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どうして私が


人は、自分だけは大丈夫だと思っている。


私も、その一人だった。


朝起きられない日が増えた。


涙は毎日のように流れた。


仕事へ行こうとすると息が苦しくなり、制服を見つめたまま時間だけが過ぎていく。


それでも私は、「疲れているだけ」だと思っていた。


二年目なのだから。


少しくらい疲れるのは当たり前だ。


新人の頃とは違う責任もある。


みんな乗り越えてきたことなのだから、私にも乗り越えられるはずだ。


そう思い続けていた。


そんなある日、師長に呼ばれた。


師長の元へ歩み寄ると、師長は穏やかな表情で私を見つめていた。


「櫻木さん、最近つらそうに見えるの」


私は慌てて首を横に振った。


「大丈夫です」


その言葉は、もう癖になっていた。


「少し疲れているだけです」


師長はしばらく黙って私を見つめ、それから静かに言った。


「一度、心療内科を受診してみない?」


思わず苦笑いがこぼれた。


「いえ、大丈夫です。本当に疲れているだけなので」


心療内科。


私には関係のない場所だと思っていた。


眠れないわけではない。


仕事が嫌なわけでもない。


死にたいと思っているわけでもない。


少し疲れているだけなのに、病院へ行く意味なんてあるのだろうか。


そんな私に、師長は優しく言った。


「疲れているだけかどうかを確かめるためにも、一度診てもらおう」


その言葉を断ることはできなかった。


数日後、私は紹介された心療内科を訪れた。


待合室は驚くほど静かだった。


若い会社員らしき人。


子どもを連れた母親。


高齢の男性。


みんな普通の顔をして椅子に座っている。


私は場違いな気がして落ち着かなかった。


ここへ来るような人間ではない。


そう思っていた。


診察室へ呼ばれ、医師の前に座る。


医師は穏やかな声で尋ねた。


「今日はどうされましたか」


私は困った。


何を話せばいいのかわからなかった。


「朝、涙が出ます。仕事へ行こうとすると身体が動かなくて……。でも、仕事は嫌じゃないんです。職場の人も、本当にいい人ばかりで」


言葉を探しながら、一つひとつ話していく。


医師は途中で遮ることなく、静かに耳を傾けていた。


私が話し終えると、カルテを閉じ、ゆっくりと口を開いた。


「櫻木さん」


その声はとても静かだった。


だからこそ、その言葉は重く響いた。


「うつ病です」


一瞬、意味がわからなかった。


うつ病。


その言葉だけが診察室に残り、私の耳の奥で何度も繰り返される。


「涙が止まらないのも、朝起きられないのも、甘えではありません」


医師は穏やかな口調のまま続けた。


「脳の病気のせいです。今はゆっくり休みましょう」


休む。


その言葉に、私は思わず顔を上げた。


二年目が始まったばかりだった。


ようやく一人前に近づけると思っていた。


後輩も入ってくる。


先輩として頑張らなければならない。


そんな時期に休むなんて、ありえなかった。


私は首を横に振った。


「休みません」


自分でも驚くほど強い口調だった。


仕事へ行かなければ。


休んだら迷惑がかかる。


患者さんも困る。


先輩も同期も困る。


私が頑張れば済む話なのだから。


そう思っていた。


しかし、医師は静かに私を見つめ返し、きっぱりと言った。


「櫻木さん、良いですか」


少し間を置いて、その一言を告げた。


「ドクターストップです。休んでください」


その瞬間、私の中で必死に張りつめていた何かが、小さく音を立てて揺らいだ。





診察室を出ても、私はすぐには立ち上がれなかった。


待合室の椅子に腰を下ろしたまま、診断書の入った封筒を見つめていた。


うつ病。


たった三文字なのに、その重さは私の両手では抱えきれないほどだった。


病院の外へ出ると、春の風が吹いていた。


桜は散り始め、歩道には淡い花びらが積もっている。


こんなに穏やかな景色なのに、私だけが別の世界へ放り出されたような気がした。


私は病気なんだ。


その事実だけが、何度も胸の中で反響する。


でも、どうして。


どうして私なの。


帰り道、電車の窓に映る自分を見つめた。


顔色は少し悪いくらいで、特別やつれているわけでもない。


腕も脚も動く。


熱もない。


どこにも怪我はない。


それなのに私は、「休んでください」と言われた。


脳の病気。


医師はそう言った。


見えない病気ほど、信じることは難しかった。


家へ帰ると、母が心配そうな顔で迎えてくれた。


「どうだった?」


私は診断書を差し出した。


母は静かに目を通し、それ以上何も聞かなかった。


ただ、「そう」と小さく頷き、私の肩にそっと手を置いた。


その優しさが、かえって苦しかった。


私は泣きそうになるのを堪えながら言った。


「私、仕事休みたくない」


母は少しだけ目を伏せた。


「でも、お医者さんは休みなさいって言ったんでしょう」


「でも、まだ二年目だよ」


声が震えた。


「先輩たちも忙しいのに」


「患者さんもいるのに」


「私だけ休むなんて……」


言葉の続きを言えなかった。


迷惑。


その言葉が喉につかえて出てこない。


母は何も責めなかった。


「迷惑をかけないで生きられる人なんて、いないよ」


静かな声だった。


「今まで亜美は、たくさん頑張ってきたでしょう」


私は首を振った。


「頑張りが足りなかったから、こうなったんだよ」


そう言った瞬間、自分でも驚くほど自然にその言葉が口から出てきた。


私は、本気でそう思っていた。


もっと要領が良ければ。


もっと強い人間だったら。


もっと休まずに頑張れる人だったら。


こんな病気にはならなかったはずだ。


うつ病になった原因ではなく、自分の弱さばかりを探していた。


夜になっても眠れなかった。


診察室で聞いた医師の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


『甘えではありません』


どうしてそんなことを言ったのだろう。


私は一度も「甘えですか」と聞いていない。


それなのに、医師はまるで私の心を見透かしたように、その言葉を口にした。


もしかしたら。


私は診察室へ入る前から、自分を甘えている人間だと思っていたのかもしれない。


そう思った途端、涙が静かに頬を伝った。


止めようとしても止まらない。


涙の理由だけは、最後までわからなかった。






翌朝、目が覚めると、私は反射的に時計を見た。


午前六時。


いつもなら身支度を始めている時間だった。


身体を起こそうとした。


けれど、起き上がれなかった。


眠いわけではない。


熱があるわけでもない。


腕も脚も動く。


なのに、身体が布団に縫いつけられてしまったようだった。


「仕事へ行かなきゃ」


そう思う。


でも、その一歩が踏み出せない。


涙だけが静かに枕へ落ちていく。


昨日、医師は言った。


「ドクターストップです。休んでください」


それなのに私は、病院へ行くことばかり考えていた。


病棟では、朝の申し送りが始まっている頃だろう。


夜勤の先輩が申し送りをして、新人が緊張した顔でメモを取っている。


点滴の準備をしている同期。


配薬車を押している先輩。


患者さんは、今日も私が来ると思って待っているかもしれない。


その光景が、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。


私だけが、そこにいない。


その事実が耐えられなかった。


携帯電話を手に取る。


師長へ電話をかけるためだ。


発信ボタンを押そうとして、指が止まる。


なんて言えばいいのだろう。


「休ませてください」


その一言が、どうしても言えなかった。


休むことは、逃げることのように思えた。


看護師は患者さんのために働く仕事だ。


患者さんが苦しんでいるのに、自分だけ休むなんて。


そんな資格が、私にあるのだろうか。


何度も深呼吸を繰り返し、ようやく発信ボタンを押した。


数回の呼び出し音のあと、師長の声が聞こえた。


「もしもし、櫻木さん?」


その優しい声を聞いた瞬間、張りつめていた糸が切れた。


「……すみません」


それしか言えなかった。


涙で声が詰まり、言葉にならない。


電話の向こうで、師長は静かに待っていてくれた。


責めることも、急かすこともしなかった。


しばらくして、私はやっと絞り出すように言った。


「昨日……心療内科で……うつ病だと……言われました」


沈黙が流れる。


私は次に叱られるのだと思った。


「もっと早く言いなさい」


「二年目なんだからもっと頑張りなさい」


そんな言葉を、どこかで覚悟していた。


けれど、返ってきたのはまったく違う言葉だった。


「教えてくれて、ありがとう」


師長は穏やかに言った。


「診断書は出ていますか?」


「……はい」


「それなら、今は仕事のことは考えなくていい」


私は思わず首を振った。


師長には見えないとわかっているのに。


「でも……みなさんに迷惑が……」


すると師長は少し笑った。


「病棟はね、一人で回しているわけじゃないの」


その言葉は、静かだった。


けれど、不思議なくらい力があった。


「あなたが今まで誰かの穴を埋めてきたように、今度は私たちがあなたの穴を埋める番」


私は何も言えなかった。


「だから安心して休みなさい」


電話が終わったあとも、私はしばらく携帯電話を握りしめていた。


涙はまだ止まらない。


それでも、その涙はこれまでとは少し違っていた。


苦しさだけではない。


張りつめていた何かが、少しだけほどけていくような涙だった。


その日、私は初めて病棟へ行かなかった。


カレンダーには何も書かれていない一日。


窓の外では春の風が木々を揺らし、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


世界は何も変わらず動いている。


変わってしまったのは、私だけだった。


私は静かな部屋で一人、何度も自分に問いかける。


どうして私が。


家族にも愛されてきた。


友達にも恵まれてきた。


職場にも恵まれていた。


誰にもいじめられていない。


誰にも傷つけられていない。


それなのに、どうして私が、うつ病になったのだろう。


その問いに答えられる人は、まだ誰もいなかった。


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