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「アンタなんか」

 夕方には塾から紗季が戻ってきて、楓と二人で遊んでいた。母はそんな光景を愛おしそうに眺めていて、大樹は食事の準備をやらされていた。


 ……おかしい。なんか、納得いかない。


 走ったせいで汗だくになって疲れているのに、なんで自分は文句も言わずにこんなことをしているのだ。途中で「大樹(お兄ちゃん)まだー?」なんて急かす声も聞こえてくる。母も視線で空腹を訴えている。


 ……将来的には、こういう場面で手伝ってくれる健気な女性と添い遂げたいかもしれない。


 和やかに食事を終え、当然のごとく大樹が後片付けと皿洗いをこなしているとインターホンが鳴った。大樹はその音を聞いて訝しんだ。


「え? なんでこっちの方が鳴るんだ?」


 大樹が住んでいるタワーマンションでは、エントランスからの呼び出し音が先に鳴るはずだ。防犯上の問題で、部外者はマンション内に入ることが出来ない。

 しかし、今のインターホンは大樹たちの部屋のすぐ外から鳴らされたことになる。


「ご近所さんか、管理の人じゃない?」


 紗季が呟く。大樹は首を傾げた。今までそんなことは滅多になかった。

 濡れた手の水を切って、玄関に向かった大樹はのぞき穴を確認することなく、ドアをゆっくりと押した。


 瞬間、隙間から白い手が挟まれたかと思うとドアが強引に開け放たれた。前に体重をかけていた大樹はバランスを崩す。その間に、誰かが大樹と入れ違いになって部屋に侵入した。


「え、泥棒!?」


 大樹は慌てて立ち上がり、侵入者を追った。やばい、こんなときはどうしたらいいんだ。泥棒が押し入ってきたときの対処法など知らない。人影は猛然とリビングへ向かっていく。焦燥感に駆られる。その先には楓と紗季、それに母もいる。なんとしても彼女たちは守らなければ。


 だが、その決意も杞憂であったかもしれない。その人物と、大樹は一度だけ会ったことがある。


 楓の実姉、森崎奏は楓の腕を掴む。


「楓! こんなところで何やってんの! 今すぐ家に帰るよ!」


 楓は、突然の姉の来訪に驚きを隠せないようだった。大樹も、奏がやってくるという展開についていけない。楓は抵抗の意思を見せた。


「ちょ、意味わかんないんだけど! どうやってここまで入ってきたの!?」


「なんで異性の同級生の家に平気で泊まろうとするの! そしてそれを親同士で合意するなんて……全くもって非常識だよ!」


 奏は力任せに楓を連れていこうとしているが、楓は姿勢を低くすることでその場で踏ん張ろうとする。このままでは、何かのはずみで二人とも怪我をしかねない。大樹は仲裁に入ろうとした。


 だが、一歩飛び出すのが早かったのは紗季だった。取っ組み合いになりそうな森崎姉妹の間に割って入る。


「この人誰!? 楓さんに乱暴しないでよ!」


 楓を守るために、奏を引き剥がそうとするが、奏が無理やりそれを振り払う。紗季は体勢を崩す。その光景が大樹にはスローモーションに見えた。紗季は顔から壁に激突した。


「ああっ!!」

「紗季っ!!」


 楓と大樹の悲鳴が交錯する。二人して紗季に駆け寄る。


「いたた……。うー、ごめん。ドジしちゃった」


「さ、紗季ちゃん、大丈夫なの……?」


 紗季は顔の右半分を赤くしていた。少し擦りむいている。だが出血には至ってないらしい。大樹は救急道具を取りに別室へ向かう。紗季とは対照的に顔を青くした楓が、おそるおそる紗季の頬に触れた。


「紗季ちゃん……」


「えへへ、大丈夫ですよ。楓さんこそ怪我してないですか?」


「っ!」


 自分のことよりも楓の身を案じてくれる紗季に、胸が潰されそうな想いを覚える。楓は紗季の頭を撫でた。どうか、痛みが少しでも和らぐように祈りながら。


 楓は紗季から離れると、その鋭い視線を奏に向けた。奏は妹から向けられる敵意に、平静ではいられない様子だった。


「ねえ。今、危なかったんだけど」


 凄みの効いた迫力満点の声に、奏はさらにたじろぐ。しどろもどろに何か言いかけた。


「だ、だってその子が急に……」


「急に、何? いきなり土足で入り込んできたのはそっちの方じゃん。どっちが非常識だよ。この子の顔にもし一生消えない傷が出来たら、私もあんたもどうやって責任取ったらいいんだよ」


 もしそうなったら、問題の深刻さは男が怪我を負うのとは桁違いの話だ。そんなことくらい、我を忘れている奏にも理解できるはずだ。同じ女という立場であるからこそ、絶対に見過ごすわけにはいかない。


「ごめん、なさい」


 自分の非を認めた奏が、しぼりだすようにして謝罪を口にする。紗季はそれを困った顔で見上げ、楓は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「だったら早く出ていってよ。私はどうせ戻る気はないし」


「っ! それとこれとは話が別!」


「っていうか、なんでまだこっちにいるの? 大学生も夏休みが終わったんだから、早く自分のアパートに帰りなよ」


「お父さんたちから聞いたの! 楓が帰ってきてないこと。友達の家に泊まるとか言って、それが篠原さんっていう人の家だってことも……。そんなの許容される方がおかしいじゃない!」


「なんで昨日の今日で知ってんだよ……。それに、わざわざ京都からこっちに戻ってきたってこと? なんなのアンタ。ストーカー?」


「なっ……」


 奏が言葉を失った。そんな言葉を、実の妹からぶつけられるなんて、思ってもみなかったのだろう。まさに顔面蒼白。奏は奥歯をカタカタと震わせていたが、意を決して言葉を口にした。


「心配、したんだよ……!?」


「それはお気遣いどうも。余計なお世話だけど。じゃ、お帰り頂いても?」


 楓が玄関を指差す。しかし、当然奏がその場を去ることはない。楓は溜息をついて背中を向けた。視界に奏の姿をいれたくなかったのだ。


「……誰にたぶらかされたの?」


「なんだって?」


 何を言い出したのか分からず、楓は問い返す。


「だって、こんなのおかしい。あの楓が、こんな風に変わり果てるなんて」


「……ほんとに、何を言っているの?」


 薄気味の悪さを感じ、楓は腕をさする。


「さっきの篠原くん? そこの紗季さん? それとも藍咲の先輩たち? 確か神谷さんと紅葉さんだったよね。結城かなたって誰のことなの?」


「ちょっと。待ってよ。なんで、あの人たちの名前を知って――」


「いいえ。誰だって関係ない。どいつもこいつも、私の大事な妹をそそのかして――――楓。もし、ろくでもない人たちとの関わりがあるなら今すぐ縁を切りなさい」


「………」


 もはや、奏が楓の交友関係をどうやって知ったのかなんて、どうでもいい。奏ならば、何らかの方法で調べることが出来ても不思議ではないのだから。


 だが、彼らを貶める発言を許すわけにはいかない。


「……馬鹿にしないで」


「楓はまだ十五歳だから、色々なことに影響されやすいのは分かる。でも、学校に行くことが疎かになって、街中を歩き回ってばかりいることが楓にとって良いことだとは思えない」


「まるで見てきたみたいな口ぶりだね。何も知らないくせに。仮にそういう風に過ごしていたとして、アンタには関係ないことでしょ」


「あの両親たちには何も期待していない。だったら私が言うしかないじゃない」


「さっきのアンタの言葉を借りるなら、私が縁を切りたいのは両親と――――お前だよ、奏」


 奏は真顔になった。瞳から光が消え、ぐらぐらと視線は泳いでいるのに表情筋はぴくりとも動かない。心を完全に閉ざそうとすることで、外界からの痛みや刺激を一切受け付けないようにしているみたいだった。


「アンタなんかお姉ちゃんじゃない」


 追い打ちの、トドメの一撃が奏を襲った。

 奏の頬に涙が伝う。けれど、彼女本人はどうして自分が泣いているのか分からないみたいだった。流れ落ちる水滴を何度も拭っていくうちに、ようやく感情が追い付いてきたのか、その場に膝をついた。奏の嗚咽がやけに部屋に響く。


 楓はそれを醒めたように見ていた。むしろ、眉間の皺がさらに深くなり不愉快さを隠しもしない。

 リビングに戻った大樹は、端でただ立ち尽くしていた。見てはいけないものを見てしまった罪悪感が込み上げて、逃げ出したい衝動に駆られる。


「あの、楓のお姉さん……」


「………」


 ふらふらになりながら、奏は立ち上がる。今にも再び崩れ落ちそうな不安定さだ。すれ違いざま、奏の赤く充血した目元を見てしまい、今かける言葉は何もないと悟った。数十秒後、玄関のドアが閉まる音が届く。


「大樹。紗季ちゃんを診てあげなよ」


「ああ……」


 幸い、紗季の怪我は軽いものだった。簡単な処置でも明日には赤みが引いているだろう。

 しかしガーゼを貼ると、思った以上に痛ましい姿になってしまった。楓は悲しげに目を伏せた。


「ごめん、本当に……」


「いいのに。これくらい。それよりも……あの人、楓さんのお姉ちゃんだったんだ」


「迷惑な身内でごめん」


「全然いいんだけど、でも、なんだか、見ていて辛かったな……」


 言ってしまった後で、紗季は慌てて言葉を付け足した。


「大丈夫だよ、楓さん! 私もお兄ちゃんとたまに喧嘩するけど、すぐに仲直りするもん! だから楓さんもお姉ちゃんと仲直りできるよ」


 今の楓にはその言葉が響くらしい。神妙に頷いている。


「俺、ちょっと出てくる」


 タイミングを見計らって大樹は言い、家を飛び出した。奏はまだ同じフロアにいた。おぼつかない足取りのまま、階段を目指している。かなり危なっかしい。


「楓のお姉さん」


 ぎこちない動作で奏が振り返る。大樹を視界に収めたはずだが、意に介さず再び歩き出す。大樹は慌てて隣に並ぶ。


「すぐそこに談話室があります。そこで少し休んでいきましょう」


 気遣うように大樹が言うと、奏はやがて首肯した。


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