16
その悲鳴を、エルディアは自室の窓辺で聞いた。
針が真夜中を回ってから、まださほど経っていない時刻だった。読みかけの推理小説を閉じ、ランプの灯りを落とそうとした矢先――邸の奥、書庫のある東翼から、女中の悲鳴が壁を伝って響いてきたのだ。
「……何事?」
独り言のようにつぶやきながら、エルディアはガウンの上に肩掛けを羽織り、迷わず部屋を出た。怖くないと言えば嘘になる。だが、それ以上に、こういう時に自分の部屋で震えているだけの人間には、なりたくなかった。
廊下を進むと、すでに数人の使用人が青ざめた顔で立ち尽くしていた。その輪の中心、書庫の扉の前で、女中頭のマルタが両手で口元を覆っている。
「マルタ、何があったの」
「お、お嬢様……あの、中に……」
マルタの声はそこで途切れた。かわりに答えたのは、少し遅れて駆けつけたミアだった。
「お嬢様、お待ちください。中に人が――」
ミアが言い終える前に、エルディアはすでに扉に手をかけていた。
書庫の中は、いつもと変わらない静けさに満ちていた。壁一面の書架、机の上に積まれた帳簿の束、燭台の炎が小さく揺れている。そして――机のそばの床に、男が一人、仰向けに倒れていた。
エルディアはその顔に見覚えがあった。
「……ヴォルク様?」
王国大記録院所属の魔法鑑定官、ダミアン・ヴォルク。数日前、ヴァレンティア公爵家の年次監査のためにこの邸を訪れていた、あの厳格な鑑定官だった。
呼びかけても返事はない。近づいて確かめるまでもなく、その体からはすでに温かみが失われつつあるのが分かった。
エルディアは膝を折り、震えそうになる指先を握りしめながら、努めて静かな声で言った。
「誰か、すぐに医師を。それから――王国捜査局にも」
その声に応えるように、ミアが弾かれたように駆け出していく。
エルディアはその場に立ち尽くしたまま、もう一度、ヴォルクの顔を見た。数日前、この邸の応接間で交わした苛立たしいやり取りが、嫌でも脳裏をよぎる。
「ヴァレンティア公爵家の会計には、いくつか看過できない不審な点がある」
ヴォルクは眼鏡の奥から値踏みするような視線をエルディアに向け、そう言い放った。エルディアはその物言いに、家の名誉を傷つけられたと感じ、思わず言い返していた。
「そのような侮辱は、許さないわ。父の代から、この家の会計は誠実に管理されてきた。根拠のない疑いを口にするなら、それ相応の証拠を持ってきてちょうだい」
あの時、応接間には数人の使用人がいた。あの言い争いを、彼らは覚えているだろう。
――まさか、あれが最後の会話になるとは。
王国捜査局が邸に到着したのは、それから一刻も経たない頃だった。先頭に立って書庫に入ってきたのは、見慣れた顔――ノア・グレイだった。
「エルディア嬢。状況を」
ノアの声はいつも通り冷静だった。エルディアは短く経緯を説明した。悲鳴を聞いて駆けつけたこと、遺体を発見した時の状況、数日前の口論のこと――隠すつもりはなかった。隠したところで、使用人たちの証言からすぐに知れることだ。
ノアは頷きながら、遺体のそばにしゃがみ込み、周囲を仔細に検分し始めた。その表情が、途中でわずかに険しくなる。
「……感知魔法の残留痕跡がある。それも、かなり濃い」
「感知魔法?」
「誰かがこの部屋で、感知系の魔法を使った形跡だ」
その言葉に、エルディアの背筋が冷えた。
「……それなら、私かもしれないわ」
ノアが顔を上げる。
「今日の昼、この書庫で感知魔法の練習をしていたの。いつものことよ。範囲確認の訓練として」
「――いつのものかは、まだ分からない」
「え?」
「残留していることと、それがいつ使われたかを特定できることは、別の話だ。痕跡の濃さだけで時刻までは断定できない」
ノアの言葉は、突き放すようでいて、同時にどこか慎重でもあった。エルディアはその声の温度に、わずかに救われる思いがした。だが、それが安堵と呼べるものかどうかは、自分でも分からなかった。
「ノア。はっきり言ってちょうだい。あなたは、私を疑っているの?」
「疑うも何も、まだ何も分かっていない。だが――」
ノアが言い淀んだところへ、彼の部下の一人が慌ただしく駆け込んできた。手には、被害者の腕に嵌められていたと思しき、細工の施された腕輪が握られている。
「グレイ様。被害者の魔道具から、記録画が採取できました」
その言葉に、部屋の空気が一段と張り詰めた。
ノアがその魔道具を受け取り、掌の上で慎重に魔力を通す。淡い光とともに、宙にぼんやりとした映像が浮かび上がった。薄暗い書庫、こちらに背を向けて立つ、青いドレスの令嬢らしき人影――。
誰もが、その場で息を呑んだ。
エルディアもまた、その映像から目を離せずにいた。輪郭は不鮮明で、顔まではっきりと見えるわけではない。それでも、その髪の色、体格、纏う衣装の青――どれも、エルディアを連想させるには十分すぎるほどだった。
「……これは」
声を絞り出したのはエルディアだった。だが、その先の言葉は続かなかった。
ノアが静かに立ち上がり、エルディアを正面から見据える。その目には、これまで見たことのない、職務としての厳しさが宿っていた。
「エルディア・ヴァレンティア嬢」
名を呼ばれた瞬間、エルディアは悟った。もう、これはただの「疑い」では済まない段階に入ったのだと。
「王国捜査局として、正式にあなたを本件の重要参考人として扱う。……これ以降、あなたの行動には一定の制限を設けさせてもらう」
部屋の隅で、ミアが息を詰めるのが分かった。マルタは両手を握りしめたまま、視線を落としている。
エルディアは深く息を吸い、背筋を正した。膝が震えそうになるのを、意志の力だけで抑えつける。
「……分かったわ」
短く、けれど揺るぎない声でそう答えた。
「私はヴォルク様を殺してなどいない。けれど、それをただ口で言うだけでは、意味がないのでしょう」
「ああ」
「だったら」
エルディアは、床に横たわる遺体に、もう一度視線を落とした。
「私自身が、この目で真相を確かめる。……それだけよ」
燭台の炎が、静かに揺れていた。
廊下の向こうから、王家の紋章を掲げた馬車が邸へと近づいてくる音が、夜の静寂に響き始めていた。




