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壊れる音


人は、何が原因で壊れるのだろう。


私は今でも、その問いに答えられない。


少なくとも、私の周りには「壊れる理由」と呼べるものは見当たらなかった。


看護師になって二年目の春。


病棟にも慣れ、ようやく「仕事」と「生活」の境目が見えるようになっていた。


朝、制服に袖を通し、病棟へ向かう。


ナースステーションにはいつもの笑い声があって、夜勤明けの先輩が眠そうにコーヒーを飲んでいる。


「おはよう。」


その何気ない一言から、一日が始まる。


私はこの病棟が好きだった。


怖い先輩はいなかった。


理不尽に怒鳴る人もいなかった。


患者さんに八つ当たりをする人もいなかった。


怖い患者さんもいなかった。


認知症で何度も同じことを尋ねる人も、終末期で不安を抱える人も、みんな懸命に生きている人だった。


むしろ、みんな私に優しすぎるくらいだった。


採血が終わると、先輩はカルテを見ながら笑って言う。


「櫻木さん、二年目でここまでできるなんてすごいよ」


その言葉に、私は照れ笑いを浮かべる。


「いえ、まだまだです」


そう答えると、先輩は首を振った。


「いや、本当に。ちゃんと患者さんのことを見れてるもん」


同期もよく声をかけてくれた。


忙しい日、私が処置室から慌てて戻ると、記録を手伝いながら笑う。


「いつでも頼ってね。お互い様だから」


その何気ない一言に、どれだけ救われたかわからない。


医師も穏やかな人ばかりだった。


回診の途中、ある医師がカルテを閉じながら言った。


「櫻木さんがいてくれると、患者さんが穏やかな気がします」


私は思わず聞き返した。


「私ですか?」


「ええ。不思議なんですよ。櫻木さんが病室へ行くと、皆さん安心した顔をされるんです」


そんなことを言われるたび、自分にはもったいない言葉だと思った。


私は特別なことなど何もしていない。


患者さんの話を聞き、手を握り、痛みや不安に耳を傾ける。


看護師なら誰でもやっていることだ。


ある日の午後、一人の高齢の女性患者さんが私を呼び止めた。


「櫻木さん」


ベッドサイドへ近づくと、その人はゆっくり私の手を握った。


「櫻木さんが来てくれるとね、不思議とこんな気持ちにさせられるの」


私は首を傾げる。


「どんな気持ちですか?」


患者さんは柔らかく微笑んだ。


「全部、大丈夫になるって」


少し間を置いて、続けた。


「あなたの優しさに救われてるのよ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。


看護師になってよかった。


心からそう思えた。


この仕事は忙しい。


命を預かる責任は重い。


失敗すれば落ち込むこともある。


それでも、誰かの「ありがとう」が、その一日を意味のあるものに変えてくれた。


私は幸せだった。


家族に愛され、友人に恵まれ、職場にも恵まれていた。


誰かに傷つけられているわけではない。


誰かに追い詰められているわけでもない。


それなのに──。


二年目の春、私の中で何かが、音もなく軋み始めていた。


けれどそのときの私は、その小さな異変を「疲れているだけ」だと思っていた。





その朝は、いつもと何も変わらない朝だった。


目覚まし時計が鳴り、私はゆっくりと目を開ける。


カーテンの隙間から差し込む春の日差しは柔らかく、窓の外では小鳥が鳴いていた。


今日も日勤だった。


顔を洗い、鏡の前へ座る。


いつものように化粧水をつけ、下地を塗り、ファンデーションを伸ばしていく。


何百回と繰り返してきた朝の支度。


何も変わらない。


何一つ、変わらないはずだった。


そのときだった。


ぽたり、と鏡の前に一粒の雫が落ちた。


私は手を止めた。


涙だった。


気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。


「あれ……」


慌てて指で拭う。


けれど、また一粒。


もう一粒。


止まらない。


塗ったばかりのファンデーションが涙で流れ、頬に薄い筋をつくっていく。


なんで。


なんで私、泣いてるんだろう。


仕事がつらいわけじゃない。


誰かに怒られたわけでもない。


患者さんとの間に何かあったわけでもない。


家族とも友達とも、昨日まで笑っていた。


思い当たることは、何一つなかった。


私は鏡の中の自分を見つめた。


泣いている顔なのに、悲しそうには見えない。


苦しそうでもない。


ただ、涙だけが静かに流れていた。


まるで身体だけが、私より先に何かを知っているようだった。


「疲れているのかな」


そう結論づけるしかなかった。


二年目になって、仕事量は増えた。


責任も少しずつ重くなった。


きっと、そのせいだ。


誰だって疲れることはある。


そう自分に言い聞かせながら、ティッシュで何度も涙を拭き、崩れた化粧を直した。


深呼吸をひとつ。


鏡に向かって、いつもの笑顔をつくる。


「大丈夫」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。


制服に袖を通し、家を出る。


病院へ向かう電車の窓には、少しだけ疲れた自分の顔が映っていた。


病棟へ着けば、いつもの朝だった。


「おはよう、櫻木さん」


「おはようございます」


ナースステーションでは先輩たちが笑い、夜勤者から申し送りを受ける。


いつもと同じ景色。


いつもと同じ声。


私はいつもと同じように笑っていた。


誰にも気づかれなかった。


今朝、理由もなく泣いていたことを。


それでいいと思った。


きっと今日は少し疲れているだけ。


今日は早く寝よう。


そうすれば、明日には元に戻っている。


私は本気で、そう信じていた。


だからその日も、患者さんの病室を一つひとつ回り、「おはようございます」と笑顔で声をかけた。


誰一人として、私の心に小さなひびが入り始めていることには気づかなかった。


そして何より、そのひびに気づいていなかったのは、私自身だった。





その日を境に、涙は毎朝のように私を訪れるようになった。


目覚ましが鳴る。


目を開ける。


そして理由もなく涙が流れる。


悲しい夢を見たわけでもない。


仕事へ行きたくないと思っているわけでもない。


それなのに、涙だけが勝手に溢れてくる。


私は毎朝、鏡の前で化粧をやり直した。


ファンデーションを塗る。


涙で流れる。


もう一度塗る。


また流れる。


「今日は泣かない」


そう決めても、身体は私の言うことを聞かなかった。


それでも仕事へは行けた。


病院へ着けば、不思議なくらいいつもの私になれた。


患者さんと話し、採血をして、点滴をつなぐ。


先輩と笑い、同期と冗談を言い合う。


誰も、私の異変には気づかなかった。


いや、気づくはずがなかった。


私自身が、必死に隠していたのだから。


仕事が終わって家へ帰ると、どっと疲れが押し寄せる。


何をしたいわけでもない。


テレビをつけても頭に入らない。


好きだった小説を開いても、文字が目を滑っていく。


気づけば、ソファに座ったままぼんやりと天井を見つめている時間が増えていた。


「疲れているだけ」


その言葉を、私は何度も繰り返した。


きっと新人の頃より責任が増えたから。


二年目だから求められることも多いのだろう。


少し休めば元に戻る。


週末になれば回復する。


そう信じていた。


けれど、週末が来ても何も変わらなかった。


眠っても疲れは取れない。


休んでも心は軽くならない。


月曜日の朝になると、また涙が流れる。


原因を探した。


仕事だろうか。


違う。


人間関係だろうか。


違う。


家族とのことだろうか。


違う。


恋人がいるわけでもないから、恋愛の悩みでもない。


何度考えても、「これだ」と思える理由は見つからなかった。


理由が見つからないことが、一番苦しかった。


理由があれば、解決できるかもしれない。


誰かに相談するときも、「これがつらい」と言える。


でも私は、自分が何に苦しんでいるのかさえ説明できなかった。


ある日の昼休み、休憩室で先輩が私の顔を見て言った。


「櫻木さん、大丈夫? 最近ちょっと疲れてない?」


私は反射的に笑った。


「大丈夫です。少し寝不足なだけです」


嘘ではなかった。


でも、本当でもなかった。


本当は、自分でも何が起きているのかわからなかった。


帰宅してベッドに横になる。


天井を見つめながら、私は静かに思った。


どうして。


どうして私は泣いているんだろう。


こんなに恵まれているのに。


家族は優しい。


友達もいる。


職場の人たちも温かい。


患者さんも笑ってくれる。


私は幸せなはずなのに。


幸せな人は、こんなふうに毎朝泣いたりしない。


そう思えば思うほど、自分がわからなくなっていった。


そしてある朝。


目覚まし時計が何度鳴っても、私は起き上がることができなかった。


身体は動いている。


意識もある。


けれど、身体を起こすことだけが、どうしてもできなかった。


その瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる音がした。


私は初めて、自分の中で何かが壊れてしまったのだと知った。


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