「辞めるから」
九月一日。
まだ暑さの残る日々が続いているが今日から劇的に変わることがある。
「学校だ……」
平日か休日か。そのどちらかで起床の心地良さは全く違ってくる。休日ならば少しだけ微睡んでいても問題はないのだが、今日からその甘えは許されない。一般的な家庭風景としてはここで、母親が『大樹、今日から学校でしょ! 遅刻するわよ!』と叩き起こしてくれるところだが、篠原家においてそれはむしろ大樹の役目だ。母と妹を起こし、食事を用意しなければ。
眠い目を擦り、自分自身を叱咤する。毎年、九月一日は寝不足だ。妹の紗季が前日の悪足掻きに必ず大樹を巻き込むせいで。もはや、恒例行事のような扱いであり、年々(学年が上がるために)難易度が上がっていく紗季の宿題には辟易している。去年の大樹の受験期でさえ付き合わせようとしたときは冗談抜きに泣きそうになり、今年は大樹自身の宿題が終わる目処が立たず絶望を味わうことになった。
「マジで駄目かと思ったー」
書き取りのように手を動かせばどうにか片付くものはともかく、頭を回さねば解けない問題集たちは天敵と言って過言ではなかった。楓が、クラスメイトから拝借したという解答を大樹に回してくれていなかったら確実に終わっていなかった。今日会ったらお礼を言っておこう。
「ほら紗季、朝だよ」
「いやだ……眠い……宿題が……終わらないよ……」
「宿題は終わったろ。お前の方を優先したおかげで」
そこから不毛な押し問答を繰り返したが、諦めてキッチンに向かう。時間に追われているというほどではないが、手の込んだものを作っている余裕はない。大樹はわざと多めに作った昨日の夕飯をそのままレンジで温めて母と妹に振舞った。
「大ちゃーん。紅茶はまだですかー?」
「はいはい、今やってるところだから待っててね」
「ねー、お兄ちゃーん。あたしの制服はどこにしまったの? 上履きも見当たらないんですけどー」
「全部お前の部屋だよ、ちゃんと探せ!」
「大ちゃーん。 おひさまが気持ち良さそうなので、カーテン開けてください」
「はい、ただいま」
「お兄ちゃーん。寝癖がとれない、なんとかしてー」
「水でもつけてろ!」
「何かさっきからお母さんにだけ甘い……」
それは仕方ない。母に何かさせると、かえって忙しくなってしまうのだから。この天然お嬢様(母)にはここでじっとしてもらうのが何より有り難い。そういう意味では紗季の方を評価しているのだが、妹にはそれが伝わっていないのか不貞腐れてしまっていた。このままにしておくと冷戦に発展しかねないので、出発間際に紗季の髪をととのえてやった。紗季は上機嫌で家を出て行った。
「大ちゃんも、もう行きますよね」
「うん。今日は始業式だから多分昼くらいには帰ってこれると思う。さすがに電子レンジの使い方くらい分かるよね……?」
「馬鹿にしないでください。ボタン押すだけじゃないですか」
「新しく買い換えたからね……」
以前まで、家にあった電子レンジはダイヤルを回して時間を指定する仕様だったのだが、母が全く使いこなせないために思い切って全自動式のものを購入した。機械が勝手に判断して丁度良い時間だけ温めてくれるのだ。日本の技術は進化しているのだと実感した。
「なんかあったら電話して。それじゃ――」
「大ちゃん」
「ん?」
大樹は靴を履こうとしてしゃがんでいたが、母のいつもと違う声音を訝しんで顔を上げた。母は、常が穏やかなその顔を曇らせていた。我が子を慮る母親の姿がそこにはあった。
「すごくつらそうに見えますけど、平気ですか」
「……っ!」
想定していない母の言葉に、大樹は刹那ほど言葉を失った。硬直が解けた大樹は再び革靴に手を伸ばして、冷静さを保つように努めた。
「そんなことないよ」
「紗季ちゃんも気付いています。ずっと大ちゃんが元気ないこと。あの子はあの子なりに、あなたのことを心配していたみたいです。いつもより、かまってちゃんだったでしょ?」
言われて、大樹はここ数日の紗季の様子を思い出そうとした。思い当たるような、ないような。何かある度に大樹が呼ばれるのは日常茶飯事なのはいつものことだが、そういえばその中に映画を見たりゲームしたりがあったかもしれない。
「大丈夫だよ。考え過ぎ。いってきます」
胸の前で手を振る母に見送られ、大樹はマンションを出た。駅に向かって数分歩いたところで、我慢していた言葉が吐き出された。
「なんでそんなことわかるんだよ……」
どうやら自分で考えているより、気持ちが顔に出てしまう性分のようだ。意外と、あの二人は大樹のことをよく見ている。もし、大樹が将来家庭を持つようになったとして、きっと大樹は嘘を隠し通せないだろう。仕事でミスをした、首を切られそうとか。そんな想像をして大樹は苦笑した。
朝日月夜が、部活に参加してこない。
その事実が、大樹の不安を駆り立てる正体だった。あの花火大会以降、大樹は月夜に会っていない。残っていたバドミントン部の活動にも顔を出さず、月夜は休み続けている。欠席理由は部長である蒼斗から聞かされていた。季節はずれのインフルエンザらしい。
大樹はそれが嘘だと確信していた。花火大会であんな喧嘩別れみたいなことをして、その直後にインフルエンザにかかるなど都合が良過ぎる。連絡を送っても未読無視。昨日になってようやく返信が来た。
――風邪で寝込んでいた。心配かけてごめんなさい。明日また学校で
何件もメッセージを送り、花火大会でのことを謝罪した大樹に対してたったこれだけだ。まだ機嫌は直っていないのだろう。素っ気ない文面からそれだけ察した。
月夜がいなくても、部活は正常に機能した。月夜は部内で誰よりも優れた実力を持っているが、役職は持っていない。蒼斗と副部長の村上咲夜が部をまとめていた。練習風景はいつも通りのはずだが、大樹はどうにも落ち着かなかった。それだけ朝日月夜の存在感が凄まじかったということだろう。いないことを分かっているのに、気が付けば月夜の姿を求めて視線をさまよわせてしまう。
その行動は、今でも変わっていない。月夜と同じ地元であるため、登校時間が被って見つけることが出来る可能性がなきにしもあらず。ただ、月夜に出会えたところで、何を話してよいか、皆目見当がつかない。大樹がどれだけ考えても月夜が怒る理由なんて全く想像がつかなかった。時間が解決してくれるかもと、楽観的になろうともしたが、それは昨日の連絡のせいで叶わなくなった。
駅に着いてホームを見渡し、やってきた電車の車内に視線を走らせ、学校までの道のりを歩く生徒たちの顔をひとりひとり確認した。
それでも月夜はいなかった。代わりに別の人物を見つける。夏場になってようやくその長ったらしい髪を切ったのか、普段隠れ気味な片目も含めた両の瞳を認めることが出来た。
「楓」
「ん? ……大樹か」
半目だった瞳に少しだけ生気が宿る。髪型が変わり目付きを鋭くしているためか、いつもと違う印象を受ける。まるで別人だ。
「髪、いい感じだな」
「は? キモ」
「急に何!?」
いきなり罵倒された大樹はひどく狼狽した。
「出会いがしらに髪褒めるとか何? 紳士気取り? 寒いなー」
「ああ、ああ、うん。この感じ久しぶりだわ。怒りとかよりも安心感が先行しちゃうんだけど、これやばいかな……」
「末期だよ、それ」
どうでもよさそうに、楓は視線を前に戻した。なんだか、機嫌悪く見えるのは気のせい……ではないだろう。どうして大樹の周りの女性はこうもイラついているのだ。大樹は胃が痛くなるのを感じた。
「でも、ほら、本当に似合ってると思うよ。どこの美容院?」
「はあ? ……ああ、これは――」
先程の会話の続きだと気付いた楓は自身の髪をくしゃりと掴む。
「かなで……」
「え?」
「なんでもない。どうだっていいだろ、そんなこと。どこの美容院だろうと、大樹の髪をイケてるようにすんのは無理だし」
「お前今日辛辣じゃね!? もう少し言葉選べよ傷ついちゃうだろうが!」
「うっさ」
なんと楓はイヤホンを取り出し、それを自分のスマホにそれを挿した。大樹と会話をする気がなさ過ぎて、ちょっとショックだ。楓は冷めた目で画面をスクロールしていったが、お気に召す曲でも見つからないのか、長い溜息を吐いた。結局イヤホンを耳からはずしてスマホごと鞄にしまう。
いつもアンニュイな雰囲気を醸し出している楓だが、今日は様子が変だ。憂鬱そうに口元を曲げている。面倒なことなんて流して、世渡りが得意そうに見える楓でも、何かを悩むくらいはあるのかもしれない。踏み込むべきかどうか迷う。今朝の母のようにやれたら良いのだが、大樹と楓はとどのつまり他人でしかない。他人にプライベートを土足で荒らされたら嫌な気になってしまうのは当然だ。
しかし、それなりに仲の良いクラスメイト(大樹はそう思っている)と登校を共にしているのに無言というのも何か変な気がする。大樹はしばらく悶々としていたが、好奇心には逆らえなかった。
「何かあった?」
「は?」
「なんか、つらそうだから」
母と同じ言葉を使ってしまった。撤回しようと再び何か言おうとしたが、大樹は息を呑むだけに留まった。勢いよくこちらを振り向いた楓がじっとこちらを凝視する。予想外な反応に足を止めてしまう。楓も一緒に止まった。
時間にして数秒ほどのことだったと思うが、それよりずっと長い時間のように感じられた。居心地が悪かったが、その意外と端整な顔で見つめられると少し照れくさかった。だが、楓にだけは絶対そういうことは言わない。悟られるのだって嫌だ。恥ずかし過ぎる。
楓はそれまで表情から一転、相好を崩してにやけ顔になった。
「女には色々あんの。男よりもね」
「へ、へえ」
「生理とか」
「ええっ!? あ、なんかすんません、もう黙ります」
「別に今日じゃないし」
一体何が引き金となったのか、楓はそれから上機嫌でさっきまでの様子が嘘のように話が弾んだ。まったくもって、女心は複雑怪奇だ。リア充ならば、これぐらい造作もないのかもしれない。
教室に向かう途中に見知った顔がいくつもあった。まあ、一方的に知っているだけで声をかけられる人なんていないが。彼らはお互いを見つけると競い合うかのように夏の思い出話を語る。だるい、眠い、なんて言っているが本気ではないのはその楽しそうな顔を見れば分かる。そんな、微笑ましい光景をちょっと羨ましがりながら階段を上がった、
その時だった。
何を油断しているのだろう。俺はこの人のことで頭がいっぱいだったはずなのに。
特徴的な長く艶やかな黒髪と夏服からのぞく白い腕が眩しい。周囲の喧騒が遠くに感じられる。気高く高潔に、その人は佇んでいた。
「センパイ……」
「篠原くん」
朝日月夜の声が上から降ってくる。その声を、その姿を、最後に聞いて、見ていたのはずっと前のこと。様々な感情が溢れてくる。謝るべきか、怒るべきか。大樹は今耐え難い葛藤の中にいた。
大樹と月夜が顔を突き合わせても、何も起こらないこの状況を訝しんだ楓は隣の大樹に視線でそのわけを問う。大樹は俯いてその視線から逃れようとする。
「先に行く」
楓はそれだけ呟くと階段を上り始めた。月夜とすれ違う際、彼女の方をちらりと楓は盗み見ていた。そして、ようやく時が動き出す。
「久しぶり」
「お久しぶりです。センパイ。俺、センパイに色々言いたいことが」
「その前に」
有無を言わさない語気で月夜は大樹の言葉を遮った。
「私から報告することが」
「報告……?」
「本日を以って、私はバドミントン部を退部させてもらうわ」
「は?」
「もう、辞めるから」
彼女から懐から取り出した白い封筒には黒い字で大きく、こう書かれていた。
退部届――――と。




