「ふざけんな!」
朝日月夜が部活を辞めたことによって、バドミントン部にもたらされた影響は、まだ続く。当初、大樹は女子団体戦メンバーから主力人材が一人抜け落ちてしまったくらいにしか考えていなかった。
しかし、次の週に学校を訪れたとき、その考えは容易く覆される。
「なにこれ……」
月曜日に部活にやってきた大樹は呆然と呟いた。練習開始時間になり整列していた部員は二十人程度。本来の半分以下の数字だ。そのまま準備運動までは済ませたが、後から誰かがやってくるような気配はない。既に単なる遅刻では片付けられない時間が経過している。
「誰か何か聞いてないか」
部員を見渡して蒼斗が問う。その様子ではおそらく何も知らないのだろう。今この場に、この状況を正しく把握出来ている人はいないようだ。蒼斗は咲夜と一言二言交わすと練習メニューの変更を指示した。部員たちは不安を感じつつもそれに従う。人数が少ないおかげで、いつもより長くコートに立っていることが出来た。
その日はそれで終了したが、部員の数は日が変わるごとにどんどん減っていった。二年の男子メンバーを始めとして、やがて一年まで姿を現さなくなり、現在部活に顔を出す人数は両の指で足りるほどになった。
何が起きているのか、最初は全く分からなかった。だが、大樹はひとつの可能性を導き出した。これしか考えられない。
九月六日水曜日。
昼休みの時間、大樹はある場所に向かっていた。そこに行くのは久しぶりな気がする。夏休み前はよく入り浸っていたというのに。
ドアに手をかける寸前、中から怒声が響いてきた。
「なんでもっと強く引き留めてくれなかったんですか!」
大樹は思わず後ろへ下がった。誰かいる。中から話し合いがわずかだが聞こえてくる。神谷や紅葉の声ではない。大樹はおそるおそるといった所作で扉を横にスライドしていく。
「蒼斗先輩? どうしてここに……」
「篠原……」
見慣れた相談室に、見慣れない姿を見つけた。それ以外は他に変わったところはない。神谷と紅葉は成り行きを見守るようにソファに腰かけていた。
蒼斗に問いを投げかけておきながらも、言葉なんてそれ以上必要なかった。大樹と蒼斗はお互いに察する。ここに来た理由なんてはっきりしている。二人とも、この部屋を誰が管理しているのか知っているのだから。
「かなたさん……多分俺も蒼斗先輩と同じ用件です」
「はい、わかっています」
弱々しく微笑む結城かなたは疲れた様子だった。薄幸さ加減が以前より増している気がする。言いたいことをあらかじめ用意していた大樹だったが、今のかなたを見ているとそれも躊躇われる。
それでもこれだけは確認しておかなければならない。
「かなたさん、部活に来ない人たちって……」
「――はい。ここ数日で私のところに退部届を出す生徒たちが何人もいました」
それを聞いて、胸に湧き上がった感情を何と表現すれば良いのだろう。怒りと落胆が混じり合った複雑な気持ちだ。
蒼斗は舌打ちをして、吐き捨てるように呟いた。
「退部届を出した人数と、休んでいる人数が合わない。実際には無断で欠席してる奴らもいるってことだ。結城先生、なんでもっと早く俺に知らせてくれなかったんですか」
「蒼斗くんも知っていたとばかり……。彼らは伝えたと言ってましたから」
「俺は何も聞いてません!」
蒼斗はテーブルを拳で殴りつけた。女性陣、かなたと紅葉が小さく悲鳴を漏らし、体を硬直させた。彼女たちほどではないにしろ、大樹も驚きを隠せなかった。いつも冷静な蒼斗が、こんな風に声を荒げるなんて……。
「結城先生はバド部の顧問になってから日が浅いから分かってないかもしれませんが、うちの部活は組織として危ない状態なんですよ。みんな楽な方へ、楽な方へと流されてしまいがちで、俺たちがしっかりしてないとすぐに駄目になる。結城先生にはそのへんの意識が足りてない!」
「ご、ごめんなさい……」
萎縮して、かなたは俯く。
やっぱりそうなんだ、と大樹は心の中で呟いた。あえて触れてこなかっただけで、蒼斗も気付いていたのだ。藍咲バドミントン部は、いわば砂上の楼閣だ。部員数は強豪校のそれに劣らず、表面上は声を出して活発的に練習している。けれど、集団として強固な基盤がない。風が吹けばあっさりと崩れ去る危険性を常に孕んでいた。今回はその風が『朝日月夜の退部』だっただけだ。
自分は何をしているのだろう、と思う。月夜に誘われてこの部活に入ったというのに、彼女はもうバドミントン部を辞めてしまって、彼女の余波で部活はバラバラになろうとしている。
最悪の想定が頭の中をよぎっていく。もしも、この部活まで駄目になってしまったら、どうする? そんなことが起きる可能性は限りなく低いのかもしれない。それでも、今のこの状況が、中学時代のものと重なる。どれだけ足掻いても、むしろ足掻くほどに部員たちの心が離れていく。誰の助けを借りることも出来ず、長く続いてきたはずの伝統を自分の手で潰してしまった罪悪感。あのときの恐怖が、足元から這いあがってくる。
「篠原くん!?」
紅葉の声に、大樹は我に返った。大樹は部屋の壁に寄り掛かっていた。嫌な汗が額にべっとりと付着している。心配する紅葉に大樹は「大丈夫です」と短く答えた。もうすっかり過去の出来事として折り合いをつけたと思っていたのに、そうでもなかったようだ。自嘲的な笑みがこぼれる。
蒼斗も気遣うようにこちらに視線を送ってきた。さっきまでの激情は鳴りを潜めたようだ。こんな情けない自分でも多少の役に立つのなら嬉しい。
大樹が安堵の溜息を吐いた次の瞬間、別の来訪があった。
相談室にぞろぞろと現れた彼らには見覚えがある。あって当然だ。なぜなら、彼らは同じ部に所属する部員たちなのだから。
二年生が多く見られる中で、後ろに隠れるようにして一年生が何人かいるのが分かる。先頭の男子先輩は蒼斗と目が合うと、気まずそうに顔を逸らした。
「お前ら何しにここに来たんだよ……」
蒼斗の声は震えていた。
「いや、そのなんていうか……な?」
男子先輩は曖昧に笑った。助けを求めるように後ろの人たちに目配せするが、彼らもぎこちない笑みを浮かべるだけに留まった。重たい沈黙が場を支配していたが、やがて男子先輩が意を決して前に出る。
「結城先生に用があって」
「……はい」
神妙な声でかなたは答えた。蒼斗や大樹の横を通り抜けて、彼らはかなたを囲うようにして散らばる。
「俺たち、今日でバドミントン部を辞めようと思います。今までお世話になりました」
男子先輩に倣って、部員たちは頭を下げた。中には、わざわざ退部届を用意した人もいるようだ。蒼斗が弾かれるようにして割って入っていく。
「ちょっと待てよ。なんでお前らまで急にそんな」
「ああ、えっと……」
言い淀む男子先輩の肩を別の先輩が掴んだ。
「いやあ悪いね、蒼斗。そういうわけだから。後は頑張って全国でも目指しておいてね?」
おどけて言うそんな言葉に誰かが笑った。嘲笑が伝染していく。蒼斗は奥歯を噛み締めて、握り拳をつくった。
「なんで辞めるんだよ」
「決まってんじゃん。俺ら全然試合にも出れねえし、朝日さんは辞めるし。朝日さんがいないなら、こんな部活に価値なんてもうねえじゃん。続ける意味なくね。なあ?」
「え、えっと、はい……」
彼は隣にいた一年生に肩を回した。怯えたように何度も頷いている。多分、長いものに巻かれておけば良いという精神でこの場に来たのだろう。
「ほら、みんなバドミントンなんてマイナースポーツに興味ねえって」
「一緒にしないでください」
女子の一年生が声をあげた。確か、中学での経験があり練習を上級生と共にしていた部員だ。部活での姿を見るに真面目だと思っていたから、ここにやってきていることに違和感を覚えた。
大樹は聞いた。
「君も辞めるの?」
「そうだけど?」
特に悪びれる素振りもなく彼女はそういい切った。ならば、男子先輩たちと同じじゃないかと言い返そうとしたが、大樹の言いたいことを察したのか彼女は面倒そうに髪をいじりながら、
「私は朝日先輩に憧れてこの部に入ったの。あの人から指導を受けてステップアップするために。女子で強い先輩とか他にいないし、じゃなきゃ誰がこんなとこに入るの?」
「村上咲夜先輩とかいるだろ」
「はあ? あれが? 冗談よしてよ。あんなのただ偉そうに吠えてるだけの雑魚じゃん」
歯に衣着せない物言いに、その場の全員が言葉を失った。確かに咲夜はプレイヤーとしての技術はまだまだだが……彼女は普段こんなことを考えながら部活に顔を出していたのだろうか。
バラバラだな……この部活。
この部活を大切にしている人なんて、誰もいないのかもしれない。
「――ざけんな」
その小さな反抗を大樹は聞き逃さなかった。部員たちは訝しげに蒼斗に視線を向けた。
「ふざけんな!」
蒼斗は声を張り上げた。壁を強く殴りつける。部員たちが怯えた表情になる。
「俺や咲夜、それに相馬さんや姫川さんがどんな思いでこの部活を回してきたと思ってやがる。少しでも皆が打てるようにメニューを考えて、体育館での練習を増やすために他の部活と交渉して、部費が増えるように生徒会に頭下げて!」
大樹は胸が痛くなった。蒼斗の言葉は大樹に向けられたものではない。それでも心にぐさりと突き刺さる。大樹は中学時代、そこまで奔走しなかった。そこまで頭が回らなかった。
「これだけのことを俺たちに押し付けておいて、気に入らなくなったら好き勝手文句言って辞めるってか。随分、楽な生き方だな」
「だ、誰もそんなことしてくれなんて頼んでないだろ。何キレてんだよ、頭おかしいぞ」
「ああ、そうだな頼まれてなんかいないな。でもそれをしなきゃどんな部活だって機能しねえんだよ。そんなことすら知らないお前らにとやかく言われる筋合いねえよ!」
男性陣は蒼斗の気迫に圧倒されたのか、誰も口を開くことが出来なかった。しかし、唯一の女子部員は冷めた目付きで反抗する。
「自分がこれだけ尽くしてるから感謝しろ、とでも言うんですか。恩着せがましいですね。そんなことよりも朝日先輩を連れ戻してくださいよ。そうしたら戻ってきてあげますけど」
「わかったよ。もう知らねえ。どうぞご自由に辞めてくれ。その代わり二度と顔見せんな。今まで黙って耐え続けた俺が馬鹿だったよ。この――」
何か言いかけた蒼斗の言葉が発されることはなかった。大樹は目の前の光景に息を呑んだ。蒼斗の前に出た神谷隼人は弟の顔面に拳を叩きこんだ。蒼斗は不意の衝撃に耐えきれず机や椅子を巻き込んで倒れ込む。
誰かの悲鳴が聞こえた。女子生徒だったと思う。
蒼斗は殴られた右頬を押さえて、よろよろと立ち上がった。
「何しやがんだ兄貴ッ!」
「みっともねえことほざいてんじゃねえよ。同じ顔したお兄ちゃんは恥ずかしいぞ。――無駄なことはやめろ、蒼斗」
突如乱入した蒼斗とそっくりな生徒に部員たちが釘付けになる。多分、蒼斗にそっくりな兄がいることを誰も知らなかったのだろう。
「出ていけ。頭冷やしてきなよ」
神谷が言うと、蒼斗は兄を鬼のような形相で睨み付けそれから部屋を出ていった。ドアが大きな音を立てて閉められる。
「愚弟が失礼をして申し訳ないな。どうか気にしないでくれ」
「は、はあ……」
曖昧に女子部員が返事をした。神谷は乱れてしまった机や椅子を丁寧に戻す。作業が終わり一息をついた神谷は部員たちに視線を向けた。
「ねえ、いつまでそこに突っ立ってんの? 出ていけって言ったろ」
「え? でも蒼斗ならとっくに――」
「最初からテメエらにしか言ってねえよボケ」
自分で整えたはずの椅子を、神谷は蹴り飛ばした。
「毎日毎日テメエらと同類のゴミクズがやってくんだよ。いい加減苛々するわ。何勘違いしてんだ。ここはくだらねえ羽根つきの部室じゃねえ。相談室なんだよ。外のプレートが見えなかった?」
女子部員の怒りの矛先が今度は神谷に向けられる。
「私たちは結城先生に用があって来たんです! なんでそこまで言われなきゃいけないんですか!」
「この時間の結城さんの仕事は相談者の悩みを解決することだ。テメエらの用件は放課後に職員室にでも持ち込めよ。今日の相談者は蒼斗。そこに横から我が物顔で割り込んで引っ掻き回して何様のつもりなんだ?」
「蒼斗先輩が相談者なら、それは部全体の問題です。私達が入り込んでも何も不都合ないじゃないですか」
「今日の蒼斗の相談内容は、卒業後の進路についてだったが……どのへんが部活に関係あんの?」
一瞬、女子部員が言葉を失う。大樹は半笑いだった。今のは完全に口から出まかせだろう。そんな話は一ミリもしていなかった。
「……そ、そんなのどうせ嘘でしょ」
「今日の件がなくても、昨日、一昨日の相談はお前らの部活のせいで中止にせざるを得なかった。こっちはいい迷惑だよ」
女子部員がかなたに視線で問いかける。かなたはぎこちない笑みで頷いた。どうやら今度は本当のことらしい。
「その人たちと私は関係ないですから。私はそんな人たちとは違います」
「人の振り見て我が振り直せって知ってる? この場合、聞いてだけど」
畳み掛ける神谷の主張は正論だ。女子部員は唇を噛む。上手い反論が思いつかないようだ。
「どうした? もう何も言うことないなら早く帰れよ」
「もう少し言い方があると思います! どうして他人を気遣う思いやりがないんですか!」
正論では敵わないと判断したのか、今度は感情論に話をすり替えてきた。それを聞いて大樹は自分の耳を疑いたくなった。神谷は鼻で笑った。
「そっくりそのまま同じ言葉を返すよ。さっきまでの自分の発言を振り返ってみたら?」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にした女子部員は大股で歩いて退出した。それに続くようにして残りの男子部員も部屋を出て行った。
「……はぁ~」
神谷は長い溜息を吐いて、ソファにどかりと腰を下ろした。
「神谷くん」
「何? 紅葉――いってぇ!」
「物に当たらない。早く直して」
紅葉に急かされて、神谷は渋々と椅子を元の位置に戻した。さっきまでの嵐のような騒ぎが嘘みたいに、いつも通りの相談室の空気が流れ始めた。




