本当の愛
休職が始まって一週間が過ぎた。
病院へ行かなくてもいい朝。
目覚まし時計をかける必要もない朝。
本来なら、身体を休められるはずの時間だった。
それなのに私は、少しも休めている気がしなかった。
朝六時になると自然と目が覚める。
「みんなが通勤の準備を始める時間だ」
そう思う。
七時になれば、
「夜勤さん、忙しかったかな」
八時になれば、
「みんな出勤している時間だ。今日の受け持ちは誰になったんだろう」
時計を見るたび、病棟の一日が頭の中で動き出す。
私だけが、その時間から取り残されていた。
休職中なのだから、仕事のことは忘れよう。
何度そう思っても、忘れることはできなかった。
むしろ、病棟へ行けないからこそ、仕事のことばかり考えてしまう。
病院から借りていた看護の本を開く。
ガイドラインを読む。
疾患について復習する。
「復職したとき、忘れていたら困るから」
そう自分に言い訳をしながら、何時間も机に向かっていた。
母が部屋を覗き込み、不思議そうに言った。
「休んでいるんだから、勉強までしなくてもいいんじゃない?」
私は本から目を離さず答えた。
「すぐ復職するし」
「まだお医者さんは休みなさいって言ってるでしょう?」
「だから、それまでに遅れを取り戻さないと」
母は何も言わなかった。
静かに部屋を出ていく足音だけが聞こえた。
私はページをめくり続けた。
文字は読めている。
けれど、頭にはほとんど入ってこない。
同じ行を何度も読み返していることに気づいても、本を閉じることはできなかった。
休んでいる自分が許せなかった。
夕方になると、同期からメッセージが届いた。
「体調どう? 病棟のことは気にしなくていいから、ゆっくり休んでね」
短い文章だった。
優しさしか書かれていない。
それなのに、胸が締めつけられた。
「病棟のことは気にしなくていい」
その一文を、私は違う意味で受け取ってしまう。
もう私がいなくても回っている。
私がいなくても困らない。
そんなふうに聞こえてしまった。
携帯電話を伏せ、私は小さく首を振る。
違う。
そんな意味じゃない。
同期は本当に心配してくれているだけだ。
頭ではわかっている。
それでも心は、勝手に自分を責める言葉へ変換してしまう。
数日後の診察で、医師は穏やかに尋ねた。
「少し眠れるようになりましたか」
「はい」
「涙はどうですか」
「少し減りました」
医師は頷き、カルテに何かを書き込む。
私はその手元を見つめながら、意を決して口を開いた。
「あの……」
「はい」
「いつから働けますか」
医師はペンを止めた。
私は続ける。
「もう二週間も休みました。病棟にも迷惑をかけています。早く復職したいんです」
診察室に静かな沈黙が流れる。
医師は私を見つめ、ゆっくりと言った。
「櫻木さん」
「あなたは今、『治すこと』より『戻ること』を急いでいますね」
私は何も答えられなかった。
図星だった。
病気を治したいのではない。
早く元の場所へ戻りたい。
それだけだった。
医師は続ける。
「焦る気持ちは、とても自然なことです」
「でも、焦って復職してしまうと、かえって回復が遠のくことがあります」
私は唇を噛んだ。
頭では理解できる。
けれど心は納得しない。
休んでいる一日ごとに、自分の居場所が病棟から消えていく気がしていた。
看護師でいられない私は、いったい何者なのだろう。
その問いだけが、静かな部屋の中で少しずつ大きくなっていった。
休職して一か月が過ぎた。
カレンダーには何も予定が書かれていない。
それなのに、一日は驚くほど早く終わっていく。
朝起きる。
薬を飲む。
少しだけ散歩をする。
昼食を食べる。
気づけば夕方になり、また眠る。
それだけの毎日だった。
以前の私は、一日が二十四時間では足りないと思っていた。
病棟で働き、帰宅してから勉強をして、休日には研修へ参加する。
忙しいことが当たり前だった。
だから何もしない一日は、ひどく罪深いもののように思えた。
ある日、私は病院のホームページを開いた。
何気なく見ただけだった。
本当に、それだけのつもりだった。
新しく入職した新人看護師の写真が載っていた。
病棟での様子。
スタッフが笑っている集合写真。
そこに私の姿はなかった。
当然だった。
休職しているのだから。
それでも胸の奥で、小さく何かが軋んだ。
私はもう、あの場所の一員ではないのだろうか。
携帯電話には同期とのグループメッセージが届く。
「今日は忙しかったね」
「405号室の人が無事退院したよ」
画面を閉じた。
読めば読むほど、自分だけ時間が止まっているような気がした。
置いていかれる。
その感覚だけが、日に日に大きくなっていく。
私は焦った。
一日でも早く戻らなければ。
後輩が育ってしまう。
新しい仕事を覚えられてしまう。
私がいなくても病棟は回る。
そうなったら、本当に私がいる意味はなくなってしまう。
そんなことを考えていると、母が部屋へ入ってきた。
「少し散歩でも行かない?」
私は首を横に振った。
「いい」
「気分転換になるよ」
「そんなことしてる時間ない」
言ってから、自分でおかしいと思った。
休職中の私に、「時間がない」はずがない。
けれど心だけは、いつも何かに追われていた。
「復職しなきゃ」
「早く元に戻らなきゃ」
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
母はベッドの横へ腰掛けた。
「亜美」
私は返事をしなかった。
「あなた、小さい頃からそうだったね」
ゆっくりと母は話し始めた。
「転んでも、『大丈夫』って笑う子だった」
「ピアノの発表会で失敗しても、『もっと練習する』って泣きながら弾いていた」
私は黙って聞いていた。
「頑張ることは悪いことじゃない」
母はそう言って、一度言葉を切る。
「でもね、亜美は『頑張らなくても愛される』ってことを、知らないまま大人になったのかもしれないね」
その一言に、私は顔を上げた。
「そんなことないよ」
思わず否定した。
「お父さんもお母さんも、そんなつもりじゃなかった」
「うん」
母は優しく微笑んだ。
「そんなつもりじゃなかったよ」
「でも、亜美はずっと、自分で自分を追い立ててきたでしょう」
その言葉は、不思議なくらい静かに胸へ落ちてきた。
私は思い返していた。
テストで九十五点を取れば、次は百点を目指した。
看護師になれば、一日でも早く一人前になろうとした。
先輩に褒められても、「もっと頑張らなきゃ」と思った。
患者さんに感謝されても、「次はもっとできるはず」と思った。
一度立ち止まることを、私は知らなかった。
頑張ることが、当たり前だった。
頑張れなくなった自分には、価値がないと思っていた。
そして、その考え方こそが、今も私を苦しめ続けていた。
休職して二か月が過ぎた頃、主治医から一つの提案を受けた。
「櫻木さん、一度カウンセリングを受けてみませんか」
私は少し戸惑った。
「話すだけで、何か変わるんでしょうか」
主治医は静かに微笑んだ。
「答えを教えてもらう場所ではありません」
「自分でも気づいていない自分を見つける場所です」
その言葉に背中を押されるように、私は心理士との面談を受けることになった。
診察室とは違い、部屋には柔らかな陽の光が差し込んでいた。
観葉植物が一鉢置かれ、小さな時計だけが静かに時を刻んでいる。
心理士は穏やかな笑顔で言った。
「今日は、何を話してくださっても構いません」
私は何から話せばいいのかわからなかった。
少し考えてから、ぽつりと口を開く。
「どうして私がうつ病になったのかわからないんです」
心理士は黙って頷いた。
「家族には大切に育ててもらいました。友達にも恵まれていました。職場も、本当にいい人ばかりでした。だから、理由がないんです」
言葉にすると、自分でも不思議だった。
こんなに恵まれた人生だったのに、どうして私は壊れてしまったのだろう。
心理士は少しだけ間を置いて尋ねた。
「櫻木さんは、ご家族に怒られた記憶はありますか」
私は首を横に振った。
「ほとんどありません」
「失敗したときは?」
「次は頑張ろうね、って言ってくれました」
「愛されていたと思いますか」
「はい」
その答えに迷いはなかった。
家族は、確かに私を愛してくれていた。
それだけは疑ったことがない。
しばらく沈黙が流れたあと、心理士は静かに言った。
「では、櫻木さんは、何をそんなに頑張ってきたのでしょう」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
頭の中で、自分の人生をゆっくりと辿っていく。
テストで良い点を取った日。
看護学校で実習を乗り越えた日。
国家試験に合格した日。
看護師になって患者さんに「ありがとう」と言われた日。
どの場面にも共通していたものが、一つだけあった。
私は認められたくて頑張っていたのではない。
褒められたくて頑張っていたのでもない。
胸の奥から、ひとつの言葉が浮かび上がる。
「……期待に応えたかった」
気づけば、その言葉を口にしていた。
心理士は静かに頷く。
私は続けた。
「両親が大学まで行かせてくれたから」
「先生が応援してくれたから」
「先輩が信じてくれたから」
「患者さんが笑ってくれたから」
「その期待を裏切りたくなかったんです」
その瞬間、自分でも気づいていなかった思いが、堰を切ったように溢れ出した。
私は、迷惑をかけてはいけないと思って生きてきた。
失敗してはいけないと思って生きてきた。
いい娘でいよう。
いい学生でいよう。
いい看護師でいよう。
そうやって、一つひとつ自分に約束を増やしてきた。
頑張ることは、いつしか「選択」ではなく「義務」になっていた。
心理士は私の言葉を遮らず、最後まで聞いてくれた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「櫻木さん」
「もしかしたら、あなたは愛されていたからこそ苦しかったのかもしれません」
私は顔を上げた。
「愛されていたから……?」
「愛されていることを知っている人ほど、その愛を失いたくないと思うことがあります」
その言葉に、胸が大きく揺れた。
愛を失いたくない。
その感情は、私の中にずっとあった。
期待に応えられなかったらどうしよう。
迷惑をかけたら嫌われるかもしれない。
看護師として役に立てなくなったら、失望されるかもしれない。
誰にも言ったことのない恐怖が、静かに姿を現していく。
家族は、何も求めていなかった。
「元気でいてくれればいい」
いつもそう言ってくれていた。
それなのに私は、自分で勝手に「期待」という重りを背負い続けていた。
そして、その重りは少しずつ重くなり、いつしか自分一人では支えきれなくなっていた。
私は静かに涙を流した。
悲しかったからではない。
初めて、自分が何に苦しんでいたのか、その輪郭が見えた気がしたからだった。
愛されていた。
そのことは、何一つ間違っていない。
けれど私は、その愛を失うことばかりを恐れ、自分自身を愛することを忘れていた。
それが、私の心を少しずつ、静かに追い詰めていたのだった。




