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「君にとっての一番に」


 意外にも、楓はおとなしくついてきてくれた。

 エレベーター内で楓は終始無言だった。簡単にでも事情を聞いておきたかったのだが、今無理やりに話を聞くのは酷かもしれないと思い至る。落ち着くのを待った方が無難だ。


 ようやく部屋に辿り着いたところで、大樹は切り出した。


「とりあえず風呂に入ってほしいんだけど……。勝手は分かっているよね?」


 今ではもう懐かしい思い出だが、楓は夏休みの一時期、大樹の家に連泊していた。大樹本人は入れ違いに部活の合宿に行っていたが。


 しかし……この状態の楓を一人にしていいものか。


 湯舟に浸かったまま溺れたりしないだろうか。


「紗季! 悪いんだけど、ちょっと――」


 大樹が妹を呼ぼうとしたところで、楓に腕を掴まれる。楓は力なく、それでも確かに首を横に振った。どうやら、紗季を呼んでほしくはないらしい。

 まだ、何かしらの判断を下す理性があるなら、一安心か。


 楓を脱衣所に押し込んで、大樹は濡れた体を引きずって紗季の部屋をノックした。


「おかえり、お兄ちゃん……ぎゃあああ!? なんで濡れたままウロウロしているの!? 馬鹿なの!? 早くお風呂に入りなよ!」


「楓が家に来てるんだ」


「え? 楓さんが?」


「着替えを用意してくれ。楓が今風呂を使っているから」


 紗季と楓は、さほど身長が変わらない。体格も似ている。下着を含めた着替えを紙袋に入れてもらい、大樹は脱衣所前に戻った。扉を少しだけ開け、隙間から紙袋を差し込む。


「紗季に見繕ってもらった。俺は見てないから」


 扉が向こう側から閉まる。遅れて衣擦れの音が聞こえてきたので大樹は少しその場から離れた。一定時間が経った後、楓が姿を見せた。血の巡りを感じさせるような艶のある肌。大樹は胸を撫で下ろす。しかし妹の服を着ているクラスメイトというのは、少し奇妙な状況だな。


「あり、がと」


 不自然に途切れ、かすれた弱々しい声。大樹はゆっくりと返答する。


「気にしなくていいよ」


「あの、ごめん。服、勝手に洗濯機の中に入れちゃって……」


「うん。俺のも洗っちゃいたいや。――あ、別にじろじろ見たりしないから」


「それは、どうでもいいし、気にしてなかったんだけど……」


 いや、そこは気にしろよ。


「紗季、ちゃんには……?」


「来たことだけ伝えた。他は何も説明していない」


「そう」


 遠慮のあるやり取りに、大樹は再び胸が痛くなる。


「だったら、紗季ちゃんには何も言わないで。学校でのこととか、さっきのこととか」


「ああ、わかってる」


 先程までの尋常でない楓の様子を勝手に喋ることなんて出来ない。


「それから、その……」


 楓が言いづらそうにしている。大樹はゆっくりと彼女の言葉を待った。たっぷりと時間をかけて楓は一生懸命言葉を紡いだ。


「図々しいお願いだけど……今晩は泊めてほしい」


「なんだ、そんなこと。別にいいよ。今日が初めてってわけでもないし、紗季も喜ぶんじゃない?」


 それにこの台風の中、精神的に不安定な女子を外に放り出すなんて、鬼の所業である。幸か不幸か、明日は日曜日で学校もない。ご家族にだけ事情を説明すれば問題はないだろう。


「い、いいの?」


「うん」


「……本当にありがとう」


 深々と頭を下げられる。どうにも、堅苦しい空気は苦手だ。


「――よし、行ってくる」


 楓は自分の頬を軽く叩くと、そう呟いてリビングに向かった。


「紗季ちゃーん! 遊びにきちゃったー! お母さんもお久しぶりでーす!」


 元気な楓の声が届く。

 本当に、楓は意地っ張りだ。ここまで追い込まれていても、まだ無理に明るく振舞おうとするのか。


「何やってんだよ、あいつ……」


 心の底から、溜息がこぼれる。



 それから四人で夕食をとった。紗季や母は、何の抵抗もなく楓の存在を受け入れている。そのことが、大樹には新鮮だった。もちろん、夏の段階で二人からの信頼を得ているのは知っていたが、実際に目にすると感慨深い。


 本当の家族のようだ。


 なんて考えてしまうのは、調子が良いか。


 楓がどうして家にやってきたのかは、誰も触れなかった。紗季は時々無神経だから、いらないことを言ってしまわないかヒヤヒヤしていたが、杞憂だった。楓が今晩泊まる話をすると無邪気にはしゃいでいた。母は何を考えているのか分からない。ただ静かに、定位置のソファでティーカップを傾けている。相変わらずだ。


 和やかな時間が流れていき、紗季と母が自室に戻ったタイミングで大樹はおそるおそる切り出した。


「楓。そろそろ家に電話した方がよくないか……?」


 楓の表情が暗く沈んだ。楓は口では「そうだね」なんて言いつつも、ちっとも電話口に向かう様子がない。


 やはり今回の件、根幹にあるのは家庭の事情か。


 ――そりゃ、気が重くなるのは仕方ないよな。でもやるべきことはちゃんとしないといけない。そうだろう、楓?


 このままずるずると時間をかけるのは楓の精神衛生上よろしくない。大樹は連絡網の名簿から森崎家の番号を探し出し、打ち込む。


「ちょ、ちょっと」


 焦る楓に、電話の子機を押し付ける。


「さくっと話して、今日はもう終わりだ」


「………」


 渋々といった感じで受け取って、楓は発信ボタンを押した。繋がるまでの間に、楓は玄関の方へ消えていった。会話を聞かれたくないらしい。


「あ、私。楓。今、友達の家から電話をかけてる。お母さんは別に何も心配しなくていいから。……うん、今日は帰らない」


 遠くからでも、そんな言葉が聞こえてくる。

 何回かそんなやり取りをした後で、楓は「え、少し待って」と言って戻ってきた。子機は保留の状態。


「どうしたの」


「家の人と話をさせろって」


「ええっ? マジかよ」


 常識的に考えれば当たり前のことだが、すっかり失念していた。仮にも自分の娘を一晩預けるのだから挨拶くらいしたいのは自然な流れ。


 しかし……。


「母さんに話をさせていいのか……?」


 懸念事項はそこだ。


 別に事情を説明する力云々のことを気にしているわけではない。ただ、楓の言う『友達』というのが男友達と気付かれるのは、まずい。


 楓の母と、大樹の母は、会った回数こそ少ないが保護者会なりで面識はあるだろう。話をさせて、楓が篠原大樹の家にいると思わせてはならない。


 楓も、大樹と同じことに気付いたのだろう。表情を険しくした。


「だ、だったら大樹が出てよ」


「俺!? なんで!?」


「大樹のお父さんとして振舞えば誤魔化せるかも。あくまで私は紗季ちゃんの家に泊まりに来ているって感じで」


「え、ええ……、でも」


 合理的ではあるけど抵抗感が半端でない。

 同級生の(しかも女の子)の母親と話をするとか、一男子高校生としては避けたいイベントだ。


 今から紗季を呼んだ方がいいんじゃないかなあ、などと言い訳を考えている間にも時間が過ぎる。これ以上待たせるのも失礼か。


 大樹は腹をくくる。


「大変お待たせしました。篠原直樹と申します」


 自分は篠原直樹。篠原大樹の父親だ。そう暗示をかけて乗り切る……!


『……どうも。夜分遅くに申し訳ございません』


 案の定というべきか、いきなり男性の声が聞こえたせいで楓の母の声に警戒心が宿る。早速言い訳を述べる。


「私の娘が、いつも楓さんにはお世話になっています。私はつい先程仕事から帰ったばかりなのですが、妻と娘から事情を聞いています。……いやあ、それにしても外はひどい雨風ですね。こんな荒れた天気の中、しかも夜に娘さんを外に出すのは心苦しくて。もしよろしければ、今日はこのまま家にいた方がいいのではないかと……ええ、愚考した次第でございます」


 とにかく何か話さなければと思って、思い浮かんだセリフをどんどん口にする。うわあ、なんだよ、愚考って。俺こんな言葉初めて使ったぞ!?


『そうでしたか』


 声に、多少ではあるが柔らかさが戻った。


『こちらこそ、娘がいきなり押しかけてしまい申し訳ございません。もしご迷惑でなければ、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか』


「ええ、もちろん」


 もっと根掘り葉掘り聞いてくるものだと思っていた。かなりあっさりしている。おおよその成り行きは楓が説明したからだろうか。なんにせよ、すぐに済みそうな気配を感じてほっとする。


『それと図々しいお願いだとは思いますが、よろしいでしょうか』


「はい、どうぞ」


『楓には寝る前に勉強させてください』


「……はい?」


 反応が遅れた。言っていることは把握できたが、理解が追い付かない。


「すみません。それはどういう意味でしょう……?」


『そのままの意味ですよ。お恥ずかしながら、今回の件は楓の成績が伸び悩んだことが原因でして……。あの子は本当に不出来な子です。奏を見習ってほしい……あ、失礼。奏とは長女のことで』


「え、ああ。はい」


『とはいえ、楓には人様に聞かれても恥ずかしくない大学に進んでほしいと考えておりまして。高校受験は失敗に終わりましたから』


「藍咲学園に入ったことが、失敗……ですか?」


 大樹は喉の裏側が渇きで張り付くような居心地の悪さを覚えた。


『はい。……何か?』


 何でもないことのように、楓の母は言う。


 複雑な気分だった。藍咲学園は都内でトップクラスの学力を誇る高校だ。大樹は高校受験の際に死に物狂いで勉強して、ようやく合格をもぎ取った。入るために苦労して、それがちゃんと報われたことを嬉しく思っている。人様に聞かれて恥ずかしいなんて微塵も考えない。


『失礼ですが娘さんは楓と同い年で?』


 ここで言う娘とは、この場合紗季のことだ。


「いえ、楓さんのひとつ年下で、中学三年生です」


『……少し意外ですね。あの子が同学年以外の友人がいるなんて。……それはそうと娘さんは今年受験ですね。学校選びはしっかりとなさった方が良いですよ。どんな塾に通わせていますか?』


「……有難いお話ですが、そういったことは、またの機会に」


『そうですわね』


 お互いに別れの挨拶を口にして、大樹は通話ボタンを切った。


 しばらく、大樹はその場から動けずにいた。楓の母の言動が頭から離れない。自分の娘を心配する気持ちよりも、まるで世間体を気にするような態度が受け付けなかった。


「あれ、楓どこいったの」


 さっきまでそこにいたはずだが、いつの間にかいなくなっている。

 だが、すぐに見つかることになった。


「あの、そこ俺のベッドなんですけど」


 大樹のベッドを占領し、既に寝る気まんまんの楓に苦言を呈する。若干伸び気味の前髪が、楓の両目を隠している。

 部屋の電気は点いてなかったが、明るくすることは躊躇われた。今の楓の気持ちを表わしているみたいだったから。


「話してみて、どうよ?」


「………」


 大樹は何も言えなかった。


「あれがうちの母親なんだよ。びっくりしたでしょ。小さい頃、よく言われたよ。『楓ちゃんのお母さんって、なんか、すごいよね』って」


 それが遠回しの皮肉であると、もちろん楓は気付いている。


「勉強とか、成績のこと?」


「ああ、そこまで言われた? ……今日帰ったらテスト見せろって言われて、そんでつまらない言い合いになったの。くだらないでしょ?」


「別に」


 そんなことで家を出たのかよ、などとはちっとも思わない。

 それだけが要因ではないはずだからだ。今回の一件の引き金になったのは確かに中間試験かもしれないが、それまでに蓄積された不安やストレスが本題だ。


「私はお前が羨ましい。あんなに優しい母親がいて、あんなに可愛い妹がいて、こんなにあったかい家庭がある。困ったときに助けてくれる人もいる。私には……誰もいないのに」


 恨みがましい想いが込められた言葉に、大樹の身が切り裂かれる。

 

 ――俺のせいだよな。


 楓に負担をかけ過ぎた。


「楓、何かあったんならさ――」


 話してくれよ、そう言いかけて大樹は口を噤んだ。

 今の楓に声を届かせるには、こんなありふれた言葉では駄目だ。もっと、意識をこちらに向けさせるような強い言葉を。


 ……どうして、こんなに楓が気になってしまうのだろう。


 ふとそんなことを思う。大事な友人なのは間違いない。困っているなら助けたいと思うのも当然だ。でも、今まで誰かのためにこんなに頭を悩ませたことがあっただろうか。


 大樹は手を伸ばし楓の髪に触れる。滑らせるようにして、髪をすいた。意識しないようにしていたけれど、端正な顔立ちだ。楓が何も言わずにされるがままになっているのをいいことに、大樹は頭を撫でた。優しく、子供をあやすかのように。


 胸が激しく高鳴る。落ち着かない気分になって息が詰まる。


「ああ、そうか。なるほど……」


「……なに」


 いい加減耐えきれなくなったらしい。目を凝らすと楓の不満げな顔が見える。


 大樹は愛おしさを感じながら、その言葉を紡いだ。







「俺さ、楓のこと好きだよ」







「……っ」


 わずかに楓が息をのんだ。信じられない、と目が語っている。


「なんで……?」


「出会ったときから、好きだったわけではないけど。最近はずっと目が離せなくて。どうしてそうなっちゃうのかは、すぐにわかったよ」


 澄ましたようで、意外と他人想いなところが好き。

 紗季や母さんと仲良くしてくれるのが好き。

 楽しそうに笑ってくれるのが好き。


 俺のことを変えてくれた、君が好き。


 指折りしながら、大樹は自分が楓を好きな理由を語る。エピソードを交えながら。なんだか後付けみたいな言い方になってしまったのは、少々格好がつかない。


 楓は黙って大樹の言葉に耳を傾けていたが、大樹の手を払い寝返りを打ってしまう。薄暗いせいではっきりしないが、耳たぶが赤いような気がした。


「や、やっぱり、意味わかんないんだけど。なんで急にそんなこと言うの……?」


「楓が誰かに頼りたいって考えたときに、真っ先に思い浮かぶのは、俺でいたいから」


「―――」


「君にとっての一番になりたい。俺は今、君に恋をしている」


 暗闇に包まれているからなのか。相手の顔が見えないからなのか。

 大樹はこんな大胆な発言をしている自分に、少なからず驚いていた。焦ったり急いだりせず、素直な気持ちを口に出来ている。


 今までにも、誰かを好きになったことはある。付き合っていた女の子もいた。

 けど、あれは、周りの空気に流されて、なんとなく関係を始めてしまっただけ。

 気持ちが固まっていなかったから、長続きしなかったのだろう。あのときは、自身の身の振り方に本気で嫌気がさした。


 でも、今は違う。


 大樹は今日の日のことを、決して後悔しないだろう。たとえどんな結果になっても。


「バカだな、大樹は」


 長い時間を待って、返ってきたのはそんな言葉だった。


「なんでさ」


「あんなに綺麗で美人な先輩がいるのに、そっちになびかないの?」


 月夜のことだ。


「まあ、確かに。綺麗で美人で可愛いなと思う」


「ほら。可愛い、だって」


「でも俺は楓がいい」


「はいはい」


 相手にしていないかのような言い草。しかし、大樹の目が節穴でないのなら、満更でもなさそうに見えた。

 楓が口元をにやつかせながら見上げてくる。不覚にも、そんな楓を可愛いと思ってしまう。


「大樹が、恋をしているだって。しかも私に。笑える」


 そして本当に笑いだす。おかしそうに腹を抱えて。そこで、はたと気付いて口を押えた。きっと紗季たちに配慮したのだと思う。


 不意に訪れた静寂に、大樹と楓は言葉を失った。沈黙を埋める言葉も見つからず、なんとなしにお互いの瞳を見つめる。

 どれくらい時間が経ったかは分からない。楓は申し訳なそうに眉を寄せた。


「その、大樹……」


「なに」


「ごめん。私……」


「うん、大丈夫。わかったから」


 皆まで言われたくない。短い言葉でも、十分に意図は伝わる。

 ただ、思いの外ショックを受けている自分がいる。大樹はいたたまれなくなって、楓に背を向けた。そのまま部屋を後にしようとする。


「あ、待って!」


 裏返った声に慌てて振り返ると、楓が咳払いするところだった。恥ずかしそうに頬を染めているのは、自分でも焦ったからか。


「や、やっぱなんでもない」


「いや、それは嘘だろ……」


 必死な感じで呼び止められたはずなのだが。

 楓がこちらの様子を窺うように、ちらちらと視線を向けてくる。辛抱強く楓のアクションを待っていると、やがて手招きされた。


「こ、こっちに来なさい」


「えっ」


 動揺する。なんでフった相手と一緒にいようとするんだ? もちろん俺は嬉しいが……。

 複雑な心境のまま、大樹は楓の前に近づく。続いて、ベッドを指されたので謹んで腰掛ける。楓と並ぶ格好になった。楓は俯いたまま身じろぎひとつしない。


 ……早くなんとか言ってくれ。

 こんな夜中に、憎からず想っている人と同じ部屋にいるというだけで、心臓が激しく鼓動する。妙な気分になってしまうのも時間の問題だった。


「――私の身の上話をします」


「っ!」


 冗談っぽく、楓は低い声で宣言した。


「聞きたかったのは、その話でしょ?」


「まあね。でも……いいの?」


 今まで頑なに語ってこなかったくせに。


「この流れだったら、いいかなって。だって大樹、私のこと大好きだもんねぇ?」


「い、いや。大好きとまで言ってないけど……」


「あ、違うんだ」


 楓がさっと表情を曇らせる。露骨でわざとらしくも思えるが、真偽が区別できないのでリアクションに困るところだ。


「……それで、まあ合ってるけどさ」


「そう。ありがとう。だから、そんな君に私の話をしてあげる。心して聞くように」


「はいはい」


「あ、ちなみに気に入らない反応をしたらその場でやめるから」


「お、おう……」


 本当に心して聞かなければならなくなった。思わず大樹は正座する。

 そこからの話は一瞬のことだったと思う。けれど、それは体感的な問題であって、気が付いたときには嵐は収まって、空は微かな輝きを宿していた。


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