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『奏を超える』

楓の過去編2です。次回で回想終了。


「楓? 少し元気がないように思えるけど、大丈夫?」


 父との話し合いの後、奏のスケジュールについて説明された。大会やコンクール、学校の定期テストなど、奏が忙しくなるだろう日程を頭に叩き込まされる。これらを覚えて行動しろということだ。


 だが、露骨に奏を避けることも禁止された。奏は賢い。特に楓のことは普段からよく観察している。奏に不審がられてはいけないと念を押されているので、奏とは適度な距離感を保つ。父は奏に嫌われたくないらしい。とてもくだらない。だが、そんなくだらないことに付き合わされている自分は、もっとくだらなく無価値だ。


「どうして? そんなことないよ?」


 我ながら白々しい笑顔だ。これで通用しないならどうしようもないが。


「……そう?」


 奏は納得しないながらも、それ以上追求してこなかった。

 把握している予定通りなら、今の奏はテスト勉強で忙しいはずだ。中学生になってからは全国共通模試も受けているのでその勉強だろう。というか、奏に暇な日などありはしない。楓と過ごすために作られた時間は、他のことを疎かにして得たものだったのだ。


 奏は一体何を考えているのだろうか。


 こんな自分と一緒にいることが彼女にとって有益であるはずがない。そんな無駄なことをするくらいなら、奏にはもっと頑張ってもらってより良い結果を出してほしい。そうでなければ、この茶番に何の意味も見出せない。


「ねえ楓。今度またどこか遊びに行こうよ。お姉ちゃん、なんだか疲れちゃった。たまには息抜きが必要だと思わない?」


「……ごめん。クラスメイトの子たちと遊ぶ予定が入っているから」


 それなのに、奏はことあるごとに楓を誘う。

 いい加減、断る嘘のバリエーションも底を尽きかけている。せっかくこちらが気を遣って距離を作ろうとしているのだから、察してほしい。楓は奏に苛立ちを隠せなくなった。


「なんでそんな怒ってるの?」


「別に」


 これ以上奏といるとボロを出してしまいそうだ。楓は逃げるようにして自分の部屋に戻った。そのままベッドに倒れる。

 父との一件以来、楓が学校以外のために外出する機会は減った。当然、全ての習い事を辞めた。後悔などは全くない。むしろ肩の荷が下りてほっとしている。


 だが、退屈な日々だ。何かに精力的に励むことも、気を紛らわすために遊ぶこともなく。

 毎日毎日、奏のスケジュールに合わせて行動するのが楓の人生。


「私、何してるんだろ……」


 その声に応える者はいない。




 奏が高校受験に成功した。

 トップの偏差値を誇る都立高校に、奏は難なく合格した。直前の模試の結果ではA判定だったし、本人も特に気負った様子を見せず試験に臨んだ。当然の結果だろう。


 家が騒がしかった。両親を始めとして多くの人が合格を祝福し、かつての教師陣や友人たちが奏を訪ねてきた。

 楓が奏へ祝いの言葉を贈ることはなかった。わざわざ自分がそんなことをする必要性も感じない。奏もそんなものは求めていないだろう。


 奏が高校生になる年は、楓が中学生になる年でもあった。

 奏が通っていた中学校に通うことになる。制服は丁度入れ違いになる奏のものを与えられた。心境としては複雑だ。別に、新品でないことが不満なのではない。奏と同じ制服を着る資格が自分にあるのか疑わしくなっただけだ。


「私のお下がりでごめんね。でも、すっごく可愛いよ!」


 黒を基調としたセーラー服だ。スカーフの結び方が分からなくて悪戦苦闘していると奏が手伝ってくれた。何気に、奏の受験以来まともなコミュニケーションかもしれない。


「一人で大丈夫?」


「すぐそこじゃん」


 楓とは対照的に、奏は白のブレザー姿だ。楓も奏も、今日はそれぞれの学校の入学式だった。両親は奏の高校に赴くつもりだ。楓はさして気に留めていないというのに、奏の方は未だに納得していなかった。


「まったく。こんな可愛い子を一人で放っておくなんて。悪い大人に攫われたらどうするつもりなのかな」


「いや別に攫われないでしょ……」


 と口にしつつも、それはそれで面白いかも、なんて考えてしまう。今の生活から脱け出す方法があるなら是非とも教えてほしい。


 慣れない制服と、初めてのスクールバッグを携えて中学校へ向かう。一度しか行ったことがないが、先日奏の卒業式で行ったばかりだ。さほど遠くないから迷う心配はない。楓と同じ制服姿も多いことだし。


 小学校からの知人と合流して時間を潰し、ほどなくして入学式は執り行われた。どこの誰だかよく分からないお偉いさんの話を聞き流して、滞りなく式は終わった。楓たちはそれぞれのクラスに向かう。誰もが顔に緊張と不安を張り付けて、黙って担任の話を聞いていた。


 不思議と、楓の中には何の感慨もなかった。もう少し何か感じるかと思っていたのに、こんなものか。翌日以降からの持ち物、保護者への連絡事項の確認を済ませたところで解散となる。さっきまでの静けさとは打って変わって、今度は皆はしゃいで教室を飛び出していった。


 そんなに早く帰りたかったのかな? 楓は呆れかけてすぐに気付いた。校庭と正門前には父母たちが待ち構えている。自分たちの子供がやってくるのを見つけると抱き寄せて、その後に写真を撮る。位置関係やポーズを気にしながら、何度も、何度も。


 冷たい風が吹き抜けた気がした。こんなに暖かい陽気なのに。

 胃をきゅっと絞られたかのような痛みを覚える。惨めさを感じているのだろうか。でも、仕方ないだろう。両親は奏の方が大事なのだから。


 楓のそばには誰もいない。皆、家族のもとへ向かっていったのだ。


 一人でいるところを見られたくなくて、楓は足早に昇降口に向かった。人の視線を気にしているからか、早足になる。そうして大人数で賑わう正門を抜け一息をついたところで、



「か、え、でっ!」



 聞き慣れた声と共に、肩を叩かれる。

 楓は悲鳴を上げた。何事かと、皆がこちらを見てくる。


「あ、ごめん。そんなにびっくりした?」


 申し訳なさそうに、奏が謝った。

 何故、ここに奏がいるのだ。高校の方の入学式は終わったのか? まさか両親も来ているのか?


 あたりを見渡す楓に、奏は告げた。


「残念だけど、お父さんたちは来ていないよ。この後ではずせない用事があるとか言ってたね」


 本当かどうか怪しいけど。奏は楓に聞こえないくらいの声で付け加えた。


「な、なんで来たの? 友達作りとかしなくていいの?」


「だって折角の楓の晴れ姿なのに、家族が誰も来ないなんて悲しいじゃない。高校にはこれから毎日だって通うけど、今日の楓は今日だけなんだから」


「………」


 また、痛みを覚える。けど今度は胸のあたりが苦しい。

 目頭が熱い。やめてほしい。そんな優しい言葉を、奏の口から聞きたくない。

 奏に手を引かれ、写真を撮る。楓が校舎を背に佇む姿だったり、奏と顔を寄せ合っているものだったり、奏は試行錯誤してぶつぶつ唸る。


「どうしたら一番可愛くなるかな……」


「も、もうよくない?」


 既に人の数は少ない。それに疲れが出始めてきている。楓がいい加減帰ろうとした時だった。


「おーい! 森崎~!」


 野太い声に呼ばれる。振り返ると見知らぬ男性だった。いや違う。先生だ、確か。入学式の時に教員紹介の時間があった。その際に前に出ていた一人だ。


「あ、先生! お久しぶりです!」


 応答したのは奏だ。そうか、卒業生が再び母校にやってきたのだから、こういう展開になるのは当たり前か。

 奏の存在に、他の教員たちも気が付いたらしい。たちまちに芸能人が来たかのような騒ぎになってしまった。巻き込まれないように、楓は距離を取った。


「君は、森崎の妹なのか?」


 奏が教員たちの相手をしているのをぼんやり眺めていると、そのうちの一人がやってきて、そうたずねてきた。


「はい。楓といいます」


「そうか、森崎の妹が入学してきたのか。これからよろしく」


「はい。……すごい人気ですね」


 何故か、目の前の教員は自慢げな顔になった。


「我が校きっての秀才だからね。名門校に進んでくれたし、鼻が高い。ここ何年か、我が校にはそういった傑物が集まってくる。去年入学した朝日月夜という生徒がいるんだが、彼女の将来もすごく楽しみだ」


 つい、と楓に視線が向けられる。


「君は―――」


 この後に続く言葉は知っている。君もお姉さんのようになりなさいと言うつもりだ。何十、何百と耳にしてきたセリフ。うんざりするのを通り越して、いよいよ何も感じない。


 だが、予想とは少し違った。


「お姉さんを超えなさい」


「え?」


「それくらいの気概で臨めってことさ。それじゃ」


 後腐れなく、その人物は去っていく。

 一人、取り残された楓はさっきの言葉を反芻する。


「奏を、超える……」


 もう一度口にする。超える、と。

 なりたいとか、目指すではなく、超える。


 もし、本当にそうなったのなら、何か変わるのだろうか。

 奏の妹としてではなく、楓を見てくれる人が現れてくれるだろうか。


 爪が食い込むほど、拳が握られていた。



 今振り返ってみても、中学時代の三年間はとても辛く、つまらないものだった。



 奏を超える。



 寝ても覚めても自分のその言葉が呪詛のようにまとわりつくのだ。他のことに気を配る余裕などなかった。


 クラスメイトが友達と遊ぶ約束をしていても、部活に専念して大会で活躍していても、気になる異性との距離感に悩んでいても。


 そんなこと全てどうでも良かった。

 それどころか、そんな生き方が出来る自分を誇らしいとさえ思っていた。奏を超えるためには、全てをなぐり捨てるくらいの代償が必要なのだ。痛みや苦しみを伴わないと、欲しがった未来を手に出来ない。


 勉強だけでいい。成績で、数字で、楓は存在価値を示したかった。


 小学生から中学生になって、勉強の難易度はかなり跳ね上がった実感がある。定期試験は一夜漬けでどうにかレベルではない。小学生の時以上に、生徒間での優劣がはっきりしていく。


 だが、奏を目標にしている楓にとっては、周囲の人たちとは覚悟の重みが違っていた。


 徐々に、結果はついてきた。最初こそ、その科目の多さ、範囲の広さに苦戦させられたが、きっちりと準備をすれば高得点を狙うことも難しくはなかった。

 楓の通う中学校では成績上位者の名前の張り出しは行っていなかったものの、結果表からだいたいの順位は割り出せた。おそらく、五本の指には入る実力。


 楓は自信を付けつつあった。しかし、学校の勉強だけでは足りない。楓の通う中学校は別に進学校ではないのだ。奏の高校に行くためには、独学では心もとない。


 やはり、塾か家庭教師を検討するしかないのか……。

 気が重かった。


 奏の話題以外で、父と話していられるだろうか。



 早速打診に向かうが、父はかなり手強かった。

 塾に通いたい、もっと勉強したいという旨を伝えたその返事は、


「お前には必要ない」


 という、無情なものだった。

 目を合わせることもなく、一蹴されるのはそれなりに辛い。だが、ここで引き下がってはいけない。


「日本は学歴主義です。勉強をし過ぎて困るということはないと思いますけど」


「奏がいればそれで十分だ。そんな余計なことに使う金はない」


「お金って……」


 楓はたじろいだ。これまで、父が金銭的な事情を口にしたことは一度もない。

 そんなに、自分の家は経済的に厳しい状況だろうか。……そんなはずはない。奏が通う高校は都立高だし、特待生としての待遇を利用して授業料がいくらか免除されているはず。


 それどころか、父の昇進があったという話を耳に挟んだくらいなのだが……。


 相手にすらしていない、ということか。


「それよりも……奏の邪魔になるようなことはしていないだろうな?」


 奏は高校生になってから、再び芸術の世界に戻ってきた。音楽や絵画など、以前と比べてジャンルは少なくなったものの、その分特定の分野に専念して実績を積み重ねている。


 父との契約は未だに続いていた。奏と適切な距離感を保ち彼女の可能性を妨げないこと。


 そんなことは重々承知している。うんざりするほど。


「していません」


「なら、話は終わりだ」


「いえっ、あの……」


 ――お父さん。その言葉を躊躇った。


 奏の代わりどころか、あなたの子供としてすら見てもらえないのでしょうか。

 自分の何がそんなに悪いのか、楓にはさっぱり分からない。非行に走ったり、どこかの誰かの迷惑になるようなこともせず、ただ勉強したいと言っただけだ。


 それだけで、どうしてあそこまで冷たい目を向けられなければならない。

 なぜ、私以外のみんなはあんなに楽しそうなんだ。

 この息苦しさは、どうやって解消したらいいのだ。



「ねえ。これはどういうこと?」



 凛としたその声に、楓だけでなく父も凍りついた。

 腕を組んで仁王立ちした奏がこちらを睨んでいる。いや、正確にはその視線は父親にだけ向けられている。


 楓は、奏の実力や功績を知りつつも、それはフィクションのように遠く感じていた。

 普段の奏は、楓に対して優しくて、そこだけを切り取ればどこにでもいる普通の人にしか思えない。


 だが、今目の前にいる彼女からは、途轍もない貫禄が感じられる。近づくだけで肌がひりひりとして落ち着かない気持ちになる。

 こんな雰囲気を醸し出す人が、高校生で、しかも実の姉だなんてやはり信じられない。


 父が口をパクパクと動かして、おろおろしている。楓はそれをつまらなそうに見ていた。奏は賢い。いつかこんな日が来ることは予想済みであった。まさかこのタイミングとは驚いたが。


「おかしいと思ったよ。楓が急に私から避けるようになって。最初は楓に新しい友達が増えたからだと思っていたけど、楓の態度は不自然だったし」


 父が横目に楓を睨んできた。こうなったのはお前のせいだと言わんばかりに。


「楓の机の中から、私のスケジュール表が出てきた。それもかなり細かいものが。一瞬、舞い上がっちゃった自分が恥ずかしいよ。楓も口ではなんだかんだ言いつつも……だなんて。そんな勘違いをした」


「勝手に人の机開かないでよ」


「それはごめん」


 楓に謝罪の言葉を口にしつつも、奏の眼中には父の姿しかない。奏は父に詰め寄った。


「あなた、それでも人の親なの? あなたが楓にしている扱いはひどい仕打ちで、一歩間違えれば虐待と変わらない。まさか、私が気付いていないことをいいことに、こんなことをずっと続けていたの?」


「す、すまない……。しかし、私は」


「こんな人が親だなんて、恥ずかしい」


 不穏な空気を感じ取ったのだろう。母親まで参戦してきた。父をなじる奏を、母がたしなめようとする。


「奏。親に対してなんですか、その言い方は。あなたには私たちに対する感謝がないんですか」


「感謝とは、人に押し付けるものではありませんよ。お母さん。私は親が絶対に偉いなんて狂った考えは持っていないので。もし自分の言いなりになる存在が欲しいだけなら奴隷でも買ってください」


 母も言葉を失っていた。言い返す言葉が見つからないというより、反論されたこと自体に驚いて動けないでいるようだった。


 奏は両親に意見したことなど一度もない。親、教師、どんな大人が相手でも言うことを聞いて、そして彼らが求める以上の期待に応えてきた。


「楓は自分の部屋に戻っていて」


「はい……」


 有無を言わせない迫力に負けて楓はその場を後にした。

 それから、数時間くらいだろうか。

 奏の怒鳴り声が時折漏れて聞こえてきた。震えあがる両親の姿が目に浮かぶ。爽快感などは、ちっとも湧かなかった。奏に守ってもらえたことに安堵なども覚えない。


 この日以降、変わったことがある。


 一つは、楓の希望が叶ったこと。楓は塾に通い始め、高校受験の準備を始めた。


 一つは、森崎家において、奏に逆らえる者は誰もいなくなったこと。奏は明確に、この家の中では絶対的な支配者だ。


 奏が口にすれば、両親でさえそれに従う。まるでサラリーマンが重要な取引先相手取るようにして奏の機嫌を窺う父。奏の逆鱗に触れないように、一言一句に細心の注意を払う母。

 歪な家族風景だが、奏はそれで溜飲を下したようだった。表面上、両親は楓に対しても優しく振舞っていたからだ。


 二人のストレスの捌け口が、楓に向かっていることに気付かずに。



 それは言葉による暴力だった。

 見た目に怪我として残る暴行などはなかったが、彼らは奏がいないタイミングで楓の人格を破壊した。


「可愛くない」

「話し方が気に入らない」

「奏の方が優秀」

「少しはやる気を出したらどうなの?」

「嘘ばっかり。虚言癖」

「食事中に辛気臭い顔を向けるな」

「お前のせいで無駄に金がかかる」


 問題なのは、彼らに楓を傷つけているという意識が欠如していることだった。

 息を吸うようにして、すれ違いざまに攻撃する。ちょっとしたいやがらせ。まるで子供のようなやり口だった。実際、楓の通う中学校の生徒と大差ない。


 どこにも逃げ場がない。受験が近づくにつれ、家と塾への行き来が一日の大半であったが、塾講師たちも両親とほぼ変わらない。


「アレ、森崎奏の妹らしいですよ。顔はまあ似てますけど、成績はちっとも似てませんね」


 冗談交じりに笑いあう彼らを見て、楓は悟る。ここに来たのは失敗だったと。

 結局、どこにいようと奏の比較対象にされてしまうのだ。


 客観的に見て、森崎楓は学力が劣った存在ではなかった。同年代の平均的な水準と比較すればそれを上回ってすらいる。ただ、奏には遠く及ばない。


 たった、それだけ。


 たったそれだけの事実が重くのしかかる。


「お前らがそういう目で見てくるなら、私もお前らなんか頼るもんかよ」


 大人が大嫌いになった。自分より多くを知り、世渡りを心得ている。しかし、いくら年を重ねていようと結局は分別なく自分の好きなように行動し、結果誰かをないがしろにすることを厭わない。


 一人は気楽だ。孤独は最高だ。誰も楓を傷つけない。憐れまない。


「楓、良かったら勉強をみてあげようか?」


 奏の申し出を黙殺する。

 近づかないでほしかった。楓自身の力だけで結果を残す。それだけが、今まで楓を見下してきた輩を見返す唯一の手段だと、楓は理解していた。


 楓の高校受験の年は、奏の大学受験の年でもある。


 奏の合格が期待されている大学名は、どこも一流大学のものばかり。しかし周囲は奏が失敗することなど微塵も想像していない。楓だってそうだ。そうして実際その通りになるだろう。直前模試で余裕の合格圏内。


 しかし、奏にしては珍しく自分の進路を迷っているようだった。それが楓には不思議に思えた。奏ならば、どこに行ったって活躍できる。何にだってなれるはずなのに。


 受験勉強の息抜きに、楓はリビングに向かった。既に試験まで一週間を切っている。だが、奏と同じ高校に合格できる確率は極めて低かった。出題する問題のヤマが当たれば奇跡的に合格するかも、という程度の手応え。


 それでも、盲目的である他ない。一度冷静になってしまえば、もう走れなくなる。たとえ目を瞑っている状態であろうと駆け抜けるべきだ。


 喉の渇きを潤し、ついでにうがいもしておく。ここからは体調管理もしっかりしなくてならない。インフルエンザは例年通り猛威を振るっている。当日に試験すら受けられなかったなどという情けない結果では終わりたくない。


 楓が自分の部屋に向かっていると、楓の部屋から奏が出てきた。視線が交錯する。奏はバツが悪そうに自身の髪に触れる。


「何してたの」


「あ、うん。ちょっと楓と話したいかな、なんて」


「今はそれどころじゃない。そっちこそ、大学受験はどうなの」


 奏のことを、お姉ちゃんなどとは呼ばない。あのときからの習慣だ。

 奏は、その点について当然気付いている。会話が不自然になることが何回かあった。そういう時、奏は悲しそうに目を伏せるのだ。楓はそれを見るのが苦手だった。そんな顔をされても困る。


「うん。気を引き締めなくちゃって思うよ」


 どうせ全部思い通りになるくせに。白々しい。

 悪態をつきたくなるが、ここでそんなことをしても惨めだ。自分のことだけ考えていればそれでいい。


 奏の横を通り過ぎる際、立ちくらみがした。咄嗟に姉の腕を支えにしてしまう。


「大丈夫!?」


 奏が心配する声を聞いているうちに、意識がはっきりしてくる。楓は自力で立ち上がった。


「ちゃんと寝てる?」


「寝てる時間が惜しい」


「だめだよ。睡眠不足は思考力を低下させるし、健康面でも良くない。たかが受験じゃない。そんな寿命を削るみたいな生活の仕方じゃ――」


「今なんつった?」


 自分でも驚くくらい低い声が出た。奏がすっと身を引く。

 おそらく、このときの楓は奏の持つ迫力となんら遜色ないオーラを備えていた。


「たかが、受験のために必死になるのは馬鹿らしいって? あー、そうですか。いいですね、何でも上手くいく人は。私だってそれくらい人生簡単にいくなら苦労してないよ」


「か、かえで……」


「ふざけんなよ、マジで。私がどれだけ血反吐撒き散らしてここまできたと思ってる。親に、教師に、大人たちにボロクソに言われても、それでも泣き言ひとつ言わなかっただろうが。ずっと耐えてきただろうが。それをアンタが、よりにもよってアンタが否定すんのかよ……」


 涙がこぼれる。我慢していた感情が表に溢れてくる。大量の水を蓄えたダムが決壊するように、抑えていた気持ちが爆発した。


「全部ッ! お前がいたせいじゃん! お前がいたから、私が余計な苦労をするハメになった! なんで!? 私の何が悪いの!? 私は誰より苦しんで、それでも必死に生きてるよ!? これ以上追い込んで何がしたいの!? それとも本当に死んでほしいの? だったらそう言ってよ、死んでやるからさぁ!!」


 喉が張り裂けそうだ。こんな怒鳴り声で叫ぶのなんて、きっと人生でそう多くあることじゃない。けれど、楓は止まれなかった。誰かに不満をぶつけないと、自我を保っていられない。


「お前が、いなくなってくれたらいいのに……」


「―――」


 奏の顔を見なかった。見たくもなかった。

 逃げるようにして部屋に閉じこもる。ぐしゃぐしゃに汚した顔が、幾分かマシな状態に戻ったところで、楓は再び机に向かった。


 と、ノートの上にルーズリーフが置かれていた。楓の受験する高校の入試問題――それによく似た例題と詳しい解説。字癖から、誰が書いたのかは明白だった。何より、犯人の姿も目にしている。


「余計なお世話なんだよ、くそっ」


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