「ようやく時間がとれる」
日本の夏は容赦がない。時刻は夕方と呼べる頃合いになり、少しは暑さが和らいだかのように思えたが、焼け石に水だった。
神谷隼人はうんざりとしながら、東陽町の駅に逃げ込む。電車のクーラーに癒されていると、つい気持ちよくなって眠ってしまった。いつでもどこでもすぐに寝れてしまうのは一つの特技だが、そのせいで本来降りるべき駅を乗り過ごし、慌てて反対のホームに走らなければならなかった。再び汗をかく。本来なら舌打ちのひとつでもするところだが、今の自分には達成感が満ち溢れている。
意気揚々と神谷が帰宅したとき、玄関に見慣れない靴があることに気が付く。現在、神谷家の住民は自分以外出払っている。しかし、このサイズ感、子供チックなデザインは確実に紅葉だ。案の定、リビングで紅葉は退屈そうに座っていた。
特に言葉をかけることはせず、まず神谷は紅葉に抱き着こうとした。だが、小さな体はするりと神谷の腕から逃れていってしまう。
「まず言うべきことがあると思うの」
「ただいま。風呂よりも飯よりも、紅葉がいいな」
「面白くないし」
紅葉はそっぽ向いて、今度はソファに体を預けた。神谷は隣に腰掛けようか一瞬迷って、さっきまで紅葉が座っていた場所に収まった。
「ところで、どうやって家に入ったんだ? 鍵を持ってるのか? いつの間に作った? 俺は構わないが、家族にばれるとストーカー扱いされるぞ」
「蒼斗くんから鍵を預かったの!」
割と勢いよく、キーケースが投げつけられる。反射的に受け取ると、なんだか見覚えがある。蒼斗が普段使っているものだ。
「はあ? 蒼斗? あいつは今羽根つきかなんかの合宿に行ってるはずだろ」
「羽根つきって……。篠原くんや朝日さんが聞いたら怒りそう」
スポーツに興味がなさ過ぎて適当なことを言ってしまった。
蒼斗が行っているということは、朝日月夜や篠原大樹も同じく今頃合宿に行っているのか。休み中でも運動をしたがるその神経は神谷には理解できないものだ。ここ最近の私生活を振り返っても、最後に体を動かしたのは体育の授業以来だ。あれ、俺の生活、ニートすぎ……!?
「よく考えると、俺って不健康な生活をしてるな」
「よく考えなくてもそうでしょ。そのわりにどこか遊びに行ってるし」
さっきから、紅葉の言葉がいちいち刺々しい。なぜこんなに怒っているのだろう。別に今日会う約束をしていたわけではないから、機嫌を損なわせてしまう原因が神谷自身にあるとは思えない。
「で、何か用があって来たんじゃないのか。また予備校の問題を解いてほしいとか?」
神谷は自堕落なライフスタイルを貫いているが、彼の同級生たちはもうすぐ受験を控えた三年生だ。この夏で志望校に手が届くところまで学力を上げられるか、勝負どころなのだろう。紅葉も最近ではよくお菓子と一緒に参考書を手にしている。お菓子を口にしている時間の方が長いが。
だがハズレだったらしく、紅葉は「ちがうもん」と頬を膨らませた。
「隼人は家事とか全然やらないから面倒見てほしい、って頼まれたの。だめじゃん、ちゃんと一人で出来ないと」
別に家事くらいちゃんとこなせる。必要性に迫られない限り、自分から働かないだけであって。しかし、愚弟にしては中々賢明な判断だ。両親もまともに帰宅しないため、神谷一人ではこの家を切り盛りするのは難しい。
早速、紅葉で遊ぶことにしよう。
「悪い、もう一回言って。なんて頼まれたって?」
「え? だから、面倒を見てほしいって」
「その前」
「家事とか全然やらないから……?」
「もっと」
「隼人が……。あ」
今更気付いたのか、紅葉は呆れて溜息をついた。
「神谷くんは頭いいけど、ときどき本当に馬鹿だね」
「好きな人から名前で呼ばれたいって思うのは、普通のことだろ?」
「早く帰ってきてくれたなら、してあげたかもね。で、どこで何してたの」
「お前は俺の母親かよ……」
世の中の母親というのは、自分の子供に多大な興味関心を示し根掘り葉掘り聞いてくるらしい。友達が出来たかとか、誰と飯を食べたとか、休みにどこか出掛けないのかとか――神谷家ではその限りではないからよく分からないが。
益体もないことを考えていると、目の前の少女は黙りこくって顔を俯かせていることに気付いた。表情が冴えない。紅葉が不機嫌になったときの顔とはパターンが違う気がする。翳を張り付けた少女は、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「あのさ、神谷くんは大学どこにするつもり?」
「なんだよいきなり。別にどこでも……」
「いいから」
ぴしゃりと、紅葉は言う。ここでふざけると怒らせてしまうかもしれない。
「正直なところ、今の俺の学力で入れない大学は日本にはない。だから、本当に、どこでもいい」
神谷にしては歯切れの悪い物言いだった。クラスの連中になら遠慮しないのだが、紅葉を前にして平然とはしていられなかった。彼女は彼女なりに、受験生として頑張っているが結果はあまり伴っていないことを知っている。自分の存在は、彼女にはどう映っているだろうか……。
「私、神谷くんと同じ大学に行けるかなあ……?」
「俺が紅葉のところに行けばいいじゃん」
「そういうのは駄目!」
紅葉の瞳に炎が宿ったような気がした。今更ながら失言だったと思い直す。今のは紅葉を侮辱しているのと同義だ。「すまない」と短く謝る。
「私、まだまだ神谷くんと一緒にいたいって思う。でも、なんか最近、神谷くんすぐに家に帰ろうとするし。連絡しても返信遅いし……」
少し、意外だった。
紅葉がそんな、神谷にとっては取るに足らない些細なことを気にしていたとは。
「神谷くんがどういう性格なのか、知っているつもりだから。……私と一緒にいるのに飽きたなら、もう……」
泣きそうになっている紅葉を見て、神谷は慌てて財布を取り出してそこから一枚のカードを突き付けた。紅葉は驚愕で目を丸くした。
普通一種免許。教習所によっては、十八歳になる一月前から入校が可能だ。神谷は春から少しずつ通い続け、本日で江東区の運転試験場の学科をパスして免許証を交付した。運転技術も学科内容も、神谷はすぐにマスターしていたが、教習は決められた時限数をこなさなければならない。運転の方は一日に二時間、もしくは三時間しか受けられず苛々した。もどかしい気持ちを抑え続け、ようやく今日でそれらからも解放された。このカリキュラムでも大分簡略化されたというのだから、昔はもっと大変だったろう。
紅葉はそんなものを見せられて、しばし言葉を上手く発せていなかったが、やがて免許証を手に取ってはしゃぎ出した。
「わあ~! すごい! 頑張ったね。多分うちの高校で免許持ってるの神谷くんだけだよ。……あっはは! 写真でもすごくだるそうな顔してる~」
目を輝かせて免許証を見ていた紅葉が腹を抱える。神谷は免許証を取り上げる。
「学科を通ってからも結構待たされたんだよ。免許作るのに時間かかるとか聞いて、もうその時点で面倒くさくなってな」
「あ、そうなんだ……。それで遅くなっちゃったんだね」
「いや、免許証自体は二時間くらい前に出来てたけど、暑かったから試験場で涼んでいた」
「……そう」
しまった。何も言わなければ機嫌が直っているところだったのに。しかし、アスファルトの上で陽炎が揺らめいているのを見たら、帰ろうなどという気は霧散したのだ。
「なんで言ってくれなかったの……?」
「受験期に免許取るなんて言ったら馬鹿にされそうだったからな。それよりも驚かせたいって気持ちの方が強かったんだが」
「本当に馬鹿じゃん」
呆れたようにそっと息を吐いた紅葉は、次の瞬間には頬を緩ませていた。神谷はようやく安心感から胸を撫で下ろす。
「まあ、そんなわけだし、これでようやく時間がとれる。夏の間にどこか出掛けようぜ。なんなら森崎たちを誘うのもいいな」
途端、再び顔を曇らせる紅葉。これは不貞腐れた時の顔だなと直感する。だがそうなってしまう原因がちっとも分からない。
「どうした?」
「はあ……別に。まあみんなで遊ぶのもいいけど」
笑ったり、怒ったりと忙しい奴だ。
「っていうか、そんなに待ったんだったら連絡すればよかっただろ。そうしたら俺もすぐに帰ってきたし」
「え、だって……びっくりさせたかったんだもん」
ぽけーっと神谷が固まる。紅葉はもじもじとしていたが、やがて近くのクッションを引き寄せるとそれに顔を埋めた。
なんとなく妄想してみる。紅葉のことだから、神谷が油断しているところに突然現れて驚かせてみたかったのだろう。しかし不在だと知って肩を落とす。それならば、次は帰ってきたタイミングを狙うために玄関で待ち伏せる。そわそわと、あるいはわくわくしながら、紅葉は神谷の帰宅を待つが、やがて痺れを切らし不機嫌になって――
なんだそれ。可愛すぎて捗る。
「に、ニヤニヤするな!」
無意識でそうなってしまっていたのだろう、胸の内から溢れてくる幸福感をどう発散するべきかが分からない。目の前の少女を愛おしく想う気持ちが止まらない。照れ隠しなのかクッションを投げつけられる。
ふんっ、と鼻を鳴らした紅葉がリモコンを手に取りテレビを付けた。丁度ドラマがやっていた。それが何年も前にヒットした恋愛ドラマの再放送であることに気付くのに時間はかからなかった。俳優が言う。俺のバイクに乗せていい女は、俺の彼女だけだ。バイクに跨った彼が去っていく。
「おお……。かっこいい」
紅葉はだらけた姿勢でぼそりとそう呟いた。
それを聞いて、神谷隼人は。
ものすごい後悔に駆られた。
なぜ自分は二輪の免許を取らなかったのだろうか。そっちの方にしていれば今すぐそのドラマを再現出来るというのに。残念ながら四輪の普通免許では他に原付しか動かせない。今すぐ二輪免許が欲しいが、また時間と金がかかることを考慮すると簡単に手が出ない。合宿ならばさくっと……しかし二週間近くも見知らぬ連中と過ごさねばならないのか……。
神谷は悶々と、頭を悩ませた。
週一更新のペースを守っていましたが、来週はお休みします。
次回は二週間後に。




