『お姉ちゃんなんていないよ』
楓の過去編。三部ほど。
君が好きだと言ってくれたとき、本当は胸が潰れそうなくらい嬉しかった。
なんて今更白状したら、ちゃんと信じてくれるかな?
◇
森崎楓は元々、人懐っこく甘えたがりの少女であった。誰彼構わず愛らしい笑顔を向け、加減知らずに抱き着いて、皆を困らせた。だが、誰もが思わず頬を緩めてしまう不思議な魅力を備えていた。
幼い頃の記憶は、鮮明に焼き付いていて忘れがたい。親戚付き合いの多い森崎家では、毎日誰かしらがやってくる。同年代の子供たちと遊ぶのも、少し年の離れた大人と話をするのも楽しい。だが、一番大好きなのは、実姉である森崎奏だった。
姉が誇りだった。姉は何でも出来た。わずか三つしか歳が離れていないはずだが、その立ち振る舞いは大人のように礼儀正しく、難しい言葉も使える。どこでそんなの覚えたのだろう。
もちろん、姉ともたくさん遊んだ。折り紙で遊ぼうとすれば、楓がリクエストしたものは全て折ってみせ、アニメに出てきた魔法少女を描いてと言えば、そっくりに模写してみせた。お腹がすいたら、お菓子を作ってくれる。マフィンがとても美味しかった。
「お姉ちゃん大好き!」
「こらこら。離れなさい」
毎日、一緒の布団で眠る。眠るまでの間、姉が絵本を読んでくれるのが、嬉しかった。姉の声を聞いていると、すごく安心する。最後まで読み終わることなく楓は夢の世界に誘われる。
幸せな日々だ。
こんな日がずっと続いていくことを、幼い楓はまるで疑っていなかった。
◇
小学生になってからのこと。楓は父に呼び出された。父はいつも仕事で家を空けるので、顔を合わせることが少ない。まして、こうして改まって話すことなど滅多にない。楓は正座をして父の言葉を待つ。
「いつも奏と一緒にいるそうだな」
「うん! お姉ちゃんが大好き!」
「奏のようになりたいと思うか」
父の言葉に、楓の胸が躍った。姉のように、なる。演劇で主役を務め、歌が上手くて、スポーツも勉強も出来て————みんなから褒められている姉に。
「なりたいっ!」
楓は元気よく答えた。「そうか」と父は短く言い、楓を部屋に戻した。
その日から楓の生活が大きく変わることになる。
まず、学校終わりに塾に通わされるようになった。記憶で覚えている限りほぼ毎日のことだったと思う。数時間、学校で勉強したことを繰り返す。そして少し難しい問題を解く。
習い事は他にもあった。英会話、水泳、ピアノ————羅列していけばキリがないが、とにかく多種多様だった。短い期間中にどんどん詰め込んでいくため、中には一か月で辞めることになったものもある。
ある日、塾での出来事。算数の時間だった。与えられた問題を全問正答したことでご満悦だった楓に、教師は別の問題をもってきた。
「楓ちゃん、今度はこれを解いてみてくれる?」
「なあに、これ」
「応用問題。ちょっと難しいけれど」
「頑張る!」
勢いよく返事して、さっそく取り掛かる。が、問題文を読み終えたところで楓の表情が固まる。全くと言っていいほど、解法の糸口が見えてこない。応用問題だから、既に教わっている知識だけで問題は構成されているのは分かる。だが、そこまでだ。
楓は目に涙を浮かべて謝った。
「わかりません……」
「い、いいの! ごめんね! ちょっとイジワルだったわね」
慌てて問題用紙を回収して、教師は退室しようとした。楓は気が気でなかった。ここまで自力でどうにかなってきたが、初めて壁にぶつかった。もやもやする。ちゃんと解き方と答えを教えてほしい。
楓が頬を膨らませて教師の背中を見つめていると、彼女が小さい声でぼそっと言った。注意を払っていなければ、聞き取れなかっただろう。
「やっぱり、奏ちゃんとは違うか」
似た言葉を、しょっちゅう聞くようになった。楓が躓いたとき、失敗したとき、伸び悩んだとき、決まってそう言われる。中には「真面目にやっているのか」と怒鳴ってくる人もいた。楓は気付いた。この人たちは全員、かつて姉を指導していた人たちなのだ。だから、姉と自分を比較している。
このままではダメなのかもしれない。このままでは姉のようになれない。
だが楓がどれだけ懸命になろうとも、周囲の期待には応えられていないようだった。
嫌気がさし、仮病を使って休んだことがあった。後で父に発覚したときはこれでもかというほど怒られた。
「奏がお前と同じ歳のときは、もう少し出来たぞ」
「またそれ? いつもお姉ちゃん、お姉ちゃんって……いい加減しつこい!」
「奏のようになりたくはないのか」
「うるさいなぁ!」
同時に、姉との関係にも亀裂が生じ始めていた。
「また、お姉ちゃんのせいで怒られた」
中学生になった姉に八つ当たりをした。この頃になると姉妹仲は冷え切っていた。といっても、関係を気にしているのは楓ばかりで、姉は妹について何も負の感情を持ち合わせていなかった。
「楓」
「な、なに」
いつになく真摯な目を向けてくる姉に、楓は少し警戒心を抱いた。いい加減、ことあるごとに文句を言う楓に苛立ったのだろうか。その考えに至ったとき、楓は泣きそうになった。何故こんな気持ちになるのかは、その時は分からなかった。
「今から遊びにいこう。今日は、何の習い事もなかったよね」
言いながら外出の準備をする姉に、楓は狼狽した。そんなことをしたら、両親から怒られてしまう。
「子供が遊んで、どうして怒られなきゃいけないの?」
不安に駆られる楓の腕を強引に引っ張り、姉と二人で家を出た。楓は姉のすぐ後ろにぴったりくっついて歩く。駅に辿り着いたところで姉は二人分の切符を購入した。一体どこまで行こうというのだろう。
今更だが、帰りたくなってきた。だいたい、子供だけで遠出なんて危ない。
「どこ行くの?」
「新宿」
何度か行ったことはあるが、今までは必ず大人が同伴していた。それに人が多くて、怖い人たちもいるはずだ。
「帰ろうよ」
「大丈夫だから」
手を握られる。久々に感じる姉の体温。途端、さっきまでの緊張が嘘のように解けていく。楓は電車から降りるまでの間、その手を離さなかった。
新宿についたところで姉は開口一番に、
「まずはカラオケでストレスを発散しよう」
と言ってすたすたと歩きだした。どうやら最初から決めていたらしい。
カラオケなんて初めて入る。受付での手続きは全部姉がやってくれた。
「ここ、ドリンク飲み放題だって。何がいい?」
ウキウキしている姉を新鮮に感じる。両親や親戚の人たちの前では、表情を変えることなく淡々と話すことが多い。そういえば、姉が笑っているのは自分と話しているときばっかりのような……?
個室は狭かった。鞄を置くと、ほとんど姉と密着してしまうスペースしかない。
「お姉ちゃんの美声に酔いしれるがいいわ」
「なに言ってんの」
楓は吹き出した。だが、実際姉は歌が上手かったので、聴いているうちに惚れ惚れしてしまったのは否定しない。順番が回って、マイクが楓の手に渡る。
「い、いや。いいから」
「なんでよー」
「あんまり自信ないし」
姉の歌った直後など特にそうだ。明らかに姉の方が上手いのだから、自分が歌ったところで仕方ないと思っていた。
「じゃあデュエットしよう」
「え、え? でゅえっと? 何それ」
疑問符を浮かべる楓と一緒にマイクを持つ。途中から採点式を取り入れ二人で100点目指してひたすらに歌いまくった。何十回目かの挑戦の末、ようやく満点を叩き出すことに成功する。その頃には、楓は汗をかくほど熱中していた。
「今度はご飯食べよう」
姉がそう言って連れていってくれたのは、スイーツバイキングの店だった。楓たちの年齢だとかなり安くなるらしい。
そんなことはともかく、色鮮やかなケーキの軍団に楓の視線は釘付けになった。垂れていた涎を姉が拭いてくれた。
夢中になって食事をとり、次はボウリングに行った。何ゲームか遊んだところで、夕方になった。そろそろ帰ろうと告げると姉に、楓は渋々頷いた。もう少し遊んでいたかった。
「楽しかった?」
「うん!」
姉とこんな風に笑って過ごしたのは、いつぶりだろうか。変に姉を意識して、数年も距離を取るようにしていたのが、なんだか馬鹿みたいだった。
帰り道、楓は姉に自分の話をした。友達のこと、習い事のこと、好きなもののこと、姉は笑みを浮かべて聞いてくれていた。
その日の夜、楓は姉の部屋に訪れた。
「お姉ちゃん、いい?」
ノックもなく部屋に入る。姉は机に向かって何かを書いている様子だった。楓が入ってきたことに気付いた姉は慌ててそれらをしまう。珍しい光景だった。
「忙しかった?」
「平気だよ。少しだけ勉強して、もうやめようと思っていたから。どうかしたの?」
「うん、あのね……、い、一緒に寝ない?」
携えた枕で顔を隠して、楓が言う。少しだけ姉は驚いてみせたが、すぐに破顔して手招きする。楓は姉に飛びついた。
「甘えんぼさんだね」
「違うもん」
姉と同じ布団に入ると、だいぶ窮屈だった。だがお互いから不満は漏れない。今日は遊び尽くして、体が疲れているはずだった。なのに、眠気が全然やってこない。それはこれから聞きたいことのせいか。
「なに?」
目と鼻の先には、大好きな姉の顔がある。じっと言葉もなく見つめてくる楓に、姉は困ったように眉を寄せる。
「どうしたらお姉ちゃんみたいになれる?」
姉は驚いていなかった。いつか、そんな言葉をぶつけられる覚悟をしていたのかもしれない。
「楓は、私みたいになりたいの?」
「……わかんない」
小さい頃から憧れだった。今もその気持ちは薄れてはいない。
でもそのために、つらく苦しい日々を耐えていける自信はなかった。それに何より、
「お姉ちゃんのことを嫌いになりたくない」
今日改めて思った。どれだけ時間が経ち、心が離れたように感じていても、一日一緒にいるだけでまた好きになる。でも、これまでと同じように姉と比較され続けていたら、溝は間違いなく深くなってくる。修正不可能な傷を負うかもしれない。楓はたまらなく怖かった。
姉の手が伸びてくる。楓は頭を撫でられた。
「楓は、楓の好きなようにするべきだと思う。やりたくないことはやらなくていい。でも心底やりたいことなら、納得するまでやりなさい。それだけでいいの」
「そう、なのかな。それでいいの、かな」
「お姉ちゃんがずっと見ているから」
視界が涙で滲んできた。あたたかい気持ちで満たされる。姉の言葉に、安心感が溢れてきた。力いっぱい姉を抱きしめる。朝になって起きるまで、姉を離さなかった。
以降、二人は時間を見つけては遊んで過ごすようになった。両親の目を盗むのが常だった。姉にそうするように注意されたからだ。森崎家には娯楽になるものがほとんどない。姉は楓のために、同級生から借りたという漫画やゲームを持ち帰ることが増えた。楓は目を輝かせてそれらを貪った。
再び訪れた平穏な日々。最近は習い事のスケジュールも、どこかルーチンのように感じられて負担に思うことは少なくなった。頑張るときは頑張る。遊ぶときは遊ぶ。メリハリをつけたことで、結果的に上手くいったことも多かった気がする。
楓は心の余裕を取り戻しつつあった。
「楓。こちらに来なさい」
父に呼ばれるのは、これで人生二度目だ。当然警戒心が芽生える。楓にとって面白い話ではないのは予想がつく。
けれど、毅然と向かうだけだ。どんな小言が飛んできたとしても、受け流してみせる。実際、姉と比較してくる輩にはそうして対処していた。やがて、諦めたように閉口する彼らを見るのは中々痛快で、楓の神経もだいぶ図太くなった。
どう父に言い返そうかシミュレートしていたが、少し予想の斜め上の言葉が降ってきた。
「奏の邪魔をするのはやめろ」
楓は面食らった。邪魔? 話が見えてこない。何を言っているのだろう。
いや、まさか……。思考を巡らせた楓はある可能性に至った。
「お前たちがこそこそと遊び歩いていることに、気付かないとでも思ったのか。夜中に奏の部屋に入り浸っているのも知っているぞ」
やはり、そのことか。気を付けていたつもりだが、完全に隠しきることは出来なかったようだ。まあ、いつかはバレてしまうと覚悟もしていた。
だから楓は冷静に言い返す。
「お言葉ですが、無理を言ったことは一度もありません。お互いに合意があった上でそういう風に過ごしました」
「姉の口調を真似しているつもりか。もう無理に背伸びはしなくていい。見ていて哀れだ」
カチン、ときた。父はさらに続ける。
「奏のようになりたい、などと夢みるな」
その言葉を聞いた瞬間、楓は自分を抑えられなくなった。
「いつかお姉ちゃんみたいになる! そっちこそ邪魔すんな!」
父が急に立ち上がった。殴られるかと思い、咄嗟に飛び退く。だが、どうやら違ったらしい。父は踵を返すと、書斎の扉を開けた。父しか入ることが出来ない部屋。
「入れ」
父に促され、楓はおそるおそる中に入った。一体何がある部屋なのか。
初めに目に飛びついたのは数多くのトロフィーだ。ショーケースの中にびっしりと詰まっている。次に、額縁に入れている数々の表彰状、それから何かの雑誌……。
誰を称えるものか、すぐにわかる。
「これが、お前の姉の価値だ」
最優秀賞、金賞、優勝――御大層な言葉が連なっている。内容は様々だった。音楽、美術、写真のコンクール、スポーツ大会での連覇記録、作文コンテストなど、本当に色々だ。
どこを見渡しても同じ名前がある。
森崎奏、森崎奏、森崎奏、奏奏奏奏奏奏奏――――――――
「なに、これ……」
楓の声は掠れていた。
「こんなの、知らない。だって、いつ……?」
楓の知る限り、姉が大会やコンクールなどに出場するといった話は一度も聞いたことがない。それにこれだけ多くの功績をどうやって……。
「お前が今より幼い時から、奏はこういった舞台で活躍してきた」
自分の積み上げてきたものが足元から崩れ去る。今まで自分は何をしていたのだ。たったあの程度での修練で、満足して。姉ほどではないにしても、人より器用な自分に酔いしれて。いい気になって。
その裏で、姉はこんなにも高みに進んでいたというのに。
「なんで、お姉ちゃんは、隠してたの……?」
最近の日付の表彰状まである。昔のものなら偶然気付かなった、で片付けていいかもしれない。だが、今ならそんな間抜けはしない。
「お前に知られないように配慮していた」
父が楓の疑問に答える。
「自分の出す結果が楓と比べられてしまうことを、奏は憂いていた。楓につらい思いをさせてしまうのは自分のせいだと責めていた。奏は一度、全ての舞台から降りようとまでしていたのだぞ」
「えっ……」
「もちろん、全力で阻止した。私は、奏の親になれて良かった。子供が称賛を浴び、大きな世界に羽ばたいていくのが――こんなにも嬉しいものだとは知らなかった」
父の声が柔らかかった。厳格で、にこりともしない父の顔がほころんでいる。楓はその笑みを見て――――怖気が走った。
「『これからもそんなお前を見たい』と言って、奏を説得した。奏は了承する条件として、楓には絶対口外しないことを私たちに約束させた」
「………」
「だが」
父の語調が急変し、楓を見据える。何の感情も持たない冷たい瞳。ついさっきまで奏を想っていた人間と同一人物だとは思えない。
同じ『子』でも、こうも違うのか。
「お前の遊び相手をしているせいで、奏が出場しないことも最近では増えた。どうも奏はお前のことになると目が曇ってしまう」
「お姉ちゃんは、それでも上手くやるよ。きっと……」
弱々しい、力のない反抗。本当に自分の声なのかも疑いたくなる。
「そうかもしれない。奏は優秀だ。だが、お前の我儘が、奏の可能性を奪うことになる。私にはそれが耐えがたい」
何を言っているんだろう、こいつは。
胸のあたりが苦しい。喉の奥が震え始める。この感覚、覚えがある。泣きそうになっているときに感じるものだ。
ショック、なのだろうか。今更でも。楓を見限るような言動を取る父に、見捨てないでと言いたいのか。だが涙は出てこない。楓は自分が分からなくなった。
楓が混乱している間に、父が何かしていた。何故か、正座をしている。眉間に皺を寄せ、楓を視線で射抜く。睨まれているのと変わらない迫力だ。
「子供のお前には酷だと思う。だがあえて言わせてもらう。これ以上、奏には関わらないでほしい。奏の邪魔さえしなければ、お前がどこで何をしていようと文句を言わん」
そう言って頭を下げる。完璧な土下座だった。まさか、人生で初めて目にするそれが父の、しかも自分に向けられるものだとは思わなかった。
「私にお姉ちゃんなんていないよ」
楓はトロフィーのひとつを指ではじく。どっしりとした感触が指から全身に伝わってくる。絶対に追いつけない領域の感触。楓は諦観と共に呟いた。
「こんな私が、奏の妹だなんて、恥ずかしい話だよ」
この日より、森崎楓の中から『姉』はいなくなった。




