「見失うなよ」
試験一週間前となり、藍咲学園の部活動は全て休止となった。これからテストまでの時間は勉強に専念せよ、という学校側からの計らいである。
そんな学校からの気遣いを無視して、大樹は大神と自主練習に講じていた。
夏前に大神から誘いを受けて以来、テスト直前であっても練習時間を取るのが暗黙の了解となった。特に示し合わせることもなく、自然なことのように学園近くの体育館にやってきた。
シングルスの真剣勝負。大神とは何度もこなしてきた。お互いの実力は拮抗していたはずだが――
「くっ!?」
大神の緩急のついたドロップに、大樹は遅れて羽を追いかけるために駆け出した。なんとかロブを打ち上げることは出来たが、落下地点に先回りしていた大神によるスマッシュが情け容赦なく叩き込まれる。
21-14
大神の勝利となった。ここまで点差が開くと、実力としても突き放されているのを認めざるを得ない。前は、ここまでの差はなかったはずなのだが……。
大樹がこの結果にショックを覚えていると、大神は不満そうな顔を向けてきた。
「篠原……お前。全然集中してなかっただろ」
「え。そんなことあるはずないよ。大神との勝負は気を抜いたらその瞬間に終わりだもん。……まあ、この点差じゃ言い訳みたいに聞こえるだろうけど」
「お前、俺じゃない誰かと試合をしているつもりだっただろ」
「―――」
大神の指摘に、大樹は何も言い返せなかった。あまりにも的確過ぎて、言葉が出てこなかったのだ。
そう。試合中、大樹は相手のコートにいる人物を――
「朝日先輩を想定してプレイしていた。そうだな?」
「悪い。その通りです……」
ぐうの音も出ないほどに見抜かれている。
「これじゃあ、双葉を連れてきた方がずっとマシだ。なんで、あの人のことを考えているんだ」
大神の力強い瞳に射抜かれて、大樹は簡単に月夜との賭けについて説明した。いや、何も具体的なものは賭けれらていないから、かなり曖昧な話になってしまったが。
「ふーん」
興味なさそうな大神の声。
「大神は、センパイについてどう思う?」
「それ、答える必要あるか?」
「割と大事でしょ。もしかしたらまた同じ部活仲間として一緒にやっていくんだから」
「……俺がここに進学したいと思った理由を見出させた人だ」
簡潔に、大神はそれだけ言った。
多かれ少なかれ、月夜に憧れた人間はいる。大神も例外ではなかったことが分かって、大樹は少しだけ嬉しい気持ちになった。
大神はそそくさと片付けを始めている。
「もう帰る?」
「ああ、今のお前は相手にならない」
「今は試行錯誤の途中なんだよ。プレイに乱れが出たのは認める。でもセンパイに勝つためには――」
「篠原」
大神が大樹の言葉を遮った。
「な、なんだよ」
「お前は、見失うなよ」
「………」
大神は去っていった。大樹は、大神が残した言葉の意味を考えた。
見失う、とはどういう意味だろうか。プレイスタイルを一貫せよということなのか。それとも全く別のことを示しているのか……。
その答えは、今は分からない。
◇
流石に試験の数日前は勉強時間に充てた。ここで赤点を取って、部活動の時間帯で補習になってもつまらない。
しかし勉強の仕方が本当に分からない。高校に入ってからというもの、どうすれば得点に繋がるかを導く思考回路が壊滅したように感じる。今回は中間試験だが、やはり期末試験と大差ない膨大な範囲が課されている。ひとつひとつ単元ごとに見ていては絶対に間に合わないし、ならば重要なところだけ押さえようかとも思うがそもそもそれが分からない。
今から思えば、ちゃんと指導してくれる人間が近くにいたおかげで成績上位をキープ出来ていただけなのだと実感する。高校では付きっ切りであれこれ教えてくれる人はいない。
「というわけですみません。助けてください」
「この流れ飽きたわ」
速攻で大樹は他力本願。相談室を訪ねていつかのように神谷を頼った。が、神谷は紅葉の相手をするのに忙しそうだ。三年生にとって、この時期の成績は推薦もかかってくる正念場らしい。紅葉の集中力は神懸っている。ちょっとした雑音でさえも今の彼女には我慢できないようで、物音を立てると睨まれた。……あとでお菓子でも渡せば機嫌を良くしてくれるだろうか。
相談室をあとにしようとした大樹を見かねて、かなたが大樹の勉強を見てくれることになった。
流石、日本一の大学を出ているだけある。普段はそんな知的さを感じさせないのに。
カリカリとペンを走らせる音と、神谷とかなたがそれぞれの生徒に解説をするときのセリフだけが部屋に反響する。紅葉の姿にあてられて、大樹も一心不乱に机に向かった。
下校時間になるまで勉強会は続いた。先に神谷と紅葉が帰り、大樹も机に広げていた参考書を鞄にしまう。帰ってからも、今しがた教わったことを復習した方が良さそうだ。
「篠原くん」
「はい?」
「楓ちゃんの様子はどうですか?」
ずっとそれを聞きたかったのだろう。勉強会の間、ちらちらと意味ありげな視線をかなたから感じていた。だからかなたから話を切り出さなければ、大樹から言うつもりでいた。
「あんまり良くはないかもしれないですね」
部活が休みになった分、文化祭実行委員として楓と時間を共にすることが増えた。しかしこの一週間で、大樹はまともに楓と会話すら出来ていない。クラスの出し物をどうしようかとか、テストの意気込みだとか、話題に挙がりそうなことは(珍しく)山のように思いつくというのに。この前だって、
「ん」
と、いきなり書類を渡されて戸惑い、『天野先輩へ』という付箋を見てようやく腑に落ちた。そんなことがしばしば起こっている。長年寄り添った熟年夫婦じゃあるまいし、楓のことを以心伝心で察してやることは難しい。
お互いにそれぞれの仕事をこなして、帰る時間は一緒になるはずなのに何故かタイミングをずらされる。明らかに避けられているのが分かる。
「なんか、前に付き合っていた彼女と別れる寸前の空気とめっちゃ似てます。このそわそわ感。トラウマなんで助けてほしいです」
「あ、あはは……。それにしても楓ちゃん、今回はここに寄ってくれないんだね。いつもテスト前は私や神谷くんに教わりにきてたのに」
渾身の自虐ギャグをスルーされた。ちょっと構ってほしかった。
「最近はクラスの方だと、遅刻より居眠りが目立ちますね」
求められた近況報告を続ける。かなたが不安げに眉を寄せた。
「やっぱり疲れが残っているのかな」
「そうですね。けど……あれは肉体的な疲れとかじゃなくて、精神的なストレスが原因で弱っているんじゃないかなー、と。俺は睨んでいるんですけど」
言いながら、大樹はかなたの反応を窺う。かなたはその視線を軽く微笑んで受け流した。自分は何も話さない。そのスタンスを貫くつもりらしい。
「私から事情を聞いても、それは楓ちゃんが心を許したことにはならないでしょう?」
「まあ、そうですけど」
ということは、楓を取り巻く問題は大樹が知らなくても良い類のものなのだろうか? もしくは、知ったところでどうしようもないのか。いずれにせよ、楓の限界は近いはず。今の楓とどう接していくべきだろうか。
◇
隣の席という立場を最大限使って、話しかけたり気遣ったりちょっかいをかけたりをしたが、大層うざがられた。言葉にしてはっきりと「うざい」と言われた。ちょっとだけ泣きそうになったのは内緒だ。
そんな風にして日々を過ごしていたら、いつの間にかテストが終わっていた。
十月六日の金曜日で全ての日程を終え、明日の土曜日には採点を終えたものが返却される。学生も大変だが、教師陣も激務に追われることだろう。
テスト期間を終えて久しぶりの部活。少しずつ時間を見つけては体を動かしていたおかげで、調子は思ったより悪くない。軽快なステップでシャトルを追うことが出来る。
ラケットを握り、部員を見渡していると嫌でも月夜のことが脳裏によぎる。
ここにいるはずのもう一人の部員。彼女を再びここに連れ戻す。そのためにはもっと強くならなくてはならない。問題ない。覚悟は決まっている。
だが、高い集中力を発揮出来ていたのは序盤までだった。時間が経過すればするほど、大樹の動きは精彩さを欠き、乱れが隠し切れなくなった。久しぶりの試合で本調子が出ないせいだろうか。
思わぬ事態に大樹は焦り始めた。すぐに気を引き締め直さなければ。
しかし修正がきかないまま、気が付けば帰りのミーティングになっていた。
「知っているとは思うが、明日は台風が来るかもしれない」
碧斗が事務的に告げる。数日前に発生した台風〇〇号は、その勢力を衰えさせることなく本州に上陸し、各地で様々な被害が出ている。屋根が吹っ飛び、トラックが横転するなど、肝が冷える映像ばかりが報道されている。
ただ、例年良くあることなので危機感としては乏しい。
「予報では、東京に上陸するのは明日の夕方頃となっている。だから学校側も、今の段階では休校の判断は出していない。テスト返却もあるからな。一応、明日は部活が出来る用意をして学校に来てほしい」
「なんで休校じゃねえんだ……」
芝崎が恨みがましく呟いた。多分、全校生徒で同じことを考えていると思う。台風が近づいて休校を期待されても、本当に休校になることなど滅多にない。大抵進路が逸れるか勢いが弱まるからだ。
「そう言うな。今月末には大会があるんだ。練習時間が増えることは良いことだ」
「その前にいい加減顧問をどうにかしなきゃマズくね? 最悪の場合どうすんの?」
「その時は引率なしで会場に向かって試合やって何事もないみたいに誤魔化すしかない」
それ、バレたら後でめっちゃ怒られるやつじゃん……。
部員たちのジト目に気付いたのか、碧斗は気まずそうに咳払いした。
◇
翌日十月六日の朝、空には雲一つ浮かぶことなく太陽が顔を出していた。当然、学校からは通常登校の知らせが届いた。ね? だから言ったでしょ? 休校なんてないって。
仮に休校になったとしても、今日はテスト解説だ。どうせなら平日のど真ん中にやってきてほしかった。大樹は意味のないことを考えつつ、手早く朝食を済ませて家を出た。
電車に乗り込み、大樹は珍しく空いている場所を見つけて腰を下ろした。普段はずっと立ったまま登校しているので、ささやかに嬉しい。
一定のリズムで揺られていると、次第に眠気が襲ってくる。起きたばかりなのに、まだ眠いというのか。気にしなければならないことが山のようにあるはずなのに。
文化祭のこと、部活のこと、月夜のこと、そして――楓のこと。
明日、明後日、来週、一か月後……これらの問題はどのように収束しているだろうか。時間が経てば否応なく終わるものも、そうでないものもある。
未来のことが、全く想像できない。大樹は将来、望んだ結末を得ているだろうか。
教室について、席につく。楓はまだ来ていなかった。クラスは騒がしかった。テストの結果を気にしている声がほとんどだ。「今回全然出来なかったよー」とか「私も勉強しなかったー」だなんて予防線を張ってみせている連中は大抵成績上位の連中だ。
しかしそんな話ばかり耳にしていると、大樹もいい加減自分の心配をするようになった。自己採点はしていないが、感触としてはそう悪くない。せめて平均に届いていてほしい。
今回も一位は楓だろうか。楓はあれで結構勉強熱心なのだ。普段とのギャップが強烈過ぎて最初はちっとも信じられなかったが。
担任が入ってきた。大樹は焦燥感を覚える。まだ楓は来ていない。
だが、担任が来てからほどなくして楓が姿を現した。
「森崎、遅刻だぞ」
「はーい」
気の抜けた返事に、誰かが控え目に笑った。担任は出席を取り出した。
「よっ」
「ん……」
声をかけると、これまた適当で返事とも言えない反応。楓はそのまま机に突っ伏した。
いや、寝るなし。
それから数十分間隔で各教科の教員がやってきてテストを返却していく。そして正答率の低い問題を中心に解説していく。午前中しか時間を取れないせいで、教員の説明は早口だ。そしてテストの解答を用意して提出する課題も出る。提出期限は次に学校に来るまで。一学期にも同じ課題をこなしたが、教科書を手元に用意しても解答が分からないところはどうしたらいいんすか……。
大樹のテスト結果は、客観的には微妙だった。平均点を越えていたり越えていなかったり。しかし、前回に比べるとかなり改善されたことになる。赤点の補習はなさそうで一安心だ。
「楓、見てくれ。平均点めっちゃ取れた」
「自慢することじゃなくない?」
楓は呆れたように応えた。
「いやいや。これ以上ない飛躍っぷりだよ」
「反動つけた分、今度はどれくらい落ちるんだろう」
「もう落ちないよ!?」
大樹はここで会話を終わらせた。本来の流れであれば、ここで楓の結果も聞いて話を弾ませたいところだったが、そうはしなかった。
――何故なら、答案が返ってくる度、楓は表情を険しくしていたからだ。
昼のホームルームを終えれば、解散となる。この話題には触れずに帰りたかったが、嫌な予感――というか確信があった。
「さて、今回の一位は……お! 委員長! おめでとう!」
「え!? あたし!?」
委員長(本物)が歓喜の声を上げる。
「いや、あだ名の方」
「だからその子のこと委員長って呼ぶのやめてよ!」
委員長(あだ名)は少し恥ずかしそうに髪をいじっていた。彼女もその見た目通り頭脳明晰だ。一位を狙えるくらいの実力は有していた。今回、努力が実ったことが嬉しいのだろう。大樹は軽く拍手を送った。
隣を見ることが出来なかった。何も声にすることが出来なかった。
無関心を装うことが、無難な反応のはずだと信じた。
だから――――さらに続く言葉に苛立ちを隠せなかった。
「おいおい。森崎はどうしたんだー? 今回は前よりずっと悪いじゃないか」
担任の言葉が、大樹の耳に反響して残る。
こいつ、何言ってるんだ。何で、今、このタイミングでそんな馬鹿みたいなことを言うんだ?
楓は頬杖をした姿勢で硬直している。自分に話が振られることを全く予期していなかったに違いない。不自然な間が生まれた。担任が不可解そうに眉をひそめた。楓はようやく状況を理解する。
「あー。今回はちょっとやる気なかったですわ」
「おいおい頼むぞ。お前は成績だけが取り柄だろう」
楓が、道化を演じて笑いを作る。担任が楓をいじる。
別に、一度や二度のことじゃない。これまでに似たことがあって、このクラスにおいては『お約束』のようになったやり取り。
――だが、気付いていないのか。
楓の声がかすかに震えていたことを。
机の下で隠れて拳を固くしていることを。
悔しさから、顔を上げられなくなっていることを。
「全く、余計なことを……」
大樹は苦々しく呟いた。
◇
「楓」
気が付けば大樹は彼女の名を呼んでいた。
ホームルームを終えて、各々が帰宅したり部活に向かったりしている。そそくさと帰り支度を整えていた楓は、胡乱な目で大樹を捉える。
「なに」
大樹は軽くパニックになった。何故自分は楓を呼び止めたのだ。
「いや……」
大樹は顔を俯かせた。今はまともに楓を見る自信がない。
「その、また来週」
「うん」
短い言葉を交わして、楓は去っていく。
大樹はその後ろ姿が見えなくなるまでずっと見つめていた。
◇
「ひどい雨だな……」
学校を出たときはまだ小雨だったのだが、電車に揺られているうちにその激しさは苛烈になり、今ではバケツをひっくり返したみたいに悲惨な状況だ。
昼過ぎで帰っておけば良かった。あの時は判断が付かなかったから仕方ないのだが。
午後になりモヤモヤとした気分を抱えつつも部活に参加して数時間が経過した頃、外の雲行きが急に怪しくなった。意に介さず活動を続けていたが、雨が降り始めたところで学校中にアナウンスが響いた。
『台風〇〇号が進路を変更し、大雨警報が発令されました。生徒の皆さんは速やかに帰宅するようにお願いします』
助かった、と大樹は素直に思った。今日もこんな体たらくでは大神に怒鳴られてしまう。
まだ夕方くらいだが、部活はその場で解散となった。部員のほとんどは学校からの徒歩圏内に家があるから、今頃は既に帰宅しているだろう。
雨風も凄まじいが、大樹が今特に恐れているのは雷だった。別に特別苦手意識はなかったはずだが、頭上で爆弾が爆発するみたいな炸裂音がとどろき、調子の悪い蛍光灯のように空が青白く点滅していれば、本能的な恐怖が込み上げてくる。
とりあえず最寄り駅には着いたが、この雨に打たれる覚悟が未だに決まらない。傘は一応折りたたみの物を所持しているが使う気は一切ない。見たところ、傘を律儀に差している人はいない。突風によって折られてしまうからだ。
大樹はいい加減決心して、駅を飛び出していった。濡れたって後で洗濯なりクリーニングなりすれば良いだけの話だ。全速力で自宅を目指す。
容赦ない雨粒が大樹の制服を濡らし、体にまとわりついて体温を奪う。その冷たさに震えながらもひたすらに突き進む。白く霞む視界の中、ようやくマンションが見えてきた。既にパンツまでぐっしょりと濡れてしまっている。帰ったら即風呂に入りたい。
「ん?」
大樹は思わず足を止めた。一刻も早く家に入りたい状況で。
マンションの入り口前に人影が見える。ぽつんと所在なさげな佇まいに、目を離せない。傘も差さず何をしているのだろう。
なんだか不気味なものを見てしまった気分だ。大樹は早足でその人の前を通り過ぎ――すぐに振り返ることになった。
「楓? 楓だよな……? え、何してんの」
人影の正体は、今日午前中で別れたばかりの楓だった。制服姿なのに、通学鞄は持っていない。帰宅途中ではないのか?
大樹の呼びかけに楓が反応する。ぎこちない動きでこちらに顔を向けられ――大樹は絶句することになった。
長い時間雨に晒されていたのだろう。顔面からは血の気が失せ、蒼白になっている。しかし対照的に、目だけは充血していて真っ赤だ。
楓が泣いている。
弱さを、脆さを見せまいと我慢していた彼女が涙を流している。
大樹は胸が押しつぶされそうだった。襲ってくるのは激しい悔恨。
こんな顔をさせないために、楓のそばにいることを選んだはずだったのに。
「とにかく入って」
大樹は強引に楓の手を引いた。その手から体温は全く感じられなかった。
やっと書きたいところまで書けた。




