「来ないでくれ」
神谷が再び部屋を整え直したところで、かなたは頭を下げた。
「すみません、神谷くん……」
「そこは叱ってくれないと困るんだけど?」
神谷は嘆息した。頭の固い教師であれば、先ほどの神谷兄弟の行動は問題にされてもおかしくないものだ。蒼斗がどう考えていたか不明だが、神谷隼人はたとえ殴り合いになっても構わない覚悟で喧嘩を売ったのだ。
「さっきのような事態は教師である私が治めるべきでした。それなのにずっと黙って成り行きを見ているだけで……。自分を情けなく思います」
「確かに情けなかったなー。ずっとびくびく震えてたし」
「うっ……」
神谷の軽口に落ち込むかなた。紅葉はそんな彼女に抱きついて、まるで子供をあやすようにその頭を優しく撫でる。むしろ紅葉の方が子供に見えてしまうことは、口が裂けても言えそうにない。
「神谷くんも蒼斗君も怖すぎるからだよ。怒鳴って椅子を蹴飛ばして。私だって途中で割って入ろうなんて考えられなかったもん。かなたんは悪くない。二人とも体格良いんだからさ、そういうのは気をつけないと」
「あー、確かに紅葉が怒っても……なぁ?」
「もう、馬鹿! 神谷君なんか嫌い!」
「なん……だと……」
本気で憤慨した紅葉に、神谷は動揺した。それを見ていたかなたが吹き出した。彼女はしばらく、ぷるぷると肩を震わせていた。大樹もようやく安堵した。自分の部活のせいでこの場所の雰囲気を悪くなどしたくない。
「じゃあこれで万事解決だねー」
何気なく言った紅葉の一言に、神谷の顔が曇るのを大樹は見逃さなかった。神谷は目を細めて大樹に視線を向けた。大樹は萎縮する。神谷が大樹を見るその瞳は、さっきの部員たちに向けていたものと同じものだった。
「篠原、頼みがあるんだが」
「なんですか」
「しばらく、ここには来ないでくれ」
「……え?」
意味が分からなかったのは、大樹だけではなかったようだ。紅葉が目を白黒させている。
「神谷くん、何言って……」
「紅葉、少し静かに」
高圧的に紅葉の発言を封じて、神谷は大樹の前へ歩み出た。
「さっきあいつらに言ったこと、お前にも多少は当てはまるぜ? 結局はお前もバドミントン部じゃねえか。篠原がここに出入りしているのを見て、勘違いした馬鹿がまたここに来ないとも限らない。面倒事を持ち込まれると困る。部活の問題は部活で解決しろ」
「――神谷くん」
静かな、それでいて強く鼓膜を震わせる声音。先ほどまでの頼りない印象はない。かなたが大樹と神谷の間に割って入ってくる。
「ここに相談を持ち込む時は、どんな内容でもどんな人でも是非を問われません。行き詰まって苦しい時、悩みを打ち明ける。ここはそういう場所です。特定の人の出入りを制限することなんて、誰にも出来ませんよ?」
「じゃあバドミントン部の連中、どうするの。明らかに『相談』って感じじゃないけど」
「はい、それについては私の落ち度です。通常の『相談』が疎かになってしまうなんて、あっちゃいけないことでした。部員たちには、そのことを良く言い聞かせておきますから、それでいいでしょう?」
神谷が浅く唇を噛んだ。くしゃくしゃと髪の毛をいじる。大樹には、神谷が何かを葛藤しているように見えた。
「この際だから言っておきたいんだけど」
神谷は懸命に言葉を探しているようだった。
「結城さんに部活の顧問とか向いてないと思う。結城さんはこれまで通り、相談室に来たやつの悩みを聞いてやることに専念しておきなよ。その方が結城さんに合ってる」
「……っ! た、確かに私にはバドミントンの経験がありません。部活の顧問も、クラスの担任も請け負ったことがないです。どうしようもなく実力不足なのは分かっているんです。そんなの嫌ってくらい分かってて……でも、みんな良い子たちで、生徒たちに力になるのは先生として当然で――」
「良い子って言うけど、だれが? 蒼斗も含めて、結城さんに舐めた態度をとっているようで奴らには苛立ちしか覚えないね、俺は。みんな、結城さんをどこか甘く見てる」
ものすごいブーメランだな、と大樹はツッコミそうになった。神谷の方がむしろ、かなたをからかっている印象がある。また軽口か――大樹がそう結論づけようとしたとき、神谷の表情に息が詰まった。
真っ直ぐな眼差しで、神谷はかなたを見つめていた。どこか寂しげで、それでいて慈しむような、そんな不思議な顔つきだった。言葉を失ってしまったのは、かなたも一緒だったのだろう。しばらく硬直が続いた後、思い出したみたいに慌てて言葉を紡ぐ。
「か、神谷くんだって私のことバカにするくせに……」
「もし本当に不愉快に感じてるのなら謝る。けど誤解しないでほしい。俺は先生としてのあんたが好きだ。出会えたことに本当に感謝している。冗談抜きに、もしかしたら学校に通わなくなっていたかもしれないし」
最後にそっと付け加えられた一言に、紅葉は悲痛に表情を歪めた。目元をそっと拭っている。かなたは前髪をいじる素振りで顔を隠している。耳が赤かった。
一体、この三人の中で何があったのだろう。そう思っても大樹にそれを確かめる術はなかったし、そんな場合でもない。神谷は再びこちらに向き直っている。
「って、わけで。これ以上結城さんに負担かけんな。バド部の顧問はもう一度探せ。名前を借りるだけならそう難しくないだろ」
神谷に圧倒されて思わず頷いてしまった。頷いて後悔した。そんな人材に心当たりなど全くない。頭の中に知っている教師を羅列していくが、どの教師も、何かしらの部活の顧問を務めている。
「大丈夫ですよ、篠原くん。ちゃんと責任を持って、顧問を続けさせていただきます」
顔を青くした大樹に、かなたは優しげに笑みを浮かべた。
「神谷くんが言いたいことは分かるよ。でも、どうして篠原くんに対してそんな言い方しか出来ないの? 頭が良いんだから、もっと気遣えるはずでしょ……」
責めるような、それでいて泣きそうな口調で紅葉は囁いた。神谷が黙って視線を明後日の方向へ逸らす。相談室の空気がまた重くなっていくを感じた。
「あ、あの結城さん、それに紅葉先輩も。大丈夫ですから。神谷先輩、心配しなくていいです。どうせしばらくはここには来れないでしょうし」
「え? どうして?」
紅葉が不安そうに尋ねてきた。安心させるために大樹は笑顔を作ってみた。
「文化祭実行委員なんです。今はそうでもないですけど、来月は忙しくてきっと相談室に顔を出すことはなくなると思います」
「文実……。よくそんな面倒な仕事引き受けたな」
「ええ、まあ……楓もそうなんですけど」
「それは驚きだな」
そう言う神谷の反応は薄かった。
「そっかー。じゃあしばらく寂しくなるね」
「ええ、まあ。それじゃ俺はこのへんで。結城さんには、新しい顧問が見つかり次第連絡しますから」
かなたと紅葉に見送られて大樹は相談室を辞した。自分のクラスを目指す。そろそろ昼休みは終わる。急ごうとする気持ちとは裏腹に足はゆっくりとしか動いてくれない。視界が少しだけ滲んでいた。
「来るな、か……」
神谷の言葉を呟くと、胸がちくりと痛むことに気付いた。あの場では平静を装っていられたのに、今ではまともに立っていることすら難しい。普段からあまり好意的な態度はされていなかったが、ここまであっさりと拒絶されるとは……。
そのことに少なからずショックを受けている自分がいた。
◇
落ち込んでいる暇などない。放課後には文化祭実行委員会が行われる。今日の内に各クラスの出し物を決定し、報告しなければならない。学校全体で必要になる機材や道具を把握したいらしい。こういった行事でまとめ役になったことがないため、勝手が分からない。文化祭はまだまだ先の話だというのに。
ホームルームのわずかな時間をもらい、大樹と楓は教壇に立った。
「はい、じゃー何かやりたいことある人います?」
楓の間延びした声がクラスに向けられた。大樹はチョークを持って黒板の前にいた。教壇に立った瞬間、クラスメイトたちから向けられる視線が怖すぎて進行は楓に任せてしまった。「なんでお前がやんの?」とか言われるかもしれないし。
チョークを持った右手を早く動かしたいのだが、一向に意見が出てこない。訝しんだ大樹は後ろの光景を見渡した。
みんな、楓の一言が聞こえていなかったのだろうか、と疑いたくなるくらいのマイペースぶりだった。ある者は背を向けて後ろの席の生徒と話していて、また別の者は今日出された宿題のプリントを解いていた。一番驚くのは、最前列の生徒が堂々と携帯をいじっていることだった。
「誰もいないのー?」
楓が再度問いかけ、クラスメイトたちの顔をひとりひとり眺めていく。一応話を聞いている人もいるが、彼らは楓の視線から逃れるように俯いている。
こんなものだろう、と思う。大樹は溜息をついた。文化祭というのは方針さえ決まればクラスの団結力を発揮できるが、そこに至るまでに尽力してくれる人は少ない。出し物に関しても何でもいいと思っているわけではないだろうに、発言をしてくれる人はいない。実に面倒な状況だった。
「はい、じゃあ委員長。何か言って」
「ええっ!? なんで私なの……」
委員長と呼ばれた女子(正確には委員長でも何でもない)が狼狽えた様子で愚痴をこぼす。これは楓のファインプレーだ。話し合いが停滞したときは発言権を一人の人間に与える。大樹には出来なかっただろう。
「特に……ないかな」
「そっかー」
ただ、楓の配慮も虚しく、結局クラスの案をまとめることは出来なかった。このまま実行委員に顔を出すとなると怒られることは確実だが……今日のところは仕方ない。
ホームルームが終わり、クラスメイトが次々と教室を出ていく。大樹は壁につけられた時計を見た。実行委員会が定刻通りに始まるのだとしたら、使える時間はあと十数分か。今日はその後で部活もある。
「楓、ちょっと出てくる。先に文実に行ってくれない?」
「ん? ……ああ」
楓が曖昧に返事をしたのを聞き届けて、大樹は鞄を持って教室を飛び出した。昇降口に向かっていく人の流れに逆らい、階段を駆け上がる。もう少し早く話し合いが終わっていれば、と大樹は唇を噛んだ。これでは、もう帰ってしまっているかもしれない。
二年生のクラスが並ぶ階にたどりつき、特別クラスを覗きこんだ。空席が目立ったが目的の人物はそこにいた。
「……センパイ」
大樹の呼びかけに、本を読んでいた月夜は顔を上げた。大樹の姿を認めて目を丸くしている。ゆっくりとした所作で文庫本を閉じ、机にしまった。
「篠原くん……」
クラスメイトたちの視線が二人に注がれた。普通なら上級生のクラスに足を踏み入れるなど躊躇われる行為だ。しかし大樹には月夜しか見えていなかった。まっすぐ彼女のもとへ進む。
「部活は行かなくていいの?」
「同じセリフを返したい気分ですね」
「私は部員じゃない」
月夜は目を伏せた。
「センパイ、お願いです。部活に戻ってきてくれませんか」
ずっと言えていなかった言葉を、大樹は口にした。何故、今までそういうことを言わないでいたのだろう。なんで、どうして、という疑問は散々ぶつけたというのに。
月夜が顔を上げ、大樹を見据えた。目を細めて、先を促しているようだった。
「お願いします、ほんとに。噂で聞いてませんか。センパイがいなくなって、つられるように沢山の部員が辞めていってしまっているんです。もう部活はバラバラですよ。こんなんでどうやって活動を続けていったらいいんですか。お願いです、戻ってきてください」
大樹の頭の中に今日の出来事が繰り返された。蒼斗が激怒し、部員たちと対峙する構図。あんな風に関係がこじれたままでいいはずがない。自分の時のようなことには、なってほしくない。中学時代の部活で大樹がした失敗を月夜は知っている。月夜なら分かってくれるはずだ――
そんな大樹の淡い期待は、しかし月夜には届かない。
「――私に戻ってきてほしいのは、部活を再建したいから?」
月夜の冷え切った瞳が大樹を射抜く。大樹は言葉を失った。言おうと思って考えた言葉の数々が頭の中から消え去っていく。鳥肌が立ち、大樹は部屋の気温が下がったような感覚に襲われた。
――この人は誰だ。
大樹は月夜を見て思った。いや、そんなことは知っている。朝日月夜だ。大樹のひとつ上の先輩で、バドミントンを通じて交流がある人物だ。性格はおとなしく、教室で読書をしていることが多い。文武両道、容姿端麗、そんな言葉を体現させる天武の才がある。
そんな当たり前なことを必死に思い出さなければならないほどに大樹は混乱していた。月夜の瞳に捉えられた瞬間、今までの築き上げてきた彼女へのイメージが一瞬で吹き飛んだ。自分が相手にしている人物が、まるで初対面の人間のように感じられる。
「戻ったところで、いなくなった部員まで戻ってくるわけじゃない。それとも、そこに尽力してほしいの?」
月夜の声を遠くに感じる。大樹は途切れそうな意識を無理に繋ぎ止める。
「篠原くん?」
「あ、あなたが戻ってくればそれで全て解決するんです!」
月夜と目を合わせられない。
「辞めていった人たちは、みんなセンパイがいないならこの部活には価値がないってそう言っていたんです!」
話すのが怖い。
「センパイが復帰すると言ってくれたら、部員たちは戻ってきてくれます!」
本当に戻ってくるのか?
「この部活はセンパイなしじゃやっていけません!」
朝日月夜にそれだけの人望があるのか?
「だから、退部は取り消しますって、そう言えよ!!」
この人は部活に、必要なのか……?
まずい方向に向かう思考を振り払うために、大樹は声を荒げた。考えて発言したわけではなかった。だから大樹は後悔した。慌てて口を閉じる。
「そんな置き物になりたくない」
月夜は失望を露わにして、教室を出た。その際に閉められた扉が、大樹と月夜の心を完全に切り離したみたいだった。




