「ここで一生養われたい」
ギリギリ月曜日、間に合いました……!
大樹と月夜が合宿に励み、神谷と紅葉がイチャついている頃。
篠原家のキッチンで楓は朝食の準備をしていた。とは言っても特別難しいものは作っていない。冷蔵庫から取り出した高級ハムを焼き、それから高級卵は目玉焼きにしてみた。しおこしょうで少し味付け。昨日の晩御飯の残りであるご飯とみそ汁を付け加えたら、立派な『朝食』の完成だ。
「すごーい! 楓ちゃんコックさんみたい!」
「いや、マジで大したことないので……」
ソファで朝日を浴びながら手を叩いてはしゃいでいるのは、同級生である篠原大樹の母親だという。この家に転がり込んだ初日に挨拶したときは彼のお姉さんかと思った。冗談抜きで。
そこは篠原母の定位置なので、出来上がった料理は彼女の前まで運ばなくてはいけない。その際、紅茶を用意するのも忘れなかった。
篠原母は楓に満足そうに微笑みかけると、優雅な所作でカップを手に取る。ふー、と息を吹きかけてから紅茶を口に含む。……なんだこの人。どこの国の貴族だよ。
「なんか、全体的に和食テイストですけど、大丈夫っすか?」
いまいち、紅茶とはミスマッチな気がする。
「この紅茶に合わない料理なんてありませんよ。お気になさらないで」
「はあ」
それもう飯なんて何でもいいってことじゃね? 今日で五日目の付き合いになるが、未だにこの人との上手い距離感が掴めない。楓の実母とはあまりにも性格や雰囲気が違い過ぎて参考にならないので、この人のことはもう諦めた。
諦めてない方、もとい大樹の妹である紗季を起こしにいく。
「起きろー! 朝がきたー!」
布団を被った紗季にのしかかる。相手が男ならラブコメの始まりだがどちらも女である。ゆるい百合が好きな人にしか需要がなさそうだ。
「ぐ……楓さん重いです」
「重くないし。冷めちゃうからご飯早く食べな」
「わー、お兄ちゃんみたいなこと言ってる」
「そこは、お母さんみたい、じゃないんだ……」
あの母親なら納得だが。
紗季は現代の若者にしては珍しく朝に強い。楓なら叩き起こされてもその場だけ目を覚ました振りをしてすぐに布団の中に戻る。そんなことを伝えてみると、
「楓さんも結構朝強くないですか。毎朝ちゃんとご飯作ってくれますし」
「いやあ、人様の家でお世話になっている身だからねえ。これくらいはねえ。ほら、自分尽くすタイプなんで」
楓のセリフがおかしかったのか、紗季が噴き出す。今の返しが冗談であることが伝わるくらいには紗季と仲良くなれたということか。初日は警戒されてしまい、何を言っても本気と捉えられてしまった。
そんな紗季が楓に心を許してくれたのは多分この一言のせいだ。
「勉強とかどうでも良いから、お姉さんとゲームしようぜ」
受験生に向かって発言するには不適切であったかもしれない。実際楓もジョークのつもりだったのだが、紗季はぽかんとした後で嬉しそうにすり寄ってきた。
「そんなこと言われたの、初めてです」
「そうなんだ」
「学校の先生も塾の先生も、お兄ちゃんも、みんな遊ぶ暇があるなら勉強しなさいって言うから」
「……だよなあ」
紗季の夏期講習は朝九時から夜の九時までの時間を拘束する。やれることは限られていた。映画を見たり篠原母を含めてトランプしたりとかその程度のことしか出来ない。それでも紗季は楽しそうにしてくれた。
紗季と向い合せに座りながら、食事をする。紗季はおいしい、おいしいと言ってくれるが楓の心情としては複雑なところだ。どう考えても食材の力が強すぎる。卵の黄身は箸でつまんでも割れないし、肉は口に入れた瞬間に消え失せ、味噌汁の美味さには涙が出た。こういう恩恵を授かるために紗季たちの世話係を引き受けたが、もう元の生活水準に戻れなさそうだ。
「いっそ、本当にここで一生養われたい……」
「あら、楓ちゃんなら歓迎しますよ。これからも一緒に暮らしてほしいです。大ちゃんと結婚したら正式に私の娘になりますし」
「そ、それは駄目!」
篠原母の提案を紗季が一蹴した。言い方が必死なので本心だと窺える。しかし、紗季は楓を目の前にしている事実を思い出し、慌てて弁明に入る。
「あ、えっと、楓さんが嫌とかじゃなくてですね……」
「わかってる。朝日先輩でしょ」
お互いがお互いを意識している癖に、ちっとも進展する様子がない。ここまで来ると面白いとかいう感情よりも、さっさとくっつけやぁ! と苛立ちが込み上げてくる。
「でも楓さんもお姉ちゃんになってほしいし……そっか! 二人ともお兄ちゃんと結婚すればいいんだ!」
「日本が一夫多妻制を認めてないって」
仮にそれがまかり通ったとしても、大樹と結婚などあり得ない。そういう対象じゃない。けど、悠々自適な生活を保障してくれるなら考えてあげてもいいとは思った。
◇
今日は塾が休みらしい。良いことだ。勉強しろ、勉強しろと叱咤する教師陣も休まなければ吠えられない。今日は紗季と一日中遊んでいられる。
携帯を開くとメッセージが届いていた。
――大樹です。その後調子はどうですか? ちゃんと家事やってますか笑 今日の夕方には戻るので、それまでよろしくお願いします。
「業務連絡かっつーの」
っていうか、もう帰ってくるのか。あっという間の日々だから忘れていたがここで過ごせるのは今日で最後だ。もうすっかり愛着あるなこの家……。紗季ともまだ一緒にいたい。
――大樹さ、今日は森崎家に泊まっていきなよ。代わりに篠原家に私が泊まるから。
――いや何意味わかんないこと言ってんの笑 っていうか、俺の家族ちゃんと生きてる? お前も含めて心配なんだけど。
「なんで私も含めるんだよ」
――お前ふざけんなよ、楓様の仕事っぷり神の領域だから。大樹の部屋以外全て掃除が行き届いているから。
――まあ、うん。俺の部屋はどうでもいいけどさ。自分でやるし。
――エロ本とかしっかり隠せよ。なんでベッドの下なんだよ。見つけて欲しかったの?
――ちょっと待てよ!? そんなもんウチにないだろ! ……え、ないよね?
――早く部活戻れよエロ原。
――名前変えんな!
いい感じに大樹で遊んでストレス解消できた。満足げに立ち上がり、意気揚々と掃除を始めて十分後には楓はイラついていた。この家、広すぎる。森崎の家も、実はそこそこ広い部類には入るのだが、あの家の管理は母と姉の領分だ。楓の出る幕はないし、彼らからしたら自分は迷惑でしかないだろうな。
「おっと、くだらねーこと考えた」
無心で作業を進めていき、ようやく全ての部屋に掃除が行き届いた。まだ、昼には早い時間だし、それまで紗季で癒されていようか。彼女は面白い人材だ。
紗季の部屋を訪れると彼女は数学のテキストを開いていた。紗季がイスから立ち上がりかけたが、手でそれを制する。テキストを見てみると今解いているのはどうやら三角形の合同を証明する問題のようだ。
懐かしい。去年までは楓も受験生だったのに、合同条件も相似条件も綺麗さっぱり忘れてしまっていた。人間、どうでもいいと思っていることほど忘れやすいのだ。
時間があるとき、楓は紗季の勉強を見てやっていた。紗季にしてみれば、家にいたまま疑問を解消してくれる先生が出来たような感覚なのだろう。同年代ということも手伝い、塾の講師よりも質問しやすいらしい。
紗季の手は止まっている。むむむ、と唸りながら学校の教科書に手を伸ばそうとするが、楓が遮ると悲痛な顔を浮かべた。それは答えを見ながら解くのと変わらない。
長い時間をかけようやく紗季が問題集をこちらに差し出してきた。
「ABとDFの長さが等しい。その両端の角度も等しいので、△ABCと△DEFは合同である。AED……うん。うん?」
なんだ、AEDって?
「紗季ちゃん、最後のこれは何?」
「えー、楓さんもしかして知らないんですか? 数学の証明で最後にこれをつけると、なんか頭良い感じに見られるらしいですよ。えへへ」
「………」
それQEDじゃねえか。
というツッコミはかろうじて堪えたが、完全には我慢がきかず体がプルプルと震えてしまう。紗季の知識の偏りっぷりを見抜いてから、彼女には驚かされてばかりだ。おかげで楽しい時間を過ごさせてもらっている。
笑いを噛み殺し、楓は毅然たる表情を取り繕った。
「AEDは初心者向けだから、今度からはQEDって書きな。そっちの方が評価点が高くなるから」
「そうなんですか!? 確かにAよりQの方がレベル高そうですね! さすが楓さん!」
どういう思考回路なのか、あっさりと楓の言葉を信じる紗季。ああ、これはもう才能だ。矯正するのがもったいない。しかしこのまま社会に出すと、ろくでもない大人に良いように使われてしまう未来しか……。けどやっぱり……。
楓がひとり、腕組みをしながら葛藤を起こしていると紗季が穏やかな微笑を浮かべていた。一瞬、目を奪われた。ほんと、大樹に似てなくて顔立ちが綺麗に整っている。可愛いなこの子。
「楓さんほんと好き」
「告白されてしまった、だと……!?」
そういう意味じゃないと分かっているが、茶化していないと照れてしまう。
「楓さんがお姉ちゃんにいてくれたらよかったな」
「その場合、大樹とどっちが上なのか」
「えーと……双子?」
「嫌過ぎる……!」
だいたい全然似てねえし!
「ほら……私バカでしょ? 色んな人からよく言われるから、まあまあ自覚してて。でも楓さんはそういう人たちとは違って笑ったりしないもん」
「いや、あの……」
罪悪感半端ない。実はちょっと隠れて面白がってるんですけど。
「ごめん、実はさ……」
素直に謝罪しようとすると首を振られてしまう。
「大丈夫です、悪意はなさそうなので気にしません。それに最後にはちゃんと分かるまで教えてくれるし、理解するまで待ってくれる。そんなのお兄ちゃんの他にはいなかった」
「いいとこあるんだな、君のお兄さんは」
「楓さんもですよー」
無邪気な笑顔が眩しい。この子はどこか抜けているようで、たまに核心に切り込んでくるから怖い。
「何でも知ってるし、面白いし、あと可愛いし頼りになる。会えて本当によかった」
「あー、紗季ちゃんの中で何故か私への評価がうなぎ上りだけど、そんな大した人間じゃないって」
紗季の面倒を根気よく見れるのは、思うところがあるせいだ。もし、楓が受験に成功していたら今とは異なった考えを持っていただろう。それに、自分などあの人に比べたら全く価値がない。
「姉ちゃんの方がずっと頭いいよ」
「楓さんのお姉さん?」
「そ。私より一回りハイスペックな、目の上のたんこぶ」
「え、楓さんの目の上にたんこぶなんて出来てないですよ?」
「いや、今のは慣用句だから……。紗季ちゃんは国語の勉強をした方がいいかな」
間違いを指摘されて赤くなる紗季を目の保養に、楓はとことん彼女のサポートに徹した。自分の勉強でさえこんなに集中したことはないのに、気が付けば昼時を二時間ほど過ぎて篠原母が昼食の催促にやってきた。慌てて支度をして一段落すると、楓のスマートフォンが震えた。
――もうすぐ家!
大樹からの連絡。それはつまり、楓の役目が終わったことを表していた。
「大樹が帰ってくるってさ。男子三日会わざれば括目して見よ、なんて慣用句もあるけど実際どうなんだろうね?」
「月夜さんと付き合うことになってたら、括目する価値もあるかもしれないけど」
「それはないだろうな~」
「ないですよね~」
ほどなくしてインターホンが鳴る。このタイミングなら大樹だろう。紗季が元気よく立ち上がり玄関に向かう。篠原母もゆっくりとした動作で追っていく。大樹も愛されているな、と思わず苦笑してしまう。この五日間を過ごしていて、まざまざと見せ付けられた。この家族は本当に良い。ここは、それが十二分に伝わる場所だ。
――ほんと、私のとは全然違う。




