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王都に霧が出るのは、決まって季節の変わり目だった。
ヴァレンティア公爵邸の庭園には、まだ夏の名残の薔薇が咲いている。その香りを閉じ込めるように、エルディア・ヴァレンティアはガラス張りのサンルームで紅茶を飲んでいた。
「お嬢様、また新しい推理小説をお読みなんですか」
侍女のミア・ベルナールが、空になったカップに紅茶を注ぎ足しながら言った。エルディアの膝の上には、革表紙の本が開かれたまま置かれている。
「悪いこと?」
「いいえ。でも、三日で三冊目ですよ」
「暇なのよ」
エルディアはそう言って、また一口紅茶を含んだ。菓子皿の上には、まだ手をつけていない焼き菓子が並んでいる。甘い匂いが漂っているのに、今日は珍しく手が伸びない。
ミアはそれに気づいているのか、いないのか。何も言わずに、窓の外へ視線を向けた。
「今日は社交界のほうも静かですね」
「静かなわけないでしょう」
エルディアは本を閉じた。
「私の噂で、いつも通りうるさいはずよ」
「……お気になさらず」
「気にしていないわ」
言い切ってから、少しだけ間があった。ミアはそれを見逃さなかったが、何も言わなかった。
エルディア・ヴァレンティア。十七歳。ヴァレンティア公爵家の長女であり、王国の歴史上、現在唯一「悪役令嬢」と呼ばれている人物。
その言葉が意味するものを、エルディアは誰よりもよく知っていた。単なる悪口ではない。歴史上、同じ家系から必ず一人だけ現れ、王国を揺るがす事件に関わり、最終的に処刑される――そういう存在。
自分がその一人だと決まったわけではない。ただ、周囲がそう見ている。それだけのことだ。
「好きに呼べばいいでしょう」
誰に言うでもなく、エルディアは呟いた。
午後の紅茶が二杯目を終えた頃、玄関のほうが騒がしくなった。
「お嬢様。王宮より、使者の方がいらしております」
執事の声に、エルディアは眉を上げた。
「アルベルト殿下から?」
「殿下の名代とのことです」
通されたのは、王宮の紋章を身につけた若い文官だった。緊張した面持ちで、深く一礼する。
「ヴァレンティア公爵令嬢。アルベルト王太子殿下の名代として参りました」
「用件を」
エルディアは足を組み替えることもなく、静かに促した。この手の使者に、余計な世間話は不要だと知っている。
「王国大記録院にて、新たな予見記録が発見されました」
その一言で、サンルームの空気が変わった気がした。
予見記録。
王国大記録院にごく稀に出現するという、未来に起こりうる出来事を記した特殊な記録。エルディアも歴史の授業で習ったことがある。過去に何度か確認されている現象で、しかし何が予見記録を成立させているのか、誰が――あるいは何が――それを記しているのかは、いまだに判明していない。
「予見記録は、これまでも複数回発見されているはずでしょう。なぜわざわざ、私のもとへ?」
「それが……」
文官は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「発見された記録の中に、公爵令嬢のお名前が記されているのです」
沈黙が落ちた。
ミアが小さく息を呑む音が聞こえた。エルディアは表情を変えなかった。変えないように、意識して抑えた。
「読み上げなさい」
「はい……記録には、こう記されておりました」
文官は、懐から一枚の写しを取り出した。震える手で、それを広げる。
「『王国大記録院、記録の間にて。深夜。若き記録官、命を落とす。記録官は、扉の内側で死ぬ。立ち会う者、ヴァレンティア公爵令嬢』」
エルディアは、その一文一文を頭の中で繰り返した。
記録の間。深夜。若い記録官の死。
そして、自分の名前。
「……随分と、具体的な予見ね」
声は平静を保っていた。少なくとも、そう努めた。
「予見記録は、すべてが現実になるとは限らないと伺っております」
文官が、慌てたようにつけ加える。それは慰めのつもりなのだろう。だが、慰めにはならなかった。
「分かっているわ」
エルディアは静かに答えた。
「すべてが現実になるとは限らない。でも――一部は、現実になったこともあるのでしょう?」
文官は答えなかった。それが答えだった。
使者が帰った後も、エルディアはしばらく本を開かなかった。膝の上の推理小説が、今日はやけに軽く感じられた。
「お嬢様」
ミアが遠慮がちに声をかける。
「大丈夫よ」
「そう仰ると思いました」
「なら訊かないでちょうだい」
「はい」
ミアは素直に引き下がった。だが、紅茶のおかわりを淹れる手つきが、いつもより少し丁寧だった。
エルディアは窓の外の薔薇を見た。まだ咲いている。まだ、何も起きていない。
――記録官は、扉の内側で死ぬ。
その一文が、頭の中で何度も繰り返された。密室のような響きだった。誰にも扉を開けられない場所で、人が死ぬ。そんな馬鹿げた話があるだろうか。
だが、自分の名前まで記されていたことは、馬鹿げていると笑い飛ばすには具体的すぎた。
夕刻、再び屋敷に使者が訪れた。今度は先ほどとは違う、王国大記録院の職員だという。
「公爵令嬢。急ぎお伝えせねばならぬことが」
「なにかしら」
「記録に記された日付についてです。記録院の解読班が、ようやく完全な日付を割り出しました」
エルディアは、紅茶のカップを静かにソーサーへ戻した。
「いつなの」
職員は、一度深く息を吸ってから告げた。
「――今夜です」
その言葉が、サンルームの静けさの中に落ちた。
窓の外では、夏の名残の薔薇が、変わらず静かに咲いていた。
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