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愛能う限り


「今日は、何をしましたか」


診察のたび、主治医は同じ質問をした。


休職したばかりの頃の私は、その質問が苦手だった。


「特に何もしていません」


そう答えるたびに、自分が空っぽの人間になってしまったような気がした。


看護師として働いていた頃なら、いくらでも話せることがあった。


採血がうまくできたこと。


患者さんが退院したこと。


後輩に指導したこと。


忙しかったこと。


失敗して落ち込んだこと。


毎日が誰かのために動いていて、自分には役割があった。


でも今は違う。


朝起きて、ご飯を食べて、薬を飲んで、少し散歩をして、眠る。


それだけだった。


そんなある日、私は診察室で、いつものように答えた。


「何もしていません」


主治医は小さく笑って言った。


「本当に何もしていませんか」


私は少し考えた。


「……洗濯をしました。それから、お昼ご飯を作りました。……近くの公園まで散歩に行きました」


言いながら、こんなことを報告して何になるのだろうと思った。


けれど主治医は、嬉しそうに頷いた。


「十分ですね」


私は思わず聞き返した。


「え?」


「休養中は、それで十分なんです」


私は首を横に振った。


「でも、それくらい誰でもできます」


「いいえ」


主治医は穏やかな声で言った。


「櫻木さんにとっては、『それくらい』ではなかったでしょう」


私は言葉を失った。


たしかに数週間前までの私は、顔を洗うことさえ難しかった。


食事を作る気力もなく、一日中カーテンを閉め切っていた日もあった。


あの頃の私から見れば、洗濯をして、散歩へ行けたことは、大きな一歩だったのかもしれない。


それなのに私は、その一歩を認めようとしなかった。


もっとできる人がいる。


以前の私はもっと働けていた。


そんなことばかり考えていた。


診察が終わり、帰宅すると、母が庭に出ていた。


「亜美、一緒に水やりしない?」


昔の私なら、「あとでね」と言って部屋へ戻っていただろう。


けれどその日は、少しだけ気持ちが違った。


「うん」


ホースを受け取り、鉢植えへ水をかける。


乾いていた土がゆっくりと色を変え、水を吸い込んでいく。


母が笑って言った。


「花ってね、毎日少しずつしか変わらないでしょう」


私は頷いた。


「でも、ちゃんと育ってる」


その言葉に、私は花ではなく、自分のことを重ねていた。


私はずっと、「昨日と同じ自分」を失敗だと思っていた。


昨日より働けなければ駄目。


昨日より成長していなければ駄目。


そんなふうに、自分を急かし続けてきた。


でも花は違う。


毎日目に見えて大きくなるわけではない。


雨の日もあれば、風の日もある。


それでも根を張り、水を吸い、静かに生きている。


その姿を見ていると、「何もしない時間」にも意味があるのかもしれないと思えた。


その夜、私は久しぶりに本棚から一冊のノートを取り出した。


看護学生の頃から書き続けていた日記だった。


ページをめくると、実習で失敗して泣いた日のことや、国家試験前の不安、患者さんに初めて「ありがとう」と言われた日のことが綴られている。


最後のページは、休職する少し前で止まっていた。


私はペンを手に取る。


何を書こうか迷った末に、一行だけ書いた。


今日は、庭の花に水をあげた。


それだけだった。


それだけなのに、不思議と心が少し軽くなった。


私は初めて、誰かのためではなく、自分のために言葉を書いていた。






季節は少しずつ春から夏へと移り変わっていった。


診察の日。


主治医は以前のように「いつ復職しますか」と尋ねることはなかった。


私もまた、「いつ働けますか」と聞かなくなっていた。


不思議だった。


あれほど復職を急いでいたのに、その焦りは少しずつ形を変えていた。


働きたくなくなったわけではない。


看護師を辞めたいと思ったわけでもない。


ただ、「今はまだ違う」


そう思えるようになっていた。


心理士は以前、私にこう言った。


「休むことも、生きることですよ」


その言葉を、私はようやく少しだけ理解できるようになっていた。


それまでの私は、「頑張ること」が生きることだった。


頑張ることが、人の役に立つことだった。


頑張ることが、愛に応えることだった。


だから休むことは、誰かを裏切ることのように思えていた。


けれど、本当は違った。


身体が悲鳴を上げているのに走り続けることだけが、生きることではない。


立ち止まることも。


眠ることも。


助けを求めることも。


そのどれもが、生きるために必要な時間だった。


私は少しずつ、自分の暮らしを取り戻していった。


朝起きて、台所に立つ。


卵を焼き、味噌汁を作る。


包丁で野菜を切る音が、静かな部屋に響く。


母が一口食べて、「おいしいね」と笑う。


その笑顔を見るだけで、その日は十分だった。


天気のいい日は近くの川まで散歩をした。


川面を渡る風は涼しく、名前も知らない鳥が水辺を歩いている。


以前なら歩きながら仕事のことばかり考えていた。


今日は誰が夜勤だろう。


患者さんは元気だろうか。


そんなことばかりだった。


でも今は、空を見上げる余裕が少しだけ生まれていた。


図書館へも通うようになった。


看護の専門書ではなく、小説やエッセイを借りた。


物語を読んで笑ったり、登場人物と一緒に泣いたりする時間を、私は久しぶりに取り戻していた。


笑うことも増えた。


最初は口元が少し緩む程度だった。


それがやがて声になり、家族と他愛もない話をして笑える日が増えていった。


父は相変わらず冗談を言っては一人で笑い、母は庭の花が咲いたことを嬉しそうに報告する。


祖母は電話で、「今日は何を食べたの」と尋ねる。


祖父は畑で採れた野菜を玄関まで届けてくれる。


誰も、「早く治りなさい」とは言わなかった。


誰も、「早く働きなさい」とは言わなかった。


誰も、「期待しているよ」とは言わなかった。


ただ、いつもと同じように私の隣にいてくれた。


私はある夜、ふと考えた。


もし私が一生看護師として働けなかったら、この人たちは私を嫌いになるのだろうか。


答えは、すぐにわかった。


きっと、ならない。


私が何者であっても。


何もできなくても。


病気になっても。


この人たちは、今日と同じように「ご飯ができたよ」と声をかけ、「おやすみ」と笑ってくれるのだろう。


胸の奥で、何かが静かにほどけていく音がした。


私は今まで、結果を愛されていたのだと思っていた。


いい成績を取るから。


看護師になれたから。


頑張る娘だったから。


だから愛されているのだと。


でも、それは違った。


私は結果を愛されていたのではない。


存在そのものを愛されていたのだ。


その当たり前のことに、二十五年近く生きてきて初めて気づいた。


そして、もう一つのことにも気づく。


私は誰かを大切にすることはできても、自分にはとても厳しかった。


失敗を許さず、休むことを責め、できない自分を責め続けてきた。


誰かに向ける優しさを、自分だけには向けられなかった。


だから私は、小さく心の中でつぶやいた。


「今日くらいは、自分にも優しくしてあげよう」


その言葉はまだぎこちなく、どこか照れくさかった。


それでも、その一歩は確かに、昨日までの私には踏み出せなかった一歩だった。






夏が終わり、風が少しだけ涼しくなった頃。


私は久しぶりに病院へ向かっていた。


復職のためではない。


産業医と、病棟の師長と面談をするためだった。


病院の玄関をくぐると、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。


何度も歩いた廊下。


聞き慣れたナースコール。


すべてが懐かしかった。


けれど、不思議と以前のような焦りはなかった。


病棟へ戻ることだけが、私の価値ではない。


そのことを、少しだけ信じられるようになっていた。


面談を終えた帰り際、病棟の前を通ると、一人の患者さんと目が合った。


私が休職する前に受け持っていた、高齢の女性だった。


「あら」


その人は目を丸くし、すぐに優しく笑った。


「櫻木さん」


私は思わず笑みを返した。


「お久しぶりです」


「元気だった?」


私は少し考えてから答えた。


「まだ治療中です。でも、少しずつ元気になっています」


女性は静かに頷いた。


「そう」


それだけだった。


「早く戻ってきて」


「待ってるから」


そんな言葉はなかった。


ただ、「元気になっている」と聞いて、本当に嬉しそうに笑ってくれた。


その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


私が看護師だから笑ってくれたのではない。


仕事ができるから喜んでくれたのでもない。


ただ、私が元気になりつつあることを、一人の人として喜んでくれていた。


帰り道、公園のベンチに座って空を見上げた。


雲がゆっくり流れていく。


私は、あの日のことを思い出していた。


朝、理由もなく涙が流れた日。


「休みません」と言い張った診察室。


「どうして私が」


そう何度も問い続けた日々。


あの頃の私は、幸せな人は病気にならないと思っていた。


愛されて育った人は、強くなければならないと思っていた。


でも違った。


人は、どれほど愛されても病気になることがある。


誰にも責められていなくても、自分で自分を責め続ければ、心は静かに疲れていく。


そして、人は愛されているからこそ、その愛を失うことを恐れてしまうこともある。


それは弱さではなかった。


人を大切に思う心が、少しだけ自分を置き去りにしてしまっただけだった。


私はゆっくり立ち上がる。


以前のように、未来を急ぐことはしなかった。


今日歩けるなら、それでいい。


今日は笑えた。


今日はご飯がおいしかった。


今日は誰かに「ありがとう」と言えた。


そんな小さな一日を積み重ねていけば、きっとまた歩いていける。


家へ帰ると、母が玄関で迎えてくれた。


「おかえり」


「ただいま」


たったそれだけの会話なのに、胸が温かくなった。


私はようやく気づいた。


「愛能う限り」という言葉は、誰かが私を愛してくれる限界を表す言葉ではなかった。


人は、愛せる限り誰かを愛し、支えようとする。


両親も。


祖父母も。


友人も。


先輩も。


患者さんも。


そして、その中には、自分自身も含まれていなければならなかった。


自分を責め続ける人は、自分を愛することを忘れてしまう。


自分を愛せる人は、また誰かを愛することができる。


そのことを、私は病気になって初めて知った。


もし、あの日の私に会えるなら、こう伝えたい。


「頑張らなくても、大丈夫」


「休んでも、大丈夫」


「あなたは何かができるから愛されているんじゃない」


「あなたが、あなただから愛されている」


その言葉を、今度は自分自身にも向けながら、私はゆっくりと前を向く。


人生は、思い描いた通りには進まない。


愛されていても苦しむ日はある。


涙が止まらない朝もある。


それでも、誰かの愛に支えられ、自分自身を少しずつ愛せるようになった人は、また歩き出すことができる。


その歩幅は小さくてもいい。


ゆっくりでもいい。


私は今日も、生きている。


愛能う限り。


人を愛し、自分を愛し、この命を愛しながら。


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