『出逢ってくれて、ありがとう』
今回ちょっと長いです。
その後、どうなったかの結論を述べる。
楓は高校受験に失敗した。
試験の数日前から、体調に異変を感じ始め、前日からは誤魔化しようがないほど熱にうなされていた。それでも楓は試験に赴いた。霞む視界、軋む関節、白く靄がかかったみたいにはたらかない頭、おおよそこれ以上ないくらいの悪条件が重なり、試験結果は悲惨なものになった。
「落ちこぼれが思い上がるからそうなる」
父は愉快そうに、そう呟いた。
楓の顛末について語るには、これで十分だ。
問題は、奏のほうにある。
もちろん、それは試験の合否にトラブルがあったという意味ではない。彼女は受ける全ての大学への切符を勝ち取り、周囲の期待に十二分に応えた。
しかし、彼女が進路として決めた大学は京都にあった。当然、今の住居からは通えない。大学近くに部屋を借りなければならないのは自然の流れだった。
当初、両親はそれに反対した。現在の住所から引っ越すことなく通える一流大学にも合格しているのだから、そちらに通うべきだと。だが、奏は頑なに譲らなかった。それが自分の進むべき道だと言って、即決で京都に旅立った。
奏との別れの言葉はなかった。あの日以降、奏とは一言も口をきいていなかった。
奏がいなくなってから、毎日のように静寂に包まれている実家の空気を目の当たりにして、ようやく実感が湧いてきた。
本当に、森崎奏は消えたのだと。
ずっと目障りだった。自分には出来ないことを軽々とやってみせて、その差に苦しみ続ける日々を強いられてきた。そのストレスは尋常でなく、奏がいなくなってからは少しだけ気が楽になった。
ある日、楓は眠るときに涙を流した。
寂しいだなんて思っているはずがない。これは受験に失敗した悔しさの涙だ。楓はそう思い込むようにして、眠りにつく。
◇
滑り止めで受けた藍咲学園に合格した。
試験のときは何も考えていなかった。問題文を見て、思いついた答えを書いただけ。結果的に気負わず解答したおかげで、合格点を優に超えていた。
新入生代表の挨拶をしてほしい、という連絡があったのは合格通知から数日後のこと。楓はそれを無視した。藍咲を代表するつもりはない。
明確にレールから外れたのだ。もう、奏を追いかけることは出来ない。超えるなんて、夢のまた夢。これから、差は広がっていく一方だろう。誰も、楓のことを見てはくれない。
無気力感とでもいうのだろうか。入学当初はそんなものに支配されていた。
夜に意識が冴えわたって眠れなくなり、朝起きるのが億劫だった。空腹感は覚えているのに、食事が喉を通ってくれなくなった。髪をすくことが、歯を磨くことが、体を洗うことが面倒になった。
足に力が入らないのだ。布団の中に潜り込んで、脱力したまま一日が終わる。
父と母の言い争う声が聞こえる。多分、自分のことだ。父は楓に関しては放任主義を貫いている。母は世間体のために、引きこもり予備軍の自分を外に出そうとする。
家にはいたくない。でも、他に行きたいところもない。
仕方ないので、学生としての本分を果たすために、遅刻しながら学校に向かった。担任に怒られる。クラスメイトが笑う。ここ何日かでお決まりになったいじりだ。
くだらない。
こいつらも、私も。
そんなある日のことだ。いつも通り虚ろな目をして校内を徘徊していた楓は、一人の若い女性に呼び止められた。
彼女は結城かなたと名乗った。相談室の管理人をしているらしい。
相談室って何? と問う楓に、生徒の悩み相談を聞く場所だとかなたは答えた。かなたに連れられるまま、相談室を訪れる。中は結構綺麗だった。
かなたは何も聞いてこなかった。二人でお茶を飲んで過ごしてその日は帰った。
それからというもの、学校に行くついでに相談室にも顔を出すようにした。
いや、目的としては、かなたに会いに行くことがメインになっていた。年齢が近いせいなのか。かなたを大人として認識できず(本人には失礼だが)一緒にいると何故だか落ち着くのである。
そこに、一人の男子生徒がやってきて、楓は若干飛び跳ねた。
「ん? 相談中の札はかかっていなかったが……お取込み中か?」
そういえば、かなたが一方的に話した会話の中に、二人の生徒の名前がよく登場していた。極端な面倒くさがり男とお菓子好きな少女について。
案の定、男子生徒は神谷隼人と名乗った。
「出た方がいいか?」
「いえ、単におしゃべりしていただけなので。大丈夫ですよ」
そう言われた途端、神谷は我が物顔で相談室に入って、ソファに寝転んだ。そういう風に使わないでください、とかなたが小言を言う。神谷は意に介さず、すぐに寝息を立て始めた。
そっか。今更だが、ここは相談室という部屋だった。すっかり忘れていた。
ならば、何も悩みを話していない私は、ここにいても許されるのだろうか?
疑問に思うと、急に居心地を悪く感じた。かなたが、楓に声をかけてきたのは気まぐれではないはずだと思い直す。一人で暗い顔している生徒がいるから『管理人として』接しているだけ。
楓は鞄を持って、立ち上がる。また、体に力が入らない。覚束ない足取りで出口まで歩く。
「あ、今日は帰っちゃうんですか?」
「もう、いいですから」
「え?」
「無理して……私と話さなくていいですから。先生は仕事だから、私と話してくれたんでしょう?」
「ま、待って!」
冷静に考えれば、結城かなたはそんな人ではないと分かるはずだった。しかし、このときの楓は生活リズムの乱れと被害妄想で正常な判断が出来なくなっていた。
怖かった。また大人に失望するのが。
「おい、一年生」
低い声に足がすくんだ。先ほどまで寝ていた神谷が、起き上がっている。まさかずっと眠ったフリをしていたのではなかろうか。
「結城さんに会ったのは今日が初めてか?」
「い、いえ。何回か」
「だったらお前、人を見る目がねえな。結城さんはそんじょそこらの大人とは、わけが違う」
「確かに、あんまり大人らしい雰囲気は感じないですけど」
「二十四だからな。新米なんだよ」
「あれ!? なんか二人してひどくないですか!?」
突然矛先が自分に向いたことで、かなたが悲鳴じみた声をあげる。
「けど、そういうことじゃない。結城さんは仕事とか役割とか、そんなくだらないことのために動く人間じゃねえんだ。気が付いたときには先に行動を起こしている。知っているか? この人、暇だからって勝手に校舎の掃除をして、後で学年主任はもちろん、ダメ押しで清掃担当の人からも怒られてんだぜ?」
「ちょ、ちょっと待って神谷くん!! なんで知っているの!? そしてそれをどうしてこの子に教えちゃうの!?」
真っ赤になって、かなたが叫ぶ。
「こんな人相手に、見栄を張るだけ損だと思うぜ? ……それと、これ以上結城さんに
変な言いがかりをぶつけるなら、容赦しない」
楓は、神谷から本気の怒りを感じ取った。この怒りの根源は、かなたへの思いやりから来ているのは明白だった。少なくともこの人にとっては、結城かなたは大事な存在。
「あの、神谷くんの言葉は言い過ぎだけどね? 私も、あなたのことを仕事だからとか、相談室の管理人だからって理由で接しているわけではないって、主張したいかな」
まだ赤い頬のまま、かなたがおずおずと発言した。
「私は君たちほど子供ではないけど、立派な大人ってわけでもない。けど、私はずっと変わらずここにいるから。私が言いたいのはそれだけ」
ここにきて、楓はかなたのスタンスを理解した。
彼女は、自分から根掘り葉掘り他人の事情を詮索しないのだ。動かざる山のごとしで、じっと待ち続けている。楓と過ごした時と同じように。
「あ、でも聞きたいことが一つあったんだった」
たった今何か思いついたらしい。かなたはこんなことを言ってきた。
「そろそろ、あなたの名前を教えてちょうだい?」
◇
名前を教えたついでに、今日までの日のことを全て話した。楓が何を考え、失敗を繰り返し、どのように生きてきたのかを。
家族でさえ、奏にさえこんな詳細なことは告げていない。近しい人ではなく、大人でもないけど少しだけ年上な相手だからこそ、楓は話せたのだと思っている。
「よくわかんねーな」
ばっさりと斬り捨てたのは神谷だった。別に同情を誘ったわけではないが、この一言はそれなりに腹が立つ。
「神谷くんっ!」
「何のために生きていけばいいか、わからないって随分壮大な悩みに聞こえるけどよー」
神谷が髪をくしゃくしゃと引っ掻く。
「お前、中学時代はガリ勉だったわけだろ?」
「言い方がムカつきますけど、まあ」
「だったらさ。その三年間で見落としていた楽しいことが、いくらでも転がってるでしょ。まずはそれを探したら?」
楽しいことを探す、だと?
そんなことをしていて、いいのか? 許されるのか? あれだけ啖呵切っておいて、おいそれと別の生き方に変えるなんて……。
「義務教育は終わったんだよ。お前はもう、自分で考えて生きることを許されたんだ。お前は自由だ」
「でも、私はまだ、子供で……」
「お前は結局、親や姉に自分を見ていてほしいんだろ。だから、そうなっていない自分が不安で仕方ない。まずはそこから抜け出せ。自分の機嫌くらい自分で取れ」
いつまでも家に甘えるな、と言いたいのだろうか。だとしたら正論だ。
正論過ぎて、全く前向きに捉えられないことを除けば、有難いお言葉だったろう。
「親とか兄弟とか、ただ同じ場所で生活してるだけの奴らに、どうしてそこまで依存したがるのか、俺には分からないね。自分を見てほしいと思う人間くらい、自分で決めるっしょ」
「そんな人、私にはいないです」
「そうか。俺はいるけどね。目の前の結城さんと、彼女の紅葉」
「えっ。彼女とかいるんですか。その性格で?」
「おう。羨ましいだろ?」
「彼女さんが可哀そうな気がします」
「ああん?」
めちゃくちゃ睨まれる。でも、あんまり怖くはなかった。わざとそういう顔を作っているのかもしれない。
「結城さんはどう? ベテランとしての考えは?」
「なーんか、神谷くん、私のお仕事取ってばっかり。最初こそ何を言い出すのかヒヤヒヤしたけど、結局良い感じにまとめてるし……。神谷くん、将来は先生になったら?」
「やだよ。薄給なのに長い拘束時間、馬鹿な子供の相手、モンスターペアレントの対応……魅力をちっとも感じないね。俺は将来働かないで生きていきたい」
「いや、あの、教員を目指して日々奮闘中の私を捕まえてその言い草はどうなの……?」
「話、逸れてるよ」
神谷に指摘されて、慌ててかなたは楓に向き直った。
「でも……楓ちゃんは凄いと思ったよ。ひたむきで一生懸命に頑張り続けて、ご家族にもちゃんと向き合って。誰にだって出来ることなんかじゃないんだよ。楓ちゃんは本当に、凄いよ」
「あ、はは。本当にそう、ですかね」
そんなこと、今まで一度も言われたことないし、自分でも信じられない。
自分よりも優れている人なんて、姉の他にも何人も見てきた。彼らを差し置いて『頑張った』なんて口が裂けても言えない。
もちろん、覚悟は本物だった。けど楓だって四六時中、刹那だって気を緩めずに過ごしたわけではない。時には逃げたくなって、机に向かえなくなった。課題が終わってないのに限界がきて寝落ちたこともある。漫画やゲームに手が伸びたことも。
そういう小さな甘えや諦めがあったから、今自分はこんなところにいるのではないか。
「バーカ。それくらい誰だってやってるし、量をこなせば上手くいくわけじゃない。必要なことを適切なタイミングでこなしたから結果がついてくるんだ」
相変わらず分かりにくいのだが、神谷なりの励ましだと思うことにする。
そんな器用なやり方が分かるなら、苦労してないけれど。
「楓ちゃんは……この学校に来たのは間違いだった?」
「いや、その……」
答えづらいことを聞いてくる。楓は言葉に詰まった。かなたは「いじわるで聞いたわけじゃないの」と言い訳してから、
「私ね、この学校の卒業生なの」
と、教えてくれた。
「ひいき目かもしれないけど、良い学校なんだよ? 意外と経歴のすごい先生とか、頼んでないのに大盛りにしてくる購買のおばちゃんとか、マンガと映画まで楽しめる図書館とか、いつの間にか福笑いをしてくるモーツァルトとか、添い寝してくる人体模型とか……」
「段々、七不思議じみてきてね?」
「茶化さないで! 思い出に浸ってるところだから!」
「どんな思い出だよ……」
呆れる神谷を無視して、かなたは続ける。
「楓ちゃんにとっては、望んだ結果じゃなかったのかもしれない。本当はお姉さんを追いかけていきたかったみたいだけど――出逢いは、全部偶然の連続だから。これだけは言わせて」
途中から、意識が強く惹き付けられた。
楓は背筋を正して、次の言葉を待つ。
「出逢ってくれて、ありがとう。私、心の底から本当に嬉しいの」
「――――」
「いつでも遊びにおいで。待っているから」
ぞくぞくと何かが這い上がってくる。鼻の奥がツンと痛む。喉の近くが痙攣を繰り返し、抑えようと思っても激しさを増す。
ダメだ。泣くな。みっともない。
けど堪えることは出来なかった。顔を思いっきりしかめて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、楓は声を上げて泣き喚く。まるで幼子のように。
思い返せば、満足に泣いたことなどない。ずっと気持ちを殺して、何も感じないように振舞ってきた。そういう生き方を求められていたから。
でも、そうじゃなくてもいいと。
初めて赦された気分だった。
◇
神谷の助言とも言えない助言に従って、楓は『楽しいこと』探しを開始した。
手始めに、スマートフォンにゲームのアプリを入れまくった。中学時代はこんなつまらないものに、どうしてみんな熱中しているのか分からなかったが、やってみると意外と面白い。
レア度の高いキャラクターやアイテムのためにガチャを回すが、中々目当てのものが出ない。課金してでも手に入れたくなるのも、今なら頷ける。
一つそうしたものにハマると、他のジャンルへ足を踏み入れるハードルは低くなる。色々試した結果、楓は漫画喫茶や映画館を頻繁に利用するようになっていた。
学生同士の溜まり場としては、カラオケやボウリングが多数派だが、楓としてはしっくりこなかった。一人でやっていて没頭できるほどではないし、奏との思い出がフラッシュバックしていまいち楽しくない。
その点、漫画や映画、スマホゲームは、気軽に遊べて体力もさほど消費しない。やり方を間違えなければ大きな出費にもなりにくい。今まで気が付かなかったが、どうやら自分はインドア派の素質が根深いらしい。
そんな生活を続けていくうち、自分の中で確実に意識の変化が起こった。
まず家族からの視線が気にならなくなった。自分が彼らにどういう風に認識され評価されているのか。以前はそれが気になって仕方なかったが、今はソシャゲのイベントの方が気になる。
次に、心にゆとりが出来たおかげで食べるものに気を配るようになった。別に栄養バランスに気を付けたいわけではなく、食べたいと思ったものを食べるようにしただけだ。
東京駅にある絶品のラーメン、六本木の馬鹿みたいにデカいハンバーガー、アホみたいに長い容器に入ったパフェ。とにかくネットに上がったものの中から面白そうなメニューは片っ端から食べにいった。
生きている、そう実感した。
初めて、自分だけのために行動し、欲求を満たしている。形容しがたい満足感に浸った楓はもう死にたいなどとは考えなくなっていた。
今度は別の要因から体調管理が出来なくなって、遅刻が常習化してしまったのは言い訳のしようもないが……。
学校では、相談室で大半の時間を過ごした。この頃になると、入学当初に比べて明らかに楓の肌は血色が良くなっており、当然かなたたちはそれに気付いていた。わざわざ、それを口にしないのは、彼らなりの気遣いだったのかもしれない。
桜庭紅葉という、神谷の彼女を紹介してもらった。めちゃくちゃ身長が低かった。小学生かな? 神谷さんはロリコンなのかな? という言葉が喉の奥からせり上がったが、なんとかこらえる。
紅葉には、会うたびにお菓子をもらった。失礼なことを考えたのを謝りたいくらい良い人である。紅葉をスイーツバイキングに誘おうとしたら、神谷に止められた。女相手でも、彼女は取られたくないらしい。
家に帰って、自分の部屋に戻ったとき、また不意に泣けてきた。
別に悲しくて涙が出たわけではない。自分の幸福を噛み締めただけだ。幸せなのに泣けるだなんて、何て馬鹿なんだ、とは思わないでほしい。これはマジだ。
こんな自分に、こんなに楽しい時間が与えられるなんて、まったく信じられなかった。
結城かなた。神谷隼人。桜庭紅葉。
彼らのことを想うと、胸があたたかい。
このあたたかさを、誰かに分けてあげたいくらいだ。
そう考えたとき、同じクラスメイトの篠原大樹の姿が浮かんだ。なんであいつなんだろう。
思えば、藍咲で隣の席同士になってからというもの、高校に入って初めて会ったような気がしないのだ。没個性的な顔なのに、何度も見たような……。
一度気にし出すと止まらない。翌日以降、楓は適当な話題を振って対話を試みたが、成果はちっとも上がらなかった。というより、大樹はどもるし視線が泳ぎまくるし、まともに会話出来ないのだ。これだからコミュ障は。
彼はいわゆるぼっちだった。一人でいるのが平気というわけではないだろう。先ほどからちらちらと、クラスメイトに話しかけようとして口をパクパクさせている。そして結局何をするわけでもなく自分の席に戻っていく。
じれったいなあ、と思う。
しょうがないから君の友達第一号になってあげてもいいよ?
とかなんとか考えていたら、ある日から大樹の姿をクラスで見かけないことが増えてきた。昼食の時間とか、休み時間とか、誰かと会っている気配を感じる。
お? まさか友達でも出来た?
楓はこっそりと大樹を尾行した。暇だったからなんとなく。どうせお相手は大樹に良く似た陰キャラだとは思うが。
だが何故だか、大樹は一年生の階を抜けて別棟の方へ向かう。そちらは上級生たちがいるエリアだ。何してんだあいつ……。
だが興味深い。もしかしたら面白いものが見れるかもしれない。
やはり大樹は二年生のクラス、その一室に入っていった。しかも特待生のクラスだ。藍咲では二年次以降、成績上位者だけを集めたクラスを一つ作っている。流石の楓も少し気後れしながら、中を覗く。
「なっ、なんであの人がこの学校に……」
朝日月夜。
楓の母校での有名人。奏に勝るとも劣らない才覚を持ち合わせ、その美貌で色んな男を惑わせた―――というと語弊があるか。月夜は言い寄ってくる男子生徒に迷惑しているみたいだったから。告白される場面を何度も見たことがあるが、まともに相手をしていたところは見たことがない。
「篠原くん、どういうつもりなんだ……?」
無謀にも、あの朝日月夜とお近づきになりたいなどと考えたのだろうか。いや、大樹はそういう下心を持っても、胸に留めて終わるタイプだ。それに見たところ、大樹が月夜に言い寄っているという雰囲気でもない。月夜は、当たり前のように大樹の存在を受け入れている。多分、二人には何かしらの接点があって――――
「あ、ああ! そうか! 部活! バドミントン!」
ようやく全ての謎が解けた。
大樹は楓と同じ中学出身で、月夜と同じバドミントン部だったのだ。帰ってから中学校のアルバムを確認して、裏付けも取れた。三年間で一切関わりを持たなかった生徒も、探せば何人かいるものだ。
なんで同じ中学出身なのに、高校でクラスが被るのだろう。ミスか。普通はありえないし。
それにしても、クラスに居場所がないからって上級生を相手にそれを求めるなんて変わっている。しかもあんな美人な人を捕まえて。でもしっくりきている。案外、あの二人はお似合いかもしれない。
◇
高校生になって初めての行事は球技大会らしい。
遅刻してホームルームに行ったら、勝手にバスケ出場を決められていた。別に何でもいい。最近は体がなまってきているが、運動神経は良い方だし、バスケは習っていたこともある。
だが、黒板に書かれた、それぞれの種目と出場者の組み合わせで解せないことが一つ。
どうして篠原大樹は、バドミントンに出ない?
得意な種目があるなら、それを選んだ方が活躍の機会が増える。球技大会は一度負ければ終わりなのだから、二日間の日程を乗り切れない。楓としては、さっさと負けて余った時間を相談室で過ごすつもりだから問題ない。
隣に座る大樹の横顔を見ても、真意など分かるはずもない。けれど、どこかバツが悪そうというか、落ち込んでいるようにも見えた。
飽きた……のか。そういえば大樹は部活にしている様子がない。もし未練があるならバドミントン部に所属しているはずだ。
「ま、どうでもいいか」
そこまで興味深いものでもない。何かを辞めるなんて特段珍しくもない。
◇
相談室で昼を過ごそうとしていたとき、無視できない光景を見てしまった。
「おいおい、マジか」
大樹がサッカーの練習をしている。めちゃくちゃ下手くそだった。自信があったから選んだんじゃないんかい。しかも一人で。黙々とボールを蹴る姿に涙を禁じ得ない。
なんだよその強靭なメンタル。周りにも生徒がいる中、一人で下手くそなシュートを打ち続けるとかどんだけハート強いの。クソ真面目か。
見ていられなくて思わず声をかけそうになる。だが、心配は無用のようだ。朝日月夜が合流して、二人での練習が始まる。
次の日も、その次の日も。
楓は二人を見ていた。毎日、彼らはグラウンドにいる。昼休みと放課後に。
「頑張ってんなー」
普通、球技大会のために個人的に練習はしない。あの調子なら当日は十分活躍できるだろう。
彼らを見ていると、落ち着かなくなる。見ていて気分が良いものではない。それなのに目を離せない。それはきっと彼らに何かを求めているからだと思う。
高校生になってからというもの、かなり腑抜けている自覚はある。別に、今の生き方がダメなわけじゃない。かなたと神谷が、色々な言葉を尽くして教えてくれた生き方だ。おかげで、心は軽くなった。
でも以前なら、もっと毎日を必死に生きていた。奏の背中を追って苦しみながらも、ずっと成長を感じることが出来る日々だった。
その点、今はどうだ。中学時代はずっと続けていた勉強の習慣もすっかり抜けきって、自堕落に過ごすのが普通のことだと体が覚え始めている。だから、朝に起きることが出来ない。
「そろそろ、ちゃんとしないといけないのかなー」
その日は、寝る前に少しだけ勉強した。
◇
「君は、ほんっっとに、無駄な努力が好きだね!」
球技大会当日、大樹はクラスメイトから仲間外れにされて、不貞腐れて戻ってきた。遅刻してきた楓と鉢合わせになる形で。
ことのあらましを聞いた楓は、そんなセリフを大樹に送ることにした。当然のごとく憤慨した大樹は再びグラウンドに戻っていった。
「そうそう、君はそうでなくちゃ。落ち込んでいる君なんて似合わないよ」
だいたい、せっかく練習までしたのに、一秒もボールを蹴らないなんて勿体ないにもほどがある。あんなに頑張っていたんだから。無駄な努力になんてしてはいけない。
だからちゃんと、報われてほしい。
◇
すごい、すごい。篠原大樹って、こんなに凄かったの?
球技大会二日目も終わりを迎えようとしていた頃、体育館が騒がしかった。どうやらバドミントンの試合をしているみたいだが、それがかなりハイレベルな試合展開になっているらしい。そこまで大騒ぎするほどなら、まあ見てやろうと思う。
そうしてコートを見て、楓は驚愕することになる。朝日月夜とペアを組んでいる男――それは大樹だった。どういうことなんだ。大樹はバドミントンを出場競技に選んでいないのだから、この試合に出ることは出来ないはずなのに……。
だが、そんなことは些末なことだ。
コート上の四人がラケットを振り、羽が何度も白帯を行き交う。
競技としてのバドミントンを、楓はこの日初めて見た。
文字通り目にも止まらぬ速さで繰り出されるショットの数々、そしてそれに難なく反応してみせるフットワーク。多彩な技の連続。選手たちは観客を魅了し惹き付けている。
そのうちの一人は、あの大樹なのだ。ぼっちで冴えないと決めつけていた彼だ。
こんなに凄いことが出来るなんて、まるで知らなかった。少しだけ……いや、かなり見直した。
試合は残念ながら決着することなく終わってしまった。時間切れだったのだ。
楓は大樹が戻ってくるのを待った。どうやら、最後に羽を追いかけたとき、怪我をしてしまったらしい。それで遅れてきたようだ。他の生徒はほとんど帰宅している。
大樹に、試合の不満を愚痴った。ちゃんと決着するところまで見せてほしかった。
「ずっと見ていたの?」
「へ?」
大樹に言われて、楓は焦った。ずっと夢中になっていたから気が付かなかったが、あの試合はかなり長い時間がかかっていたらしい。途中で、流石に飽きた人もいたようだ。
――――私は、そんなことなかったけど。
でも、それを素直に大樹に教えてやる気にはなれなかった。かなり恥ずかしいことだから。なんならカッコよかっただなんて、絶対に言えない。逃げるようにして楓は去った。
「あ、楓ちゃん」
途中で、結城かなたにばったり遭遇した。軽く会釈する。
「球技大会、お疲れ様でした。今から帰り?」
「今日は運動してないから疲れてないよ。そ。少し大樹と話してたから」
「篠原くんと? 彼は一緒じゃないの?」
「見ての通り。今日は一人で帰りたい気分だし」
かなたは、よく分からない、という顔をする。楓は苦笑する。それでいい。多分、言っても分からないだろうから。
「明日からゴールデンウィークですね。遊んでばっかりじゃダメですよ? ちゃんと学生らしく過ごしてくださいね」
「――――うん、分かってる」
神妙に楓は頷いてみせた。かなたが目を見開く。
「お、おお……。いつになく真剣な感じ。先生嬉しい――ハッ!? そうやって油断を誘って何か誤魔化そうとしてます!? それとも何か仕掛けてるとか!」
「何もないよ、別に……」
ここ何日か、神谷と一緒にかなたをからかってばかりいるので、その勘繰りは仕方ないけど。
でも。
「今はもっと、何か別のことをしてみたいんだよ」
自分自身が夢中になれる何かを。
探し出してみせる。
そうしたら、あいつのようになれるだろうか。
◆
明け方になるまで語り通して、大樹は部屋を出ていった。別にここにいてもいいんだよー? と、からかってみるが、大樹は断固としてソファで寝ると言い出した。そういう線引きをしっかりしているところはポイント高い。
楓は体を横にした。知らない家の天井……というわけではない。夏にもこの家を訪れて五日間ほど滞在した。大樹が部活の合宿に行くから、家族の面倒をみてほしいと言われて。
だから今更落ち着かないなんて、言うつもりはなかったのだが。
「告白されたんだよね、私……」
大樹に。ずっと友達としてしか付き合ってこなかったけど。
そしてそいつが普段使っているベッドを今楓は借りている状態だ。このシチュエーションで何も感じないのは、流石の楓でも難しかった。
「これからどうしよう」
一応、振っておいた。嬉しいという気持ちはあるが、今は付き合うとか考えられない。
なにしろ、今は絶賛家出中なのだ。そっちの方をどうにかするのが先決だし、それが済んだら文化祭の準備が待ち構えている。企画を却下されたから急いで代案を立てなければ。
そういえば中間テストの直しもしないと。課題として指定されているのだ。今回は結果がイマイチで終わったから、直す箇所も多い。すぐに取り掛かりたいくらいだ。
「ああ、もう、やること多すぎだよー」
それが終わってようやく、大樹の気持ちに向き合うことになる。
楓自身、どうしていいのかなんて分からない。誰かに告白されるなんて、生まれて初めての経験なのだ。生まれてこのかた誰かを好きになったこともない。本当に困る。
大樹はその辺り、どう考えているのか。断られてもまたアプローチを仕掛けてくるタイプか。それとも深刻に引きずり過ぎて気まずくなるのか。疎遠になるのは避けたい。我儘だろうか。好意を断っておいて、それでも今まで通りが良いなどと。
「もう、どうしたらいいのか、誰か教えてよ……」
弱々しい楓の声が、部屋に木霊した。
これにて楓の過去編終了です。




