12
バークレー男爵邸は、貴族街の外れにひっそりと佇んでいた。新興の家らしく、屋敷はまだ真新しく、庭木も植えられたばかりのように見える。
「本当に、行くのか」
馬車を降りながら、レオンが小さく尋ねた。
「行くわ。あの子の言葉を、本人の口から聞かないことには始まらない」
エルディアは迷わず答えた。玄関先で応対に出た使用人は、来訪者の名を聞くなり顔を強張らせたが、すぐに丁重な態度で二人を通した。
「……ヴァレンティア様」
応接間に現れたオフィーリアは、顔色が優れなかった。あの日と同じように、エルディアの姿を見た瞬間、体を強張らせる。
「今日は、責めに来たわけではないの」
エルディアは、努めて静かな口調で言った。
「あなたが本当は何を見たのか、それだけを聞きたいの」
オフィーリアは俯いたまま、両手を膝の上できつく握りしめた。しばらく沈黙が続いたあと、消え入りそうな声が返ってくる。
「……青いドレスの方が、私に近づいてきて……気付いたら、水の中でした」
「その方の顔は?」
「……」
オフィーリアの肩が震えた。
「本当に、はっきり顔を見たの?」
エルディアは、できる限り優しく尋ねたつもりだった。だが、その問いに、オフィーリアは唇を噛んで俯くばかりだった。
「私……」
「大丈夫よ。分からないなら、分からないと言っていいの」
「でも……あの時、確かに、ヴァレンティア様だと……」
言葉は、そこで途切れた。断定できないまま、それでも自分の記憶を疑いたくないという、その揺らぎが表情ににじんでいた。
「オフィーリア様は今、思い出すだけでも辛いはずですわ」
その時、扉の外から柔らかな声が響いた。振り返ると、セレナ・ダグラスが心配そうな面持ちで立っていた。
「セレナ様……」
「よろしいですか、少し」
セレナは断りを入れると、オフィーリアの隣にそっと腰を下ろした。守るように肩に手を添える。
「オフィーリア様、無理にお話にならなくていいのですよ」
「セレナ様……ありがとうございます」
オフィーリアの表情が、わずかに緩んだ。頼れる先輩令嬢に縋るような様子だった。
「エルディア様も、事情はお分かりでしょう? あの日、オフィーリア様はとても怯えていましたわ。きっと、突然のことだったのでしょうから」
セレナはそう言って、柔らかく微笑んだ。
「……それはそうね」
エルディアは頷きながら、ふと小さな違和感を覚えた。だがそれが何なのか、この時はまだ言葉にできなかった。
「実は、私も少し気になっていたことがありますの」
セレナが続けた。
「あの日、噴水の近くを歩いていた方を、私も何人か見かけましたわ。ヴァレンティア様のように青系統のドレスを着た方、他にもいらっしゃいましたし……本当に、はっきりしたことは分からないのではないかしら」
その言葉に、エルディアは意外な思いを抱いた。セレナの発言は、むしろ自分に有利な情報だった。
「……ありがとう。それは、貴重な証言だわ」
「いいえ。私も、無実の方が疑われるのを見過ごせませんもの」
セレナは静かに微笑んだ。その笑みに、不自然なところは見当たらなかった。
邸を辞去する頃、エルディアの元に一枚の手紙が届いていた。差出人の名はない。だが、待ち合わせの場所を見た瞬間、誰からのものか察しがついた。
王都の裏路地、古びた酒場の一角。カイ・レヴァントは、いつものように壁に寄りかかって待っていた。
「ずいぶん熱心に調べ回っているみたいだな」
「あなたに褒められる筋合いはないわ。それで、何を持ってきたの」
「情報には値段があるって、前にも言ったよな」
カイはコインを指先で弄びながら、口の端を上げた。
「ダグラス子爵家、かなり切羽詰まっているらしいぜ。事業の一つが立て続けに傾いて、下手をすれば領地を手放すことになる」
「クロエからも似たような話は聞いているわ」
「知っての通り、噂と裏事情は別物だ。俺が知っているのは、もう少し先の話でね」
カイは声を潜めた。
「バークレー家との商談、まとまれば子爵家は息を吹き返す。……逆に言えば、まとまらなければ、かなり厳しいことになる」
「それを、あなたはどこで知ったの」
「さあな。信じるかどうかは、君次第だ」
いつも通りの、はぐらかすような答えだった。エルディアはそれ以上追及しなかった。カイの言葉を鵜呑みにするつもりはない。だが、無視するつもりもなかった。情報の出所と、情報そのものの真偽は、切り分けて考えるべきものだった。
「バークレー男爵自身が、評判目当てで仕組んだ可能性は?」
邸に戻ったエルディアは、届いていたリゼットからの報告書に目を通しながら、ふとそう呟いた。娘を利用して同情を集め、ヴァレンティア家に責任を負わせる――あり得ない話ではないように思えた。
「その線は……消えています」
リゼットが、控えめな声で答えた。
「事件当日、男爵は……終始、別の場所で、複数の商人と会談していました。招待客名簿と、会場係の記録……両方に、裏付けが残っています」
「そう。なら、男爵は無関係ね」
エルディアは報告書を閉じた。一つの可能性が消え、また元の場所に戻る。それでも、少しずつ事実は積み上がっていた。
その夜、屋敷の玄関先で、エルディアは思いがけずセレナと再び顔を合わせた。届け物のついでに立ち寄ったのだという。
「今日は、ありがとう。あなたの証言、参考になったわ」
「お力になれたなら、嬉しいですわ」
セレナは丁寧に一礼すると、去り際にふと足を止めた。振り返り、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべる。
「……あなたも大変ですわね、悪役令嬢様」
その一言だけを残して、セレナは静かに去っていった。
エルディアはしばらく、その後ろ姿を見つめていた。悪意があるようには聞こえなかった。むしろ、労わるような響きさえあった。
それでも、なぜか、その言葉が耳の奥に小さく残り続けた。




