態勢として、こちらへ派遣されました」
「念のため、というのは?」
「予見記録の内容が事実であれば、殺人事件が起こる可能性があります。捜査局としては、放置できません」
淡々とした口調だった。感情の起伏がまるで感じられない。
「……起こると決まったわけではないでしょう」
「その通りです。可能性の話をしています」
ノアはそう言うと、それ以上は何も付け加えなかった。
一行は、リゼットの案内で地下二階へと降りていった。
冷えた空気が肌を撫でる。石の廊下は等間隔に灯りが灯り、静寂だけがそこに満ちていた。
「記録の間の扉は、こちらです」
リゼットが立ち止まったのは、鈍い金属の扉の前だった。表面には複雑な紋様が刻まれ、淡い光を放っている。
「今夜、この先で何かが起きるかもしれない、ということね」
エルディアは扉を見上げた。心臓が、意識せずとも速く打っている。それを誰にも気付かれたくなかった。
「怖いなら、無理に残らなくていい」
レオンが、隣でぽつりと言った。エルディアの横顔を見て、何かを察したのだろう。
「怖いわけないでしょう」
嘘だった。だが、確かめないわけにはいかない。ここで逃げれば、この先ずっと、答えの分からないまま怯え続けることになる。それだけは耐えられなかった。
「確かめないわけにはいかないでしょう」
誰にともなく、エルディアはそう繰り返した。
時計塔の鐘が、遠くで零時を告げた。
その残響が消えるかどうかというその瞬間――
記録院の奥深くから、女の悲鳴が響き渡った。




