「ワンチャンあるの?」
楓の身の上話が終わったところで、大樹と楓の二人は睡魔に敗北した。
肉体的にも精神的にも、疲れが溜まりやすい一日だったことは間違いない。そこからの大樹は熟睡だったが、どうやら楓はそうではなかったらしい。
「三十八度、後半……風邪だな」
楓から受け取った体温計を確認した大樹が、そう呟いた。
目が覚めてから、おそるおそる好きな人の様子を見に来たら、楓は布団の中で苦しそうに荒い息を吐いていた。そして、熱を測ったらこんな結果になったのだ。
「一体どれだけ雨ざらしになっていたの?」
昨日、大樹が楓を見つけたとき、彼女は既にびしょ濡れだった。
「さあ、覚えてない」
力ない楓の言葉を聞いて、大樹は気遣わし気に眉を寄せた。本当に辛そうだ。今日はゆっくり休ませてあげたい。
紗季と母の朝食を用意する傍ら、楓が食べられそうなものを並行して用意する。
と言っても、別に凝ったものが作れるわけでもない。家にあったリンゴやバナナを一口大にカットして、ついでにヨーグルトもつけた程度。
「楓さん、具合悪いの?」
外出用の服に着替えた紗季が問う。日曜とはいえ、受験生である妹には休みはない。今日これからも塾に出掛けるのだ。
「雨に濡れたからな。仕方ない」
風邪薬を探しながら、適当に返事をすると紗季の気配が離れていった。しかし、どうやら家を出たわけではないらしい。再び大樹のもとに戻ってきた紗季は、紙袋を渡してきた。昨日も同じものを見た。
「お前それ……」
「これ、私の服一式。楓さんに貸してあげて」
「いいのか……?」
「ちゃんと楓さんに、そのまま渡してよ! お兄ちゃんは見ないで!」
「お前……それは今更じゃない?」
呆れてしまう。
大樹が篠原家の家事を任されて以来、妹や母の下着類を洗濯して干してやったのは一度や二度のことではない。当然、邪な考えなど起きるはずもない。
馬鹿なことを言う妹の話を聞いてやるつもりはないので、とっとと追い出してしまおう。
だが家を出る間際、紗季はこんなセリフを残していった。
「今日の洗濯物は楓さんのものも入ってるんだから! 変なことしたら楓さんに言いつけてやるからね!」
紗季に言われて、今日初めてそのことを思い至った。危ない。いつもの調子で日干しにするところだった。「あれ、紗季ってばいつの間に新しいパンツ買ったの?」くらい言ってのけてたかもしれない。
リビングに戻る途中、つい稼働中の洗濯機を眺めてしまった。慌てて煩悩を振り払う。今日は母さんに手伝ってもらおう。
◇
一日の家事を手早く済ませて、大樹はランニングに出る。ウォーミングアップ程度にこなした後、近くの公園で素振りとフットワークをした。日曜で部活は休みだが、これだけは日々の習慣として組み込まれていた。
家に戻ると、楓はまだ眠っているようだった。規則的に毛布が上下している。大樹はとあるディスクを取り出して、再生プレイヤーを起動する。
映し出された試合の映像に、大樹は釘付けになっている。当然、映っているのは朝日月夜。彼女が高校に入って以来、部員の誰かが撮影していたらしい。用意してくれた真琴には感謝する。
弱点を見つけるために観察していたはずなのに、気が付くと見惚れている。もちろん、女性としてではなく選手として。
正統派としての無駄のない動きと、質の高いショット。女子としては優れている体力量。
さらに彼女の強みとなるのは、その観察眼だろう。二セット連続先取を目指すだけが、バドミントンの戦い方じゃない。
月夜はよく、一セット目を軽く流して相手の持ち技を全て出させてからゲームを組み立てていた。試合が長引けば長引くほど、体力面で優れている月夜が優勢になっていくのだ。
実際、今見ている試合も似たような形だった。相手は当時三年生の選手で、コントロールに特化したタイプ。狙ったところに、狙った速度と角度でシャトルを操るのは、中々厄介だ。試合の展開をゆっくりと組み立て、相手を走らせるのが得意なのだろう。
その傾向を、試合中の月夜も見抜いていた。
相手のペースに合わせず、強引にショットを叩き込む。対応が後手に回った相手選手は自分の戦い方を見失い月夜の圧勝となった。
やはり強い。かっこいい。
何試合か連続して見続けたが、これといって弱点は見当たらない。
もちろん、月夜が世界一強いだなんて言わない。だが現段階の大樹の実力では、月夜を崩すことすら厳しいかもしれない。
「時間はないのにな……」
「それ、朝日先輩?」
いつの間にか、楓がすぐ後ろに立っていた。いきなり声をかけられたものだから、びっくりして軽く飛び上がってしまった。
「……なに。どうしたの」
楓はきょとんとしている。
昨日の今日だからか、楓の顔を見るのが気恥ずかしい。今更ながら、女子として強く意識してしまう。
「いや、なんでもない、なんでも。もう具合はいいのか?」
「すっかりね」
その場で楓が伸びをする。確かに、元気そうに見える。
「もう少し寝ててもいいと思う。ここで調子に乗って、風邪が長引くことになってもつまらないし」
「へえ? 本当にそうかな?」
「どういうこと?」
「だってぇ、治らなかったらぁ、もっと一緒にいられるよぉ?」
なんだそのギャルみたいな喋り方は。
楓の言うことはもっともだが……。
「いや、今日の夕方には帰ったほうがいいね」
「む。なんでよ」
「それくらいのタイミングが丁度良い。これ以上は誤魔化しがきかないし。一度家に帰って落ち着いたらどう?」
昨日の今日でこんなことを言うのは酷だろうか。
楓が両親に良い想いを持っていないのは、本人の口から話してもらって知っている。信じがたいエピソードの連続に、腹が立ったのも事実だ。
でも、反発していつまでも距離を置くことが正しいとも思えない。
「私より、お母さんのご機嫌取りの方が大事なんだ?」
「仮にも、大事な娘さんを預かっている立場だからね。不誠実なことは出来ない」
楓が仏頂面になった。てっきり癇癪を起こしてくるかと身構えたが、予想に反して楓はおとなしかった。ただし態度はデカい。大樹が座るソファに割り込むと、足で押して大樹を端の方へ押しやった。
「シュッ、シュッ」
擬音を口にして、爪先で大樹の腹を攻撃してくる。威力としては大したことはない。素知らぬ振りをしてビデオを再生する。朝日月夜の対策を再開した。
「昨日の今日で、もう次の女の人を追いかけてるんですか。良いご身分ですねー」
「いや、これは試合のために研究しているだけで……」
「わかってるけど、なんか気に入らない」
大樹の態度に、気を悪くしたのかもしれない。器用なことに、足の指で皮膚をつまんでくる。今度はちょっと痛い。
「もう、しつこい。鬱陶しい。可愛い。いい加減にして」
「ちょっと今一つだけおかしくなかった?」
「だって本音だし」
ちょっかいが止まる。……うん、それはそれで、物足りないというか、寂しいというか、もっとイチャイチャしたい。男子小学生は好きな子にちょっかいをかけるが、男子高校生は好きな子にちょっかいをかけられたいのだ。
「苦しくなったらいつでも遊びにくればいい。紗季が喜ぶ」
「ふぅん。紗季ちゃんだけしか喜んでくれないんだ?」
「……まあ、俺も嬉しいけど。……というか、さっきからおかしくない? 俺昨日振られたよね? え? ワンチャンあるの?」
「さあ、どうだろうね」
にやけた顔をして、はぐらかされる。
こいつ悪魔だなぁ……。それでもちっとも怒る気にはならないのは、惚れた弱みか。今後、楓には頭が上がらない予感がする。
「忙しいから寝てて」
「育児に疲れた母親かな? ずっと横になってても暇なんだよ。何か面白い話をしてよ。例えば……どうして朝日先輩に挑むつもりでそのビデオを観ているのか、とか。だって部活辞めたんでしょ?」
「センパイとは、試合をしようと思ってる。多分、文化祭が始まる前くらいに」
「……なんで?」
純粋な疑問を楓は口にした。部外者にとっては当然の反応。
「いや、これは楓に話すことじゃないというか、部の問題だから。でもとにかく、あの人とは決着をつけないといけないんだ」
「あ、そ」
「自分から聞いてきたくせにその態度なんなの?」
「だって、私には何も教えてくれないってことでしょ。つまんない」
楓が頬を膨らませている。子供っぽい仕草。普段なら、そんなことは絶対しない。
大樹は楓との距離感に戸惑いを覚える。今朝言葉を交わしてからというもの、その違和感はどんどん大きくなっていく。気の抜けた顔、だらしなく伸ばした足、腕で支えられた意外と大きい胸――――隙というか、無防備なところが今の楓には多すぎる。
「なんか楓……ウチにすごい馴染んでる気がする」
「そりゃあ、夏にも泊まったから。大樹が頼んだことでしょ」
借りてきた猫のような態度でいられて困るのも確かではある。しかし大樹の方が、自分の家なのにここでの振舞い方を忘れてしまいそうになる。
もし、楓と一緒に住んだら、こんな感じなんだろうか。
……。
………………。
…………………………………………。
「がああああ!!」
「んぅ!? え、何!? どうしたの!?」
びくっと楓が震えた。やはり落ち着かない。
「ちょっともう一回走ってくる!! いってきます!!」
「う、うん……。いってらっしゃい」
大樹は急いで家を出た。あれ以上楓といたら、気がおかしくなりそうだった。
エレベーターを使わず、階段を勢いよく駆け降りる。大通りを、ペース配分を無視したスピードで走り抜けていく。通行人が、何事かと目を見張るのが分かった。
俺は一体、何をしているんだ?




