「俺を変えてくれた人だから」
楓の様子が怪しかった。
九月最後の週の月曜日を迎えた日のことだ。今日は部活の朝練のために早く学校に到着し、ホームルーム直前になってようやく教室に戻った。すると隣人が何か言いたげにこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「そう?」
というやり取りをしたのだが、大樹は授業中もずっと楓の視線を感じていた。休憩時間ごとに話しかけるのだが、むしろ逃げられる。なんなんだ、こいつ。
むずかゆいので、文明の利器でコミュニケーションを図ることにした。ちなみに昼前最後の授業中のことである。
――何か用?
楓のスマホが震え、彼女がメッセージを確認する。楓がまた視線を飛ばしてきた。大樹は見つめ返した。その状態が数秒続いたところで大樹は顔を背けた。
大樹の机の中から振動が伝わってきた。
――ご飯食べよう。
なんだ食事の誘いだったのか。……なんて文字通りの意味で受け取ることは無理だった。それだけが目的じゃないはず。
とはいえ、楓から何か話があるとしたら、心当たりは先日のことしか思い浮かばない。
――中庭でどうだろう?
連続して送られてきた。大樹が了承の旨を返信するとそれきり楓は何も言わなかった。
昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、楓は立ち上がり真っ先に教室をあとにした。何も食べ物を持っていないような気がするんだが……。
大樹も手ぶらでその後を追った。朝から運動した後だが、あまり空腹は感じていなかった。
ベンチに腰掛けた楓を見つけ、その横にしれっと座る。どうでもいいが、こういう場面を誰かに見られても楓は気にしないのだろうか。
「……で、どうした」
なかなか喋ろうとしない楓の代わりに聞く。が、沈黙しか返ってこない。
大樹は言葉に迷った。が、この胸に疼いている気持ちの悪い感情は、問いを投げかけなければ解消されないだろう。
「楓のお姉さんって、何者なんだ?」
森崎奏のことなど、大樹は何も知らない。存在すらも聞いたことはなかった。
だが相対したときの強烈なインパクト、それに反比例するみたいに縮こまる楓を見て姉妹関係を勘繰りたくなる。それが無粋な興味と分かっていても。
「あと、ご両親が来なかったのも、正直気になります」
すぐに返事はなかった。楓は地面の一点を見つめて俯き、そっと息を吐いた。大樹にはそれが、泣くのをこらえているように思えた。
「ただの女子大生。両親は、ちゃんといるけど仕事だった」
「共働きか。……お姉さんは一緒に住んでるの?」
「いや、一人暮らし」
「わざわざ帰ってきてくれたんだ? 三者面談のために」
「元々、夏休み期間中だから実家に戻ってたんだよ」
「何言ってんだ? もう九月も終わりだぞ」
「大学生の夏休みは九月の終わり頃まであるよ」
「マジで!?」
高校生とは一か月くらい違うではないか。不純かもしれないが、大学進学の意欲が湧いてきた。
「……大樹のお母さんさ、何か言ってた? ……姉ちゃんのこと」
聞きづらそうにしている楓に、大樹は気負わず答えた。
「別に、一言も。お姉さんに関しては」
「……大樹は、何か思った?」
探るような物言いに、大樹は少し迷った。だが結局素直に伝えることにした。
「仲が悪いんだろうなと思った」
「……別に姉ちゃんとは仲悪くないよ。少しすれ違っているかもしれないけど」
「………」
大樹には、家族と気まずくなるという経験がなかった。母と妹は、良くも悪くも自分だけの世界を生きている人間だ。だから、あまり干渉してくることがなく、衝突も起きない。
近すぎず遠すぎず、良好な家族関係だと思っている。
もちろん世の中にはそうでない家庭が多いことを知っているが、実感のある言葉は初めて聞いた。しかも同級生の……。
「仲良くできるといいな」
月並みなことしか言えないのが情けない。
「私、どうしたらいいんだろう……」
ぎょっとした。楓は対照的にきょとんとしている。「なにその顔?」とでも言いたげだった。だが、ようやく自分のセリフを思い出したのか、楓が青褪めた。
「待って。今の、忘れて」
「いや、でも」
「たいしたことない。ごめん、戻る」
楓は校舎内に逃げていく。すぐに立ち上がることが出来れば、追いつくことは出来たと思う。でも、そうしなかった。
何も話したくなさそうだったから、大樹は躊躇った。
「……いや、それだけが理由じゃないか」
自分自身が、楓をどうしたいのか、まるでわかってない。
そんな覚悟しか持たない者は、彼女の負担にしかならないはずだ……。
だから、
ちゃんと決めよう。
◇
数分後、大樹は相談室を訪れていた。今日は、管理人である結城かなたの姿しかない。とても好都合だった。かなたは、優しく迎え入れてくれる。
丸テーブルでかなたと向かい合ったところで、
「それで?」
と先手を取られる。
「え?」
「だって、篠原くんが来るときって、何か用事があるときだから」
お見通し過ぎて笑えない。
「そういえば、新しい部員のことは、耳にしましたよ。ふふっ、なかなか可愛い女の子だとか」
「いえ、男です」
「えっ? ……もう、真顔でそんなこと言わないでくださいよ」
冗談だと受け止められてしまったので、真顔続行。しかし逆効果だったみたいで、かなたは腹を押さえて震え出した。もういい。双葉のことは後々説明すればいいのだから。
大樹は出し抜けに告げた。
「楓の悩み、教えてください」
かなたの目が大きく見開かれた。だがそれも一瞬のことで、すぐさま目尻が上がって引き締まった顔に切り替わる。
「何のことかな」
それでとぼけたつもりなのか。だとしたら、不器用だ。
「俺、思い出したんですよ。初めてかなたさんに会った日、あなたがうっかり口を滑らせていたことを」
珍しく、かなたが苦々しく唇を噛む。自分のミスを悔いているのは丸わかりだった。もうこれで白を切ることは出来ないはず。
「だったら、私の答えも変わりません――ダメです。楓ちゃんに許可をもらっているなら別ですけど」
「それは、ないですけど」
「自分の悩みを勝手に他の人に言い触らされたら、どんな気持ちになるでしょう」
あのときと同じ論法で叱りつけられる。
「だって、結城さん以外誰も知らないと思うから」
「どうしてそう思うの?」
強い確信があった。『どうしたらいいんだろう』と口にした時の楓の表情が忘れられない。動揺、後悔、不安――様々に感情を読み取ることが出来た。でも、ひと際目に焼き付いたのは、
「恥を感じて、誰にも何も言えないのかな、って」
「―――」
「楓は言っていたんです。困っているときに手を差し伸べてもらうことを、当たり前だと思ってはいけない。他人に縋る人間は情けないって。あのときは、なんて冷めた考え方だろうと思いましたけど……裏を返せば、楓の本心はそこにはないのかも」
大樹が言い終えたとき、かなたはとても穏やかに笑っていた。嬉しそうに目を細めている。
「篠原くんは……楓ちゃんのことをよく見ていますね」
「待って、その言い方は納得いかないんですけど。いや、ほんと違うんです。最近碧斗さんもそんな感じだったので……」
「神谷くんの弟さんも?」
ここでバド部の部長として認識していないあたり、かなたらしい。
「それでも楓ちゃんにとって、とても幸せなことのはずだよ」
背中がかゆくなってくる。別に楓のことを想っているだなんてことはない。いや、もちろん心配はしているが――大樹は頭の中で言い訳を並べるが、それらは声にはならなかった。
「この学校の人たちは……頑張り屋さんが多いですね」
寂しそうに、かなたは呟いた。
「私から何か話すことはありません。それは変わりませんが……少しだけアドバイスをさせてください」
かなたが、ふっと目を閉じる。考えを巡らせているのが伝わってくる。大樹も思わず姿勢を正す。かなたの言葉を、ひとつひとつ逃さないように。
「楓ちゃんは、強くて弱いです」
「強くて弱い……?」
「楓ちゃんは賢い子です。たいていのことは一人でこなせますし、自分がやることに明確な理由を持っています。自分で考え行動する。それが出来る高校生はそう多くはないでしょう。ただ……誰にも、自分自身の話はしない。そういう人はすぐに限界を迎えます」
「はい」
大樹は大きく頷いた。
「多くの人は、自分の人生の経験から生き方を変えていきます。失敗しないように上手くやる、もしくは二の舞にならないように避ける。でも、楓ちゃんはきっと……また挑むでしょうね。たとえどんなに脆くても」
「どうして、ですか?」
「意地なんだと思います」
拍子抜けする答えに、大樹は首を傾げる。
「楓らしくないような……」
「そうですね。でもそこだけは、楓ちゃんにとって譲れない部分なんです。それが楓ちゃんを通して私が感じた印象ですね」
大樹は腕を組んで、唸る。
「私から、篠原くんに質問してもいいでしょうか」
「なんでしょう?」
「篠原くんは、楓ちゃんのことが好きですか?」
ニヤニヤと口元を綻ばせて問いかけるかなた。大樹は思いっきり首を横に振る。
「いや、そういう気持ちは全然……!」
「どうして、楓ちゃんのためにそこまで一生懸命になってしまうんですか? 大丈夫です、お姉さんに素直な気持ちを話してください」
楓が気になってしまう理由。
そんなことは分かり切っている。
「楓は、俺を変えてくれた人だから」
「篠原くんを、変えた……?」
あの日のことは、今でも確かな熱を持って大樹に胸に秘められている。
「俺、今までに色々な人に出会ってきました。朝日月夜さんを含め、色々な人の影響を受けながら、良いところを見つけて学んで、成長してきたつもりです」
「はい」
「でもそれって、自己完結するものばかりというか……。俺の頭の中で終わるので、見えない部分は見つけようもなかったんですよね。でも楓は――俺を無理やりに変えた」
家に上がり込んで、布団を剥がして、飯を食らわせ、説教して、随分色々やってくれたなと思う。それでも、
「衝撃的でした。不躾でも、こんな風に踏み込んでくる人が実在することが。普通、そこまでしない、っていうのが常識だったから。あんな滅茶苦茶な人、気にならないわけないじゃないですか」
「………」
「そういうこと抜きにしても、楓は唯一のクラスの友達なんでやっぱり無視できないですよ。なんだかんだ、話していると楽しいですし。……だから、また前みたいに戻りたい」
結局、自分のために動いている。あの居心地の良い関係を守るために、楓にはいつも通りでいてほしい。大樹は、そんなことしか考えられない。
「でも、今楓が悩んでいることは、ただのクラスメイトが首を突っ込んではいけない予感もしていて」
あれだけ話を聞けば、察するには十分だ。
楓は今、遠くにいる。そこまでたどり着けるのか。そもそも走り出していいのかすら、正しさを持てない。
「それでも……いいんでしょうか」
「いいに決まってるよ!」
かなたは肯定した。
「そこまで深く、誰かのことを思い悩む君なら、何も問題ないよ! きっと大丈夫。私はずっと待っていたの。楓ちゃんのことを想ってくれる人を。結局、私は大人で、楓ちゃんのそばにはいられない。近づけない。だから……」
溢れ出る泉のように、かなたは言葉を紡ぎ出す。潤みだす瞳が、彼女の必死さを物語る。
「だから今度は君が――――」
◇
「楓」
放課後になり、文化祭実行委員会に向かう楓を、大樹が呼び止める。楓が振り返る間もなく、彼女の隣に大樹は並んだ。
「今日から俺も、出るから」
「はあ?」
不機嫌そうに――というか完全にそうなった楓に睨まれる。すごく怖い。
「いや、話が違うじゃん。今は部活に専念するんじゃなかったの」
「もう、俺だけが頑張る必要はないから。あの部活はもう簡単に崩れない。だから前言撤回するよ。俺も文化祭に参加する」
「へえ? 随分余裕だね?」
尖った声を、大樹は聞き流した。そのまま歩き進めると、不意に楓の足が止まった。そして先ほどまでの剣呑さを嘘のように引っ込めて、
「さっきのことを気にしているなら、とんだお節介だよ。大樹がどうこう出来る問題じゃない。だから、気を遣わなくていいよ」
そんなことを、か細い声で言う。
「楓。俺が楓と一緒になって取り組めるのは文化祭のことだけ。それだけなら、どうしようと俺の勝手じゃない?」
「この流れで、その言い分は通らないよ。裏を読みたくなる」
「楓」
大樹が親指を立てる。そのハンドシグナルに、楓も見覚えがあったみたいだ。
「俺が何かをするのは、俺のためだっつーの! それでいいだろう?」
「……もういい。好きにして」
渋々、楓に認めてもらう。今はそれでいい。
――今度は俺が、君を変える番だ。




